Route3 ギャンブラー:05
雨の後の湿った空気が、ユキオの体にまとわりつく。垂れ下がった前髪をかきむしり、空を仰いだ。
まだ残る灰色の雲。零れ落ちる白い朝の光が、水溜りを照らしていた。
――終わったんだ。すべて。もう休もう、ユキオ。
確かに聞こえる、光喜の声。ユキオは耳を塞ぎ、ベンチに突っ伏す。
「黙れ黙れ黙れ! お前は、オレの味方だろう!」
ざわつく声は、どんなに遮断しようとしても消えることはない。ユキオの頭の中で響き渡り、反響し、彼の脳内を駆け巡る。
「君、どうしたんだい?」
おそるおそるユキオに手を伸ばして来たのは、通りすがりのサラリーマンだった。黒いコートを羽織ったその男は、心配そうにユキオの顔をのぞきこんだ。
「うるさい!」
とっさに右手が半円を描く。握られたナイフが男のコートをかすり、繊維が舞う。
「ひぃっ」
短い悲鳴を上げ、男は尻餅をついて倒れた。だが、すぐに身を起こし、転がるように逃げていく。
――もう、休むんだ。
――静かに、眠ろう。
「うるさいうるさいうるさい!」
いくつもの声が、ユキオをなだめるように柔らかい声を発する。だが、そんなものはユキオにとっては苦痛でしかない。
もつれる足を奮い立たせ、走り出す。視界がグルグルと回る。酒を浴びるように飲んだ時のような、浮ついた不思議な感覚。夢の中で必死に足を動かそうとしているのと似て、心だけが空回る。
いつの間にか、駅前の通りに着いていた。
通学や通勤の時間なのだろう。早足で歩くスーツの人間、制服の人間が、ユキオの横を通り過ぎてゆく。
「オレは……」
ポケットに残った拳銃とナイフが、重みを増していく。復讐の終わりは、彼に何も残してはくれなかった。
「オレは、強い……。何にも負けないんだ……。誰にも! 誰にも!」
――本当に?
「うるさい、黙れ!」
――本当に強いの?
「オレに逆らうなら、消すぞ!」
こめかみから響く痛みがぞくぞくと全身を打つ。体の底が冷えて、手先がしびれる。
ふと浮かぶ、女の髪。ゆるくウェーブした髪がたなびいて、彼を釘付けにする。強い意志を持ったアーモンド形の目が、ユキオを射抜くように見つめていた。
――自分が強いと思い込んで、自分を守ってるだけ。そんなの、強さなんかじゃない!
それはいつだったか、あの女が言った言葉だった。
総志朗のそばにいたあの女――浅尾梨恵の言葉。
「ちょっと、ねえ。どうしたの?」
目の前の長い髪が動いて、ユキオに向かってくる。
「麻薬でもやってんの?」
梨恵に似た波打つ髪。だが、別人だ。濃い化粧が施された目は狐のよう。真っ赤な唇は血で染められているかのようだった。
なのに、梨恵の姿と重なる。女の後ろに、梨恵の顔がだぶついて見える。
――あなた、総志朗が怖いんだ?
幻に過ぎない。目の前の女は、梨恵ではない。わかっているのに、わかっていても、梨恵の挑戦的な瞳が、彼を追い詰める。
「ねえ、大丈夫なの? 薬ほしいなら、売ってあげるよ。おいでよ」
女の手がユキオの手を掴み、引っ張る。そのまま路地裏に隠れると、女は楽しそうに笑った。
「朝っぱらから大声出したらさ、警察に捕まるよ。楽になれる薬、探してんじゃないの? 相談にのってやってもいいよ」
視界がたわむ。ゴムをのばしたり縮まらせたりするように、世界が様相を変える。
――私、あんたのことをわかりたい。つらいことも苦しいことも、わかりたいの。
梨恵の伸びやかな優しい声が重なる。いつだったか、総志朗に与えられた梨恵の優しさ。
包み込むように、支えるように、総志朗のそばにそれはあった。
「――あの女さえ」
「え?」
「あの女さえいなければ! こんなことにはならなかった!」
目の前にいるのは、誰なのか。ユキオにはわからない。目の端でふわふわと動く髪が、煩わしい。手に持った銃がうなり声を上げる。黒く聳え立ったビルとビルの間を音だけが通り過ぎて、空に向かって放たれていく。
溢れ出す赤が、彼の目の前を染めて――彼は雄たけびを上げた。
『ごめんなさい。私、ちゃんと見張ってなきゃいけなかったのに』
電話の向こうで、梨恵の落ち込んだ声が聞こえる。学登は梨恵には聞こえないようにため息をついて、「大丈夫だ」とだけつぶやいた。
梨恵と総志朗をふたりきりにしてやりたかった。それが危険かもしれないことはわかっていたが、ユキオは一度表に出ればほぼ一日顔を出さないことは調査済みだったし、光喜やその他の人格達が梨恵を守るだろうと予想していた。
『ただいま入ったニュースです。今日七時頃、S駅近くで発砲事件が起き、一人が意識不明の重体、二人がナイフで切りつけられ軽傷を――』
学登ははっとして顔をあげた。つけっ放しにしていたテレビから流れてきたニュースに胸騒ぎが起きる。
『犯人の行方はわかっておりません。白いシャツを着た二十代の男性の逃走する姿が目撃されており――』
「ユキオ……!」
恐れていたことが現実になろうとしている。いや、なってしまった。
復讐を終えたユキオが向かう先。行き着いた末路。それは、最悪の事態だった。
「梨恵ちゃん、ユキオを探すぞ! 警察より早く、ユキオを見つけなければ」
梨恵のうなずく声が、受話器の向こうから聞こえた。
この世の中に、本当に強いものなんて、あるのかな。
どんなに強いものにも、必ず弱いところがあって。
だからこそ、弱いものにも、強さがある。
隠されたその力が、きっと救いになるんだ。
それこそが、あなたの力。




