A current scene12 廻る歯車
題名に「A current scene」とつくものは、現在(梨恵26歳)のストーリーです。
A current scene11までの簡単なあらすじ
総志朗の行方を探す篤利は、唯子の友人までたどり着く。
一方、梨恵は光喜と会って、話すのだが……
今回の話は、残酷な描写があります。
苦手な方はご注意下さい。
「だから俺は、あれほどユキオを消してくれと頼んだんだ。あの嘆願書を無視した香塚が悪いんだ!」
男は小声でぶつぶつとつぶやきながら、あたりを伺う。
住宅街は物音ひとつせず、予想以上に自分の声が反響していたことに気付き、男は口を手で覆った。
真っ暗な闇の中、街灯がポツポツと光る。ほとんどの人間が睡眠に入ってしまっている時間。灯っている家の明かりはごくわずかだ。
車に乗り込み、もう一度右左と目を動かす。
男は、久保達正といって、香塚総合病院で働く医師の一人だ。
ユキオの人体実験に関わった四人の医師たちの内の、一人。
ここ最近のニュースは久保を恐怖に陥れた。
ユキオに関わった医師や看護師が、もう三人も殺されている。犯人が誰かなんて、もうわかりきっていることだった。
「ユキオ……やっぱりあいつは目を覚ましたんだ!」
子どもだから大丈夫だと思えた、あの頃とは違う。ユキオはもう立派な大人で、力で敵うとは思えない。
殺意を隠さない緑色を帯びた瞳は、睨みつけられただけでぞっとしたことを思い出す。
「次は俺だ……」
久保は恐怖の真っ只中で、限界に達していた。
上司である香塚には、ユキオのことを通報してはいけないと強く言われていた。
もしユキオを告発し、ユキオが捕まったら、香塚のしてきた残酷な人体実験が世間にばれてしまうだろう。
それだけは防がないといけないと、ユキオをおびきよせて秘密裏に殺す、と香塚は久保に言い聞かせていた。
久保もそれを了承していたが、恐怖をもうこらえることが出来ず、すべてを吐いてしまおうと、警察に行こうとしていた。
おそらく、人体実験に関わった久保自身も罪に問われるだろう。
だが、殺されてしまうよりはましだ。
エンジンは静かな住宅街で騒音を撒き散らし、ゆっくりと進み始める。
「う、わ!」
自宅の駐車場から車の頭を出した時だった。いきなり人が車の前を横切り、車の前で倒れたのだ。
久保は轢いてしまったのかと思い、慌てて車から這い出る。
こんな時に――
車のドアを閉めようとする手が震える。その震えは気付くと足にまで及んでいて、うまく歩くことが出来ない。
「だ、だいじょう、ぶですか?」
車の前に倒れた、髪の長い若い女。声まで震わせながら、久保は女に手を貸そうと一歩踏み出した時だった。
「はあ〜い。俺のこと、覚えてる?」
こめかみにあてがわれた冷たい感触が、全身をびりびりと貫いてゆく。
「お、おま、え! ユキ……!」
手の甲を熱線が走る。「ひっ」と短く悲鳴をあげ、久保は手からあふれ出す血を唖然と眺めた。
男の右手に握られていたのは、闇夜を照らす鋭利な刃物。左手には拳銃が握られ、照準は久保へと向けられていた。
「夜中に奇声上げるなんて、近所迷惑も甚だしいね」
心底愉快そうに、男はにやにやと笑う。
久保が最後に会ったころよりもずいぶん大人になったその男。くせのかかった髪は肩の辺りまで伸び、黒いシャツを纏った姿はまるで、死神のようだった。
彼の周りだけ、有刺鉄線が張り巡らされているかのよう。
近付くだけで、刺し貫かれ、死んでしまうような気がして、久保は動くことも出来ない。
人体実験をしていたあの頃よりも、ずっとずっと闇をひきずり纏うようになったその男――
「ユ、ユキオ、許してくれ! 俺は俺は……!」
「許してほしかったら、三回まわってワンって言えよ」
久保の着ていた白いTシャツが、ザクリと裂け、腹から血が一筋零れ落ちた。
何の前触れもなく、ユキオはナイフを動かす。
「あ…、うああ!」
「ほら、三回まわれって」
銃をちょいちょいと動かし、久保をからかってくる。
「ひ、ひいい」
