Route3 ギャンブラー:04
「あなたの……望みはないの?」
窓の向こうに広がる空には黒い雲が垂れ込める。星さえ見えない厚い雲は、先ほどの雨をもう一度降らせようとその量を増してゆく。
梨恵の震える手が、光喜の濡れたシャツを掴んだ。じっとりと湿ったシャツ越しに、彼の温もりを感じる。
「俺の望み? もう、叶えた。ユキオの願いを叶えた」
「それは、あなたの本当の望みじゃない。ユキオの望みに答えただけ。あなたの、あなた自身の、あなただけの望みが、あるでしょう?」
とくとくと流れる血の音が、梨恵の手に伝わってくる。
言いようの無い悲しみが梨恵の胸を支配して、苦しくなる。息が上手く吸えない。
光喜の手が梨恵の濡れた髪になぞるようにして触れた。
「――もう一度だけ」
名残惜しそうに零れ落ちていく髪の毛。そこから落ちる水は、まるで涙のように光喜の腕を滑っていく。
「なに?」
オッドアイが揺れる。淡いグリーンを湛えて、闇夜に浮かぶ。
「……触れていいか?」
「もう、触ってるじゃない」
梨恵は思わず笑いながら、彼の手をつかんだ。少し冷えていた。
「俺のことを、許さなくていい。一生、恨んでいい。俺は、なにひとつ、後悔してない」
光喜の頬にそっと触れる。懐かしさが溢れ返る。ずっと昔に見た、優しい光喜の目。嘲笑を湛えたその瞳はどこかいつも寂しそうで苦しそうで、見つめるたびに胸が痛んだ。
光喜は、梨恵を騙した。
愛していないと、そう言った。
けれど、彼の本心はもっと別なものだと、梨恵はこの瞬間気付いてしまった。いや、ずっとわかっていた。わかっていたのに、目をそらし続けた真実。
これ以上傷つきたくないと、自分の罪と向き合うことを恐れた。心はずっと彼に向いていたのに。
「……一生、許さない」
「それでいい」
「ずっと胸に刻んで生きる。光喜のことが好き。だから、許さない。後悔なんて、しなくていいの」
永遠に消えない傷として刻み込む。そうして、彼との思い出を忘れずにいたい。梨恵は彼の体を抱きしめ、願う。
この夜が、最後にならないようにと。
白い光線が、まぶた越しに朝を告げる。
身を起こして、毛布を体に巻きつけた。つけっぱなしのエアコンのせいで、唇がかさかさになっていた。
隣にいたはずの光喜の姿はもうそこにはなく、温もりさえ残っていなかった。
枕元に一枚のメモ用紙が置かれていることに気付く。
『関谷唯子に伝言を。横浜へ』
走り書きで、それだけ書かれていた。
目の前が、たわんで見える。
ゆるゆると波に揺れる世界。
彼の行動は――別れの儀式のようでもあった。
「私、あなたたち全員が、一人の人間だったら良かったのにって、そう思うよ。ううん。私にとっては、たった一人の人間だったの――」
すべてが黒で塗りつぶされた世界。歪みのような誰にも立ち入れない闇。
ずっとずっと昔、そこに閉じ込められていた。
闇の中でうっすらと浮かぶ映像は、陽炎のようにたゆたう。
「そうだ……オレはこの人に育てられた」
心配そうに彼を見つめる理知的な目。養母である澤村麻紀子の顔が現れて、消えていった。
――いつか必ず、あなたを必要としてくれる子は現れるわ。
「あなたの言うとおりだ。本当に、いたよ」
彼はつぶやいて、胸に手を当てる。
大切なことを教えようとしてくれた彼の養母。彼女の言葉は、『彼』には届かなかったけれど、彼には届いていた。
『彼』――ユキオに伝わらなかった言葉たちは、積もり積もって彼の心となった。
だから、彼は生まれた。
「お前のやるべきことを、やるんだ」
遠くから響いてくる声。彼は顔をあげる。星が瞬くように、ずっとずっと上の方に光が見えた。
「オレの、やるべきこと……」
光に導かれる。彼は重たい体を起こした。その時が来たのを知った。終わらせる時が来たことに気付いた。
「うるさい! うるさいうるさいうるさい!」
耳鳴りが消えず、ユキオは跳ね起きた。寝汗をびっしょりかいている。知らぬ間に、公園のベンチで寝ていたらしい。
「飲み込んだのに……消したはずなのに! なんでてめえが顔を出すんだ!」
朝の冷気がしっとりとユキオの体にまとわりつく。朝方までふらつき、疲れてベンチで休んでいたことをようやく思い出した。
「くそ……。すべて終わらせたのに、なんでこんなに……」
復讐はすべて終わった。渇望してきたものを叶えた。やっと叶えたのだ。なのに、心は満たされない。北風が心の中にまで吹き荒れて、潤う何かがそこにはなかった。
「そうだ……全部、終わったんだ。オレは……この先、何を」
何をすればいいのだろう。降って湧いた疑問はあっという間に全身を貫く。
復讐をを終えた今、彼にはもうやることはなにひとつ残されてなどいなかった。
――終わったんだ、ユキオ。
誰かの言葉が、彼の脳裏に響いた。
『人格』ではなく。
『人間』なのだと。
光喜も、総志朗も、明君も統吾君も。ユキオだって。
ただ一人の人間でしかなかった。
だから、愛したんだよ。
異性として、友達として、家族として、人として。
愛していたんだ。