Route2 ルーレット:08
車の運転席に座った梨恵は、窓に落下し円を描く雨水をぼんやりと眺めていた。
しとしとと降る雨音をBGM代わりに、学登の連絡を待つ。
香塚病院の裏口近くの林。その脇に停めた車からは、林の向こうの裏口が見える。
「……学ちゃん、遅いね」
ハンドルを指でトントンと叩く。
後部座席に座った篤利は、「黒岩さんと別れて、まだ五分も立ってないよ」と呆れた声を出した。
「私も行ってこようかな」
「だめだって」
「少しだけ、覗くだけ」
「だめだって。車、すぐに出せるようにしとかないと」
大きなため息をついて、ハンドルに顎をのせる。雨が強くなってきたのか、窓に張り付く丸い水が大きさを増した。
「誰か、出てきたわ」
病院の裏口から、人影がちらつく。雨水でよく見えない視界をクリアにしようと、梨恵はワイパーを動かした。
半円を描いたワイパーが人影の姿をはっきりさせる。それを見た瞬間、ふんぞり返って座っていた篤利が、身を乗り出した。
「関谷唯子……!」
ユキオの行方を探していた篤利が、手がかりとして見つけ出した人物――関谷唯子。一度だけしか会ったことはないが、その姿ははっきりと覚えていた。
長いミルクティ色の髪。奈緒と似たタレ目の大きな目。折れそうな細い手足。
「梨恵さん、オレ、ちょっと行ってくる」
「え? どこに?」
「もし黒岩さんから連絡来たら、オレのこと置いてっていいから」
「え? ちょ、篤利く……! もしかして、あの子、ユキオの彼女の……」
梨恵の返事も待たずに、篤利は車から飛び出し、勢いよくドアを閉めた。そのまま林の中に入り込み、裏口から出てきた女――関谷唯子を追いかけるため、走り出す。
そぼ降る雨が目に入ってくる。まばたきを繰り返し、それでも力強く地面を蹴る。
水分を含んだ地面が弾け、泥が篤利のジーンズを汚すが、そんなものを気にする余裕は無い。
唯子はきょろきょろとあたりをうかがった後、走り出した。
慌てて、篤利も速度を速める。篤利の足音に気付いたのか、唯子が視線を向けてきた。かみ合う視線。唯子が「あ」と声を漏らしたのが、その口の形でわかった。
「唯子さん!」
名を叫ぶ。唯子はびくりを顔を歪め、一瞬の間のあと、踵を返して走り出した。
だが、男の篤利の方が足は速い。あっという間に距離を縮め、篤利は唯子の服をつかんだ。
「関谷、唯子さん、だろ?」
肩で息をしながら呼びかける。唯子は体を震わせながら振り返り、涙でにじんだ目を篤利に向けてきた。
「あんた、ユキオの居場所聞いてきた、ガキ……」
「ガキって。たいして歳変わんないだろ」
あがった息を整えるため、長い息を吐き出す。
「手、離してよ」
「逃げるだろ」
「逃げない」
きっぱりと言い放たれて、篤利は強くつかんでいた唯子のチュニックから手を離した。唯子は逃げる様子なく、体を篤利の方へと向けてくる。
「こんなところで、何してんの?」
篤利の問いに、唯子はぎゅっと目をつぶった。
「ユキオを助けに来たの?」
「ユキオは捕まったんじゃない。だから、助ける必要なんて無い」
雨水が唯子の長い髪をたどって、ぽたぽたと地面を叩く。小花柄のチュニックは雨に濡れ、濃い藍色に色を変色させていた。
「爆発騒ぎはユキオがしでかしたってことか?」
「それ以外ある?」
嘲笑を浮かべる唯子。篤利は唯子の影にユキオの姿を垣間見た気がして、ぶるりと震えた。
「助ける必要が無いなら、なんで唯子さんはここにいる?」
「それに答える必要なんてあるの」
「じゃあ、なんでそんな泣きそうな顔してんだよ」
唯子の顔が一瞬にして強張り、顔を隠すようにその手を目の前にかざす。篤利は唯子の目をじっと見つめ、けしてそらそうとしない。
「……復讐に加担して、何が悪いの」
耐え切れず、唯子の方が目線をはずした。
「あたしだって、実の親に捨てられた! いらないって、産みたくなかったって言われて、捨てられたんだ! ユキオの憎しみは、あたしが一番よくわかるんだよ! これは……」
黒々と湿ったアスファルトに降ろされた唯子の目が、鋭利な光を放ち、再び篤利に向かう。相手を射抜く、鋭い瞳。篤利はただ目を見開き、唯子をじっと見つめていた。
「これは、あたしにとっても復讐なんだ……! 人を人だと思わない、最低な大人に、あたしとユキオが、鉄槌を下してやるんだ!」
水のはねる音がする。一歩歩み出た唯子の足が、地面を固く踏みつける。
「じゃあ! あんたは、あんたとは関係無い人間を殺すのを手助けしたってことか!? そんなの、間違ってる!」
「ユキオが好きだから! どんなことしてでも、そばにいたいの!」
叫びのような唯子の声は、空しく反響する。そぼ降る雨音が、唯子の嗚咽をかき消した。
「復讐して何が悪いの!? やられたことをやり返してるだけ! 汚い大人に、泥を投げつけてるだけだ! 元から汚いんだから、これ以上汚れることなんてない! あんなやつら、死んじまえばいいんだ!」
振り絞られる声。自分に言い聞かせるような言葉の数々を、篤利は唖然として聞き入ることしか出来ない。
咆哮をあげる獣のように喚き散らす唯子は、濡れた体を両手で抱いて、ひたすらに自己弁護の言葉を連ねる。
その雑言が止まった瞬間、篤利はぼそりとつぶやいた。
「後悔してんじゃねえの? 自分がしたこと……」
唯子の目からは涙が溢れ、雨と共に頬を流れ落ちる。
篤利を捉え、固まる瞳。一瞬にして、力を失っていく。
「一人に、なりたくない……」
篤利の目の前で、膝から崩れ落ちていく。思わず差し出してしまった手を、篤利は引っ込めることが出来ず、座り込んだ唯子の頭にそっと触れた。
「こ……怖かった。怖かったの。でも、捨てられたくなくて。同じだったから。ユキオとあたし。抱えてたもの、同じだったから」
髪の毛から落ちる雨が煩わしい。篤利は頭をぶんぶんと振って雨水を跳ね飛ばし、冷えた体から吐き出される白い吐息に目をやった。
「サチさん、あんたのこと、心配してた。一人じゃねえよ」
舞い上がる息は、空気に溶けて消えていく。
「あんたの帰り、待ってる」
待ってる。
あなたの帰りを、待ってる。
温かい紅茶を用意して。
ストーブのにおいに溢れた部屋で。
待ち続けてる。