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   Beginning   

 ふくらみ始めたお腹をなで、梨恵はエコー写真に見入る。

 お腹にいる赤ん坊の性別がはっきりとわかるエコー写真。男の子だ。

 骸骨が映りこんだ心霊写真みたいなエコー写真なのに、梨恵にはかわいく思えてしょうがない。

 少しずつ成長していることが、お腹が大きくなるにつれ比例してよくわかってくる。

 愛せないかもしれないとあんなに悩んでいたのに、成長をエコー写真で眺めるうちに、愛しさが湧いてくるから不思議だ。

 反対して怒り狂った母も、最近は何も言わない。逆にエコー写真を見たがる。面白くなさそうな顔をしているが、気になって仕方ないのだろう。

 父にいたっては、「俺が父親の代わりになるから安心しろ」とまで言ってくれた。

 両親には、「父親は死んだ」とだけしか告げていない。けれど、詮索はしてこない。知りたくないのかもしれない。



 夏はもうすぐ終わりを告げる。夕暮れの時間は、騒がしかったアブラゼミやミンミンゼミは声を潜めだし、代わりにツクツクボウシやヒグラシが声高に叫ぶ。

 セミの声は、まだまだ夏が続くように錯覚させる。

 体にあまり良くない気がして消しているクーラー。おかげで室内は湿った暑さを充満させているが、窓から時折吹いてくる夜を告げる風のおかげで、居心地は良い。

 うちわをくゆらせながら、梨恵はそっと目を閉じる。


 ユキオには、羽島に追い出されたあの日以来会えていない。

 何度か病院に行ったが、いつも門前払いをくらう。その度に病院の裏側に回りこんで、閉鎖病棟のユキオの病室を下から眺めた。

 いつも四、五センチ開いている窓。

 あの窓の向こうにユキオがいる。

 会いたい気持ちが募る。一目でもいい。そう思って、ずっと窓の下に佇んでも、彼の姿を見ることは叶わなかった。


 春は終わりを告げ、夏が来て、そして夏も終わろうとしている。

 梨恵は父が紹介してくれると言っていた私立中学の面接試験を、ついこの間受けてきた。

 ふくらみ始めていた腹をスーツではごまかすことは出来ないことはわかっていたが、子どもを自分の手で育てたかった。

 自分で稼げるようになっていたかった。

 父に何度も頭を下げ、父も何度も頭を下げて、妊娠しているというのに、教師の採用試験を受けさせてもらった。

 結果はまだわからない。

 けれど、教師になりたいという情熱は、ありったけぶつけてきたつもりだ。

 大学の方は、もう卒業に必要な単位は取り終えていたため、週に一、二度通う程度だ。妊娠してはいても、通えないわけではない。卒業は出来る。


 電話の音が、物思いにふけっていた梨恵を現実に連れ戻す。

 麻紀子からの電話かと思い、梨恵はゆっくりと立ち上がった。

 麻紀子は週に何度もユキオの近況を梨恵に電話で教えてくれるのだ。


「もしもし、浅尾です」


 電話の向こうは、がやがやと騒がしい。相手の声が聞き取れず、梨恵は「もしもし?」と聞き直した。


『な、えちゃん?』


 途切れ途切れに聞こえた声は、麻紀子の声だった。外向き用のワントーン高い声をいつもの調子に変えて、梨恵は「先生」と呼びかける。


『聞こえる? ちょっと電波が悪くて』

「聞こえますよ」


 ざ、ざ、とノイズのような音が入り混じるが、麻紀子の声ははっきりと聞こえる。

 焦りを含んだ上ずった声は、重い現実を引きずり出した。


『ユキオ、明日退院するの』








「梨恵さん!」


 駅で待ち合わせていた篤利と落ち合う。いつものように黒いキャップを目深にかぶった篤利は、じれったそうに梨恵に手を振っている。


「遅いよ」

「時間通りじゃない」

「オレ、あせりすぎて、早く来すぎたんだ」


 篤利は眉間にこれでもか深いしわを寄せ、梨恵を置いて歩き始める。


「学ちゃんは?」


 篤利の背中に問いかける。篤利は振り返りもせずに「仕事だから来れないって」と大きな声で答えた。

 ホームに着くと、良いタイミングで「電車が来る」というアナウンスが流れてくる。

 大きな風を巻き起こしながら滑り込んでくる電車。

 ラッシュの時間を避けるために、始発に近い電車に乗ることにした梨恵と篤利は、椅子に座ることが出来た。


「退院てことは、多重人格、治ったのかな」

「……そうとは思えないけど」


 べったりと張り付いた不安は、拭い去ることが出来ない。







 羽島メンタルクリニックにたどり着いた梨恵と篤利。ユキオを迎えに行く麻紀子に病院まで一緒に連れてきてもらった梨恵と篤利は、病院の入り口のそばでユキオを待っていた。

 麻紀子は、手続きをするとかで、病院の奥へ行ってしまった。

 10時くらいに退院の手続きは終わると聞いていたが、時計はもう11時近くになっている。

 不安が吐き気のように込み上げて、最近は無くなっていたつわりがぶり返したかのよう。

 喉がひりひりするのをなんとか耐えて、梨恵はユキオを待ち続ける。


「あ!」


 篤利の声で、梨恵は顔を上げた。病院のガラス戸から、ユキオと麻紀子の影が見えた。


「総志朗!」


 喜びのあまり、駆け出す篤利。

 だが、ユキオは据わった目を遠くに向けて、篤利を無視する。

 一歩、一歩。

 近付く、梨恵とユキオの距離。

 ユキオの後ろを、麻紀子が不安そうに歩く。


「総志朗……」


 意を決して、梨恵は自らユキオへと歩を進めた。

 距離は縮まっていくのに、なぜだか、よけいに遠く感じる。

 ユキオはぎらぎらと照りだした太陽を見上げ、小さく笑った。

 穏やかな笑顔。今までユキオがどの人格なのかすぐにわかったのに、この笑顔が誰なのか、梨恵にはわからなかった。

 今まで一度も見たことがない、きれいさっぱりとした笑顔だったから。


「――あなたは」


 息を飲む。呼びかけた声が耳に反響して、梨恵は今声を出したのが自分ではないような錯覚を覚える。


「あなたは誰なの?」


 息継ぎもしないで、問いかける。

 彼は、梨恵にそっと視線を向けた。

 淡いグリーンが混じる、不思議な瞳。


 乾いた唇を風がよけいにかさかさにする。


「――オレは、オレだよ」







 去りゆくユキオの後姿を、羽島宗久は病院の入り口からぼんやりと眺めていた。

 持っていたファイルを持つ手に力がこもる。


「――私は間違ったことをしている。だが、どうにも出来ない……。彼がどんなに恐ろしいか……近い内にわかるだろう……」











 あなたを、信じてる。

 信じてる。なにがあっても。



 This tale cleared.Next tale……復讐





明日(3月5日)0時〜2時ごろ、「はじめての×××。」企画参加作品「空に落ちる。」を投稿する予定です。


Web拍手にて予告を掲載しています。

(ライオンの子次回予告とはじめて企画参加作品の予告をランダムで表示しています)

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