Route1 復讐:03
夜の湿った風が頬をなでていった。
真冬だというのに、今日はやけに気持ち悪い風が吹く。鈍色の霧があたりを包み、道沿いに立つ水銀灯の光を淡いものに変える。
寒さでわずかに震える手。手袋をつけてこなかったことを後悔しながら、マフラーを口元までずりあげる。
吐息が布の中でこもって、口元だけがほわりと温かくなる。
梨恵はなかなか動こうとしない足に無理やり活を入れ、そっとゆっくりと歩みだした。
水銀灯の光だけが揺らめく公園。
薄くもやのかかった空気をかき分け、遊歩道を歩いていく。
――五年前。彼との依頼が終わりを迎えた場所。
まだ二一歳だった梨恵が依頼したのは、自分の命をかけたゲームだった。
命をかけた――それは戯言で、本当はただの遊び。初めて出会った彼をからかってやりたくて、そうすることで自分の寂しさを紛らわせたくて依頼したゲーム。
三日間、自殺しようとする自分を止めろという、なんともつまらないゲームは、この場所であっけなく終焉を迎えた。
篤利から総志朗の伝言を聞いたのは昨日の夜だった。
篤利は電話越しで「オレが勝った場所で会おう」と言っていた、と上ずった声でわめいた。
何を言っているかわからなかったのは数分のことで、勢いよくドアを開けたように記憶が飛び出してきた。
――ねえ、人は死んだら、どこに行くと思う?
――オレは、無になるだけだと思うな。体も心も、存在も、無に還るんだ。
五年前の記憶は鮮明な色を放ち、梨恵の心の大部分を占めてゆく。
――それって、寂しくない? ……消えちゃうってことだよ?
――別に。だって、オレは……
あの時、彼は言葉を濁し、その先は言わなかった。
彼の穏やかな、けれどあまりに寂しそうな笑顔は、決して忘れることが出来ない。
一歩、一歩。
あの場所に近付いていく。
真っ白な月は傘をかぶり、ぼやけた姿を見せる。
コートの襟をつかみ、吐き出す白い息をマフラーの底に隠す。
「……総志朗」
木の影になって見えないベンチ。
公園の時計が真正面にあるベンチで、五年前、梨恵と総志朗は語らった。
心臓はバクバクと音を立て、手には汗がじとりと沁みる。
月明かりは霧のせいでふわふわと揺らいで、幻想的な空間を作り出す。
時計は、かちりと、十二時をさした。
「――……っ」
出そうとした声は、白い息となって消えた。
影が、月明かりでその黒さを浮き彫りにする。
どこからか、笑い声が聞こえた。酔っ払いの声か、妙にはしゃいでいる。
そっと差し出す手は、壊れものを手に取る時のようにわずかに震える。
影が、揺れた。
「――見つけた……、総志朗」
何かが弾けて、体は彼を抱いていた。確かめるように、離したくないと。
「……梨恵」
ベンチに座った彼を立ったまま抱きしめる梨恵。彼はそっと手をのばし、くしゃりとその髪をかいた。
そのまま、ぎゅっと梨恵を抱きしめる。
かすかな甘酸っぱい香りを確かめて、お互いの温もりを確認しあう。
生きていたのだと、ここにいるのだと、何度も何度も確かめたくて、手に力がこもっていく。
「私の負けだね……」
「何が?」
笑う彼の吐息で、髪が揺れる。
「忘れたの? 賭けをしたでしょ? 総志朗が生きるか死ぬかの賭け」
「ああ、そういえば」
くぐもった彼の声を梨恵は耳に感じて、緊張が和らいでいくのを感じた。
この声は、間違いなく、彼――総志朗だ。
「これで良かったの。負けてよかったのよ。それでいいの」
総志朗が死ねば、光喜が手に入る。総志朗が生きれば、光喜は手に入らない。そんな賭け。欲しかったものは、総志朗を犠牲にすることで得られるものではない。これで、良かったのだ。
「会えてよかった……」
失ったと思ったものは、まだちゃんと残っていた。この声も、この瞳も、この体も。総志朗という人間は、ちゃんとここにいる。
梨恵は涙をこらえることが出来ず、大粒の涙を幾筋も幾筋も流した。
「寒いね」
「寒いな」
ぴったりと寄り添いあい、手をつなぐ。繋がった手の平だけは確かに温かく、それは手から心へと伝わって、胸の内に柔らかな光を注ぐ。
「ごめんね」
「何が?」
「ひどいこと、言ったじゃない、四年前。総志朗のこと、いなくなれって言ったのよ」
「ああ、そんなこともあったけなー」
明るい総志朗の声も、落ち込む梨恵には空しく聞こえるだけ。
「本当に、ごめんね……」
「しおらしい梨恵さんなんて、梨恵さんらしくねえな」
挑発するのに、梨恵は乗ってこない。総志朗は鼻の頭をポリポリかいて、苦笑した。
「確かに、さ。傷ついたし、消える覚悟もしたよ」
そう言って笑う総志朗には、悲壮感は無い。
「ゆっくりと闇に落ちて、真っ暗な中で何も見えなくなった。聞こえなくなったし、考えることも出来ないほど……疲れてた気がする」
遠い過去を省みるその目は、おぼろげな月を仰ぐ。
「なんでだろう。オレが消えてなくなりそうになる時に限って、梨恵の声が聞こえてくるんだ。大丈夫、大丈夫って、オレに呼びかけてくる」
降り注ぐ月の光は、闇夜に咲いて、ちらちらと輝く。
「暗い穴の底で叫んでるオレに、梨恵はいつも気付いてくれる。見つけてくれたんだ」
「……うん」
つないだ手が離せない。温もりはお互いの心を通い合わせる。
「梨恵の声は異様にでかくて、うとうとしてると二日酔いみたいにガンガン頭に響いたよ」
「なによ、それ!」
「言ってだろ? 総志朗は弱くなんかない! とか、あの家に帰ってきてよ! とか」
「――聞こえてたのね!」
意地悪そうににっと笑って、総志朗は「うるさかった」とつぶやいた。
梨恵は思わず、総志朗のくせっけ頭をぺチンと叩く。
「私、必死だったんだからね!」
「わかってるよ。だから、こうやって、オレはここにいられた」
総志朗の目が月の光を浴びて、緑色を煌めかせる。
「ありがとう、梨恵」
「でも、追いつめたのは、私だから」
「それでもだよ。梨恵さん。ありがとう」
梨恵の手をそっと離し、立ち上がる総志朗。
凛とした背中は、たくましさを増しているように思えて、梨恵は目を細めた。
「どうしても伝えたかった」
振り返り笑う彼は、やっぱり昔と変わらず、どこか寂しそうだった。梨恵は胸がくっと痛くなって、コートの胸の部分をつかむ。
「オレは、加倉総志朗として生まれて、生きて、加倉総志朗っていう人間を創りあげたんだ。オレは、オレだ。ただ一人の、人間なんだ」
「総志朗……」
「……梨恵さんに会えて良かった」
見上げる梨恵のその額に、総志朗はそっと口付けを落とした。
柔らかな感触は梨恵の額に熱を残し、確固たる思いを伝える。
「最後の賭けだ」
「え?」
総志朗は「もう一度頑張ってみるよ」と不敵に笑った。
総志朗の言葉の意味はわからなかったが、梨恵は「うん」とうなずいていた。
「大丈夫。私がついてる。きっと、勝てるわ」
あなたに会えて良かった。
それは、私の言葉。
あなたに会えたことが、私のこれまで人生の中の一番の幸せ。