Route1 復讐:06
「あのくそ女が!」
ユキオはアスファルトの壁を思い切り殴った。じりじりと響いてくる痛みは、よけいに怒りを増幅させる。
壁についた血のりがずるりと擦れて、拳から血がにじみ出ていたことに気付く。
東京に来てからというもの、他の人格達がユキオの意思に反する行動を起こしていることが腹立たしい。
倦怠感と疲労感で一日まるごと寝てしまうことが多いユキオにとって、他の人格達が好き勝手することが許しがたいが、止める術がない。
それが苛立ちとなって、うずまく。
消したと思っていた総志朗が、未だくすぶっていることがなにより許せない。
完全に消し去ることが出来なくても、完膚なきまでに叩きのめしたはずだった。この数年間、総志朗の影が見えることがあっても、それは砂漠の中の一粒のような、在って無いようなものだったのだ。
「あの女……!」
羽島メンタルクリニックを退院したあと、何年も行方をくらませたのは、香塚に復讐するためだった。
香塚がユキオの目覚めを警戒し、動いていたことを知っている。
ほとぼりが冷めたころに、獲物を狙うライオンのように音も無く忍び寄り、香塚の息の根を止めるつもりだった。
だから、三年以上、待ったのだ。
今が好機と東京に出てきて気付いたことは、総志朗の存在。
日増しに彼はその存在を主張してくる。いつまでも伸びていく影のように。
気付かぬ内に、背中に、彼の存在を感じる。
ユキオが出した結論。
この東京には、あの女の匂いがつきまとう。
だから、総志朗が目を覚ます。
あの女――浅尾梨恵。
「ユキオ」
暗闇からぬっと顔を出したのは、ユキオの恋人、関谷唯子だった。長いストレートの髪をなでながら、不安げな声をあげる。
「梨恵さんの居場所がわかったよ。黒岩学登の親戚の暴力団……加倉組がかくまってる」
「ふうん」
ユキオは口の端だけをゆがめて笑うと、拳に残った血をべろりとなめた。
「どうすんの? 暴力団なんて襲えるわけない」
「なんで?」
「なんでって、そんなの考えなくてもわかるでしょ」
喉を鳴らして笑う。はりついた不気味な笑みがより深くなっていく。
「ゲームはこうでなくちゃつまらねえ。よけい楽しくなったよ」
加倉組に世話になって一週間。まだ何も起こらない。
学登は張りつめた一日一日を過ごしながら、警戒を怠らないよう気を引き締め続ける。
明が学登の住むマンションにやって来たあの日。
彼が帰った後、床に一枚の紙が落ちていることに気付いた。
そこに書かれた、計画の一部始終。
ユキオの人格達の願いが刻まれたその紙を、学登はお守りのように毎日握りしめる。
『その日』は必ず来る。それは学登にとって最大の恐怖であり、覚悟を決めざる負えない日でもある。
死ぬ覚悟は出来ている。
それだけのことをしてしまった。
だが、その日がやはり怖い。震える拳を握りしめ、ぐっと目をつぶる。
すべてが終わる日が来ないことを願いながら。彼への悔恨をその手にこめて。
大きな日本家屋とそれを囲む風情漂う和式の壁。敷地は相当広く、どこまでもどこまでも壁が続く。
学登と梨恵、浩人がかくまわれたその場所から少し離れた場所に、一台の車が停まっていた。
レンタカーの白いミニバンはすでに薄汚れ、雨の跡がくっきりと残る。
運転席に唯子が、助手席にユキオが座していた。
足元で、拳銃に弾丸を装填し、ユキオは人形のようなグリーンの瞳を瞬かせる。
「どうすんの?」
門には四人もの屈強な男が待機し、時折巡回なのか、男たちがうろうろしている。
あきらかにユキオを警戒した態勢を取っている。
だが、ユキオは愉快そうに笑うだけで、動揺など一切していない。
「つっこもうぜ」
「はあ?」
「あの女は奥の部屋なんだろ」
「調べたかんじではそうだけど……」
「車でつっこむ」
いたずらを思いついた子どものような笑みを浮かべ、銃をすっとかまえた。
「邪魔するやつは殺すだけだ」
「馬鹿じゃないの。四面楚歌状態になって蜂の巣になるだけだよ」
あまりに無鉄砲なユキオの提案に、唯子はタレ目がちの目を大きく見開き、ついでに口もあんぐりと開けてしまった。
「大丈夫だ。やつら、どうせオレを殺せない」
「どこから来る自信?」
「黒岩学登が、オレたちを殺すとは思えない」
唯子は大きなため息をつき、サイドブレーキを戻した。
「知らないからね。死んでも」
エンジンがうなる。アクセルが踏まれると同時に、ギュルギュルと地面がうなり声を上げ、車は一気に加速する。
急激にかかった重力で体をシートに押し付けながら、ユキオを楽しそうに咆哮をあげた。
あの日向けられた拳銃。
そこには冷たい空気だけが漂っていた。
痛みと叫び声と、あなたの笑い声。
耳に残って離れない。
殺される――初めて知った、恐怖。