がたがたと膝が笑って、体がうまく動かない。だが、久保は殺されたくない一心で、いびつな円を描いてまわり、「わ、わん」と声を震わせた。
「うわっかっこわる。ほんとにやるかよ、普通」
口元を歪ませ、久保を嘲笑う。
「や、やったんだ。殺さないで、殺さないでくれ」
「ここほれわんわんって言ったら殺さない」
完全に馬鹿にしたユキオの態度に、かっと頭に血が上る。一瞬、拳に力が戻った。
久保は強く握った拳を振るい、ユキオにつかみかかろうとした。
「早く言えっつーの」
膝をえぐる、火傷のような痛み。投げられたナイフが、深々と膝の上に刺さっていた。
「ぎゃああああああ!」
ナイフをつかみ、久保は悶えて道路を転がる。
「ここほれわんわん、言わねえの?」
見下ろすユキオの輪郭が街灯の下でぼんやりと浮き上がった。
「こ、こ、ここ、ほれ、わん……」
「まじで言うかね。だっせーの」
久保の目の前を鋭い光と爆発するような破裂音がよぎっていった。
喉の奥から鉄臭い液体が溢れ出す。
ユキオの持った拳銃からゆらゆらと漂う硝煙が、月明かりに反射していた。
「死ね、くそが」
ユキオは満足そうに笑い、拳銃を懐にしまう。
「とっととずらかるぞ、唯子」
車の前で座っていた唯子は長い髪を揺らしながら走り、広がっていく血だまりを避け、ユキオにしがみついた。
収穫と言っていいほどの収穫も得られず、篤利はとぼとぼと家路を急いでいた。
ユキオの彼女だという唯子。その友達の幸穂から、唯子の携帯電話の番号を聞き出すことは出来たが、唯子が電話に出ることはなかった。
このまま総志朗の行方さえもわからないまま終わるのか、そう思うだけで、篤利の頭はどんどん下を向いていく。
「篤利君!」
自分の名を呼ぶ声に、篤利は重い頭を上げた。
篤利の家のすぐそばに、その女は立っていた。ゆるいウエーブのかかった長い髪、意志の強そうなアーモンド型の目。大人っぽくはなっていたけれど、あの頃のままの梨恵が、そこにいた。
「久しぶり! 篤利君に会いたくて、来たの。会えてよかった」
桃色の唇から、真っ白な歯が見える。まぶしいくらいの懐かしい笑顔に、篤利も笑顔になっていた。
「おっきくなったね。でも、変わってない。生意気なそのつり目とか」
「お世辞でもかっこよくなったね、とか言うべきだろ」
「じゃあ、私にもきれいになったねって言うべきでしょ」
軽口を叩く梨恵を前に、暗く沈んでいた気持ちが一気に浮上してゆく。
「梨恵さん、変わってねえし」
「それはそれで嬉しいわ。まだ二十歳前半に見えるってことよね」
四年前と変わらない、あの頃のままの梨恵に会えたことが素直に嬉しい半面、篤利は四年前の幻影を重ねて見ているような気になる。
梨恵と会わなくなって四年。その四年の間、総志朗はどこにも存在しない。
「篤利君、総志朗のあの事件のこと、知ってるでしょ」
梨恵の顔が急に険しくなる。篤利も、触れてはいけないと思っていた話題が飛び出たことで緊張が体を走る。
「調べてるんじゃないの? 総志朗のこと」
「なんで知ってんの」
「勘」
勘かよ、とぼやき、篤利は大きなため息を吐いた。
「唯子ちゃんのこと、わかった?」
「な、なんで唯子のことまでわかんの!」
「勘」
勘かよ、とまたぼやく。
「私も、ユキオのこと、もう一度探りたいの。このまま彼らを放っておくなんて出来ない。協力、してくれないかな」
「で、でも、梨恵さんには子どももいるんだよ! ユキオが危ないやつだってわかってんだろ!? 子どものためにも、関わっちゃ……」
「私、逃げないわよ」
篤利の言葉をさえぎる梨恵の言葉は力強く、篤利は返す言葉も見つからず、その強い眼差しに見入ってしまった。
凛とした、まっすぐな梨恵の姿に、羨望のような感情が沸き起こる。
「これは、私がやらなきゃいけないことだわ。総志朗を取り戻すの」
唾を飲み込み、篤利は深くうなずいていた。
「わかった。オレ、協力するよ」
あの時。
解決出来ぬままに終わった、総志朗を巡る五人の人格たちの事件が、四年の歳月を経て、動き出す。
歯車は、静かに噛み合った。