Route3 ギャンブラー:02
暗雲から零れ落ちてくる雨粒がどんどん大きくなっていく。
一度空を見上げた唯子は、篤利を一瞥して走り出した。追いかけようとした篤利だが、梨恵の車が向かってくるのを目の端で捉えて、歩を止めた。
唯子のことは気がかりだが、それよりも総志朗のことのほうがずっと大事だ。梨恵が車を動かしたということは、学登から連絡が来たはず。
闇に溶けていく唯子の後姿を名残惜しく思いながら見送り、裏口のすぐそばに止まった車に向かう。
「梨恵さん、連絡、来たの?」
助手席に乗り込みながら問いかけると、梨恵はまっすぐ前を見たまま、うなずいた。
「唯子ちゃん、よね? 今の子」
「うん」
「そう」とだけ言って、梨恵はそれ以上何も聞いてはこなかった。こわばった表情が、それどころではないと訴えている。
雨が車の窓を叩く。花が咲いたように広がる雨粒を睨みつけ、梨恵は奥歯を噛み締めていた。
「学ちゃん!」
裏口から人影がぬっと現れた。長身の黒髪があっという間に雨に濡れていく。その後ろでキャラメル色の髪が揺れていた。
「総志朗……!」
小さく叫んで、梨恵は車から飛び出す。
篤利も車から体を出すと、総志朗をじっと眺めた。あれは総志朗なのだろうか。違う人格なのだろうか。篤利には判断がつかない。
頭垂れた彼の表情は篤利の位置からは見えない。駆け寄りたいとも思ったが、人形のように動きの少ない総志朗が不気味に思えて、篤利は動くことが出来なかった。
「俺が運転する。梨恵ちゃんは明と一緒に後ろに乗ってくれ」
「うん」
学登の言葉で、篤利は彼が総志朗ではないのだと理解する。梨恵はそれに最初から気付いていたようで、学登の発言に驚いた様子なく、明の手を引いて車に乗り込んでいる。
ユキオの中にいる人格たちの違いを、篤利もまざまざと見せつけられた気がした。総志朗はあんなにも近付きやすかったのに、今、目の前にいる男は、誰も寄せ付けないバリアを張り巡らせているように思える。
後部座席のドアがバタンと閉じる音がして、篤利も慌てて車に戻った。
それを確認して、学登はアクセルを踏む。
「……梨恵さん、ケータイ、借りていい?」
ぼそぼそとした聞き取りづらい声。明の問いかけに、梨恵は携帯電話を差し出した。
受け取った明はすぐに電話をかけ、「その内戻るから、待機してて」とだけ言って電話を切った。
おそらくは、唯子への連絡だったのだろう。
車内はその会話を最後に、静寂に包まれる。
ワイパーの擦れる音と雨粒が窓ガラスに当たる音、車の走行音がやけに大きく聞こえた。
雨の湿気が車の中にまで入り込んでいる。エアコンからぬるい風が漏れる。
明の口から、ふっとため息がこぼれた。
「……どこに行くの」
ハンドルを握る学登が明の問いに答える。
「組に戻る。その後は、海外に行く。明、逃げるんだ。まだ指名手配になっていない今なら、逃げられる」
降り続く雨でぬらぬらと光る道路。車のライトの光が反射して、目を眩ませる。
「俺は、お前たちを父親代わりだ。お前たちにとって最善の策を取りたい。海外に行って、やり直そう。大丈夫だ。俺がついていく」
考えてもいなかった海外逃亡という提案に、梨恵と篤利は言葉をなくし、二人の会話を聞いているしかなかった。
明自身も考えていなかったことだったのだろう。ずっと下を向いていた顔をあげ、ルームミラーに映る学登を見つめていた。
「治療をするんだ、明。総志朗を主人格に戻して、もう一度、やり直そう」
学登の目線と明の目線が、ルームミラー越しでかち合う。
「明」
「……逃げる気は、無いよ」
前方を気にしつつも、学登は斜め後ろに座る明をちらりと見た。
「何、言ってるんだ」
「あの爆弾は、警察を呼び寄せるためにやったんだ」
「は!?」
成り行きを見守っていた篤利だがつい大声を漏らし、慌てて自分の手で口を塞ぎつつ、後ろにいる明を凝視した。
明はすっと視線を下げ、膝に置いた両手を開く。わずかに震えていた。
「……人をたくさん殺した」
小さな明の声が、車内で重く響き渡る。
「もう、復讐は終わった」
目の前の信号機が赤へと変わる。雨に濡れた道路が、赤い色に染まっていた。
「ユキオには爆弾を使って派手にやろうって言っただけだ。けど、爆弾を使う本当の目的は違う。警察を呼び寄せて、顔をばらすためだった」
黒岩さんが来てしまったから失敗したけど、とつけ加えて、明は目を閉じた。
「捕まってもよかった。終わりにするために」
信号は青に変わったのに、学登は車を動かさない。深夜の車通りが少ない時間。咎める者はいない。
強くうなる雨音が、耳の奥に響いていく。
ハンドルを握った学登の手に血管が浮き出ていた。
「じゃあ、俺の家に残したあのメモは……なんだったんだ! 俺は……お前たちがまた総志朗として生きようとしてるから、あんなメモを残したんだと思ったんだぞ!」
明が学登のマンションに訪れた日。彼らが去った後、一枚の紙が床に落ちていた。そこに記されていたのは、彼らの計画の一部始終。
ユキオの人格たちの、悪あがきだった。
『ユキオをだます。殺されたふりをしてほしい』
彼らがこの数年、いずれ来るこの日のために練っていた計画だった。
「ユキオを騙すってのは、何だったんだ!? 警察に捕まるためか!? 何のために殺されたふりをさせた!?」
ハンドルを握りしめた拳で叩く。
「まだ、話せない」
明の手が強く握りしめられていた。うつむいて唇を噛んでいるのが、篤利の位置からはわかった。
何か言おうと口を開きかけ、姿勢を正す。前を向いた篤利の目に、ずっと続く真っ黒な道が映った。
「抑制力がほしいんだ。ユキオはきっとまた人を殺す。警察に追われれば、人を殺さないですむかもしれない」
「で、でも……」
隣で黙って聞いていた梨恵が、明の肩を掴んで揺らした。彼に言い聞かせるように、必死に。
「復讐は終わったんでしょう? もう人を殺す理由なんて無くなったじゃない」
明の視線が梨恵を突き刺す。鋭いその目が訴えるのは悲しい現実だった。
「本当に、これが最後だと思う?」
梨恵が息を飲んだのがわかった。明の肩から手をはずし、押し黙る。
「あんな風に人を殺す人間がもう誰も殺さないと、どうして言える? 終わらない。絶対に」
それでも。
これが終わりだと信じたかった。
全ては終わったのだから、もう決着はついたのだから。
戻れるのだと、信じたかった。
そんなこと、ありえないのに。