Route2 ルーレット:01
何度目かのコール音。唯子は身を起こそうとして、長い髪を自分の腕で踏んづけてしまった。ピンと伸びた髪の毛がつっかえ棒となって、首がぎしりと痛む。
ぼやけた視界をそのままに携帯電話をつかむ。薄暗い室内。今が朝方なのか夕方なのかもわからない。
「もしもし」
かすれた声を押し出す。
一瞬の沈黙。寝ぼけた思考回路は、この沈黙に苛立ちを示した。
尖った口調で「もしもし」ともう一度声をかける。
『あんた、関谷唯子?』
携帯電話の向こうから聞こえてくる声は、聞いたこともない男の声だった。
「……そうだけど、あんたは誰よ」
『あのさ、あんた、ユキオの恋人なんだろ?』
声のトーンや話し方で、男がまだ若い年齢だということだけは察しがついた。それがよけいに腹立たしさをあおる。
「先にあたしの質問に答えなよ。あんたは誰」
『大山幸穂の友達』
大山幸穂。少し前まで唯子が住んでいたアパートの下の階の住人で、ずいぶん仲良くさせてもらっていた。
「そっか。サチの友達……。サチ、元気?」
キャバクラで働く幸穂は明るく社交的なさばけた女だった。唯子にも優しくしてくれた。急に懐かしさがこみあがて、声がゆるんだ。
『あんた達が帰ってくるの待ってるって。笑顔で帰ってきてって言ってたよ』
電話の向こうの声が優しさを帯びる。
唯子は幸穂の顔を思い出し泣きそうになりながら、「そう」とだけつぶやいた。
『幸穂から預かったものがあるんだけど、どっかで会えない?』
「預かったもの?」
『部屋に忘れていっただろ?』
何を忘れたのか、思い出せない。首をひねる。
「忘れ物って?」
『人のものを勝手に見れないから、中身は知らないよ』
そう言われて、確かに、とうなずく。
「わかった。明日、渋谷駅で会おう」
「ああ、そうだね。君は実の母親を殺した。それで、実験に携わった医者達を殺し? 私を殺すのかい? その後は、君は何を殺すんだい?」
蓄えた灰色の髭をなで、香塚はにやにやと笑う。目の前にいるユキオに全く恐怖を覚えていない余裕しゃくしゃくの表情。
ユキオはいらつく気持ちを抑えながら、じりじりと少しずつ足を動かす。毛の短い絨毯が小さな悲鳴をあげる。
「瀬尾直子。覚えているかい?」
まだ総志朗が主人格だった頃、ユキオの存在を確かめるために香塚が総志朗の元に依頼人として送り込んだ女。
この女も、ユキオによって殺害されていた。
「彼女は実験に関わっていない。なのに、君は彼女を殺した。なぜだい?」
ユキオは少しずつあごを引いて、香塚を睨む目を鋭くしていく。
「見せしめにでもしたつもりだろう? 少しでも自分に関わった者は殺す、そう伝えたかったんだろう?」
何もかもわかっているのだ、とうすら笑う香塚。口元にあふれた泡が、彼の興奮を表していた。
気持ち悪い顔だ、と心の中で毒づき、奥歯を噛み締める。
殺意が炎のように目の前をちらつく。炎は、まるで血のりのようにのっぺりと視界を赤くする。
「君の考えなど手に取るようにわかる。所詮君は、私の手の平の上で泳いでいるだけだ」
「てめえ……」
押さえきれない、赤黒い炎。握りしめた手の平に爪が食い込む。
殺せ殺せと、腹の底から地獄の使者が甘い言葉をささやいてくる。
「君がここに来てくれて嬉しいよ。今度はもう二度と歩き回れないようにしよう。アジの開きのように腹を広げてやってもいい。その脳みそをかき出して、殺人鬼の脳を調べてみるのもいいかもしれない」
「ふざけんじゃねえ!」
怒りは抑えきれない。ふくらみすぎた風船が破裂する瞬間のようだった。
ユキオは爪を立てる猫のようにひるがえり、香塚に飛びつこうとした。
その一瞬。ずきりと肩に痛みが走る。
はっとして後ろを振り返ったユキオが見たのは、銃をかまえたスーツの男。
「安心しなさい。麻酔銃だ」
「て、めえ」
「一人で君を待つほど、お人好しじゃないよ、私は」
むき出しにされた黄色い歯。
ユキオはかすれていく意識の底で、香塚の気色悪い顔だけを睨み続けた。
目が覚めると、そこは灰色のコンクリの壁に囲まれた質素な部屋だった。
見覚えがある。そう、そこはユキオがこの病院に軟禁されていた頃に使っていた部屋だったのだ。
パイプベッドとカタカタと揺れる座りの悪い椅子。さびた小さなテーブル。
小さすぎる窓は外が見えないように加工してあるガラスのため、ぼんやりとしている。
ここに住んでいた当時よりもずいぶん狭くなったように感じるのは、年月がたち、あの頃より体が大きくなったせいなのだろうか。
カチリ、と鍵が開く音がする。振り返り、ユキオは身を固くした。
「目覚めたかい? ユキオ。少しは頭も冷えただろう?」
「……俺はユキオじゃない」
「ほう。他の人格だったか」
両脇に立つボディガード。その間で香塚は薄い一重まぶたをより細める。一歩、室内に入り、満足そうに笑う。
「君は鳥かごの中の鳥に過ぎない。どんなにあがいても、私にはひれ伏すしかない。ここで大人しく一生を終えるがいい。なあ、君。どの人格だかは知らんが」
「俺は統吾だ!」
「どの人格であろうと、どうでもいい」
鼻で笑い、香塚は後ろに手を組みながら、こつこつと革靴を鳴らして部屋を歩き始める。
統吾はそれを目で追いながら、ふっと笑った。
「あんたは気付いてない」
「なにを?」
「鳥かごに鳥なんて、もういない」
統吾は両手を広げ、ポンッとベッドの上を跳ねた。
「もう、空の上だ」
消えない憎しみは、あなたを業火で焼き尽くした。
あなたはその業火に自ら飛び込んで――
涙を流す。