Recollection5 本物は闇から来る:06
優喜の精神状態は悪く、母親との面会を強く願い出た。
だが、当の母親は優喜を刺した罪に問われ、留置所に入れられている。
日に日に憔悴していく優喜を見かねた警察病院側は、優喜と母である百合子の面会を特別に許可した。
被疑者となっている百合子は手枷をつけられ、優喜の病室へと訪れた。
「相馬さん、息子さんですよ」
付き添いの警察官が百合子の背中を押す。
百合子はぼんやりと中空を見つめ、時折キョトキョトと目を動かすが、優喜の姿は彼女の視界には入っていないようだった。
優喜を刺し、取り押さえられた百合子はその後、精神を病んでしまった。もともとその気はあったのだが、優喜を刺したという事実が彼女の心の病をあっという間に悪化させてしまったのだ。
「お母さん!」
百合子に向かって、優喜は嗚咽交じりの声をあげる。
やっと会えたのに、母は自分を見てはくれない。
「お母さん!」
もう一度叫ぶと、百合子はにごった目をやっと優喜に向けた。
「――光喜?」
「え……違うよ。僕は優喜だよ」
優喜に向けられたと思われた視線は、優喜を飛び越え、その先の、はるか遠くを追っていく。
母親の様子がおかしいことに気付いた優喜は困惑を隠しきれず、母に向かって差し出した手をそっと下ろした。
「光喜、光喜、ごめんね。お母さん、優喜を殺しちゃったの……」
優喜の手が、数センチ動き、また止まる。握りしめた拳から力がすっと抜けていった。
「お母さんも早く優喜のところに行かなきゃいけないのに……みんな邪魔するの。早く優喜のところに行かなきゃ。あの子、寂しがってるもの」
戸惑いで揺れていた優喜の目が、少しずつ少しずつ一点を見据え始める。鋭く磨かれた刃が、その目に宿る。
「お母さん、わかっていたのよ。優喜が寂しがってたこと。心が寂しいって泣いてたこと、知ってたのよ」
百合子は独り言のように言葉を紡ぎ続ける。焦点があっていない百合子の目は幻想の世界を彷徨っていた。
「母さん、俺は、あんたの本当の息子じゃない。あんたが大事にしてた息子なんて、もうどこにもいないんだよ」
ためらいがちにのばした手は、手枷をつけられた百合子の乾燥した手に触れた。カサカサの手には、ほんのりと温もりが残っていた。
「今まで騙していて、ごめん」
じりじりと指先からほのかな痛みが走る。寒い場所から急に暖かい場所へ移動した時に感じる、暖かさへの痛みに似ている。
鼻の先がつんと痛い。
「どうして、謝るの?」
百合子が、まっすぐに優喜を見据えていた。
「光喜が死んで……優喜は変わってしまったね。まるで別人みたいになっちゃったね……。そうね、優喜じゃ、なかったね」
百合子の黒い瞳に優喜の姿が映る。百合子のその目は、優しい光で満ちていた。包み込まれていくような感覚がめまいを起こす。
優喜は一歩前へ踏み出ると、母の肩に額を落とした。
頭をなでる、百合子の手。どこかで嗅いだ甘いミルクのような香りが鼻先をくすぐった。
「ねえ、優喜。あなたがあなたじゃなかったとしても、私たち、光喜が死んでからもずっと親子として生きてきたじゃない。あなたは、私の、大事な息子なのよ」
世界で一番大切なの、と百合子はささやく。
子どもをあやす時のように、百合子の手は、いつまでも優喜の頭をなぜ続ける。
優喜はそっと目をつぶった。まぶたがじんわりと熱くなる。
「見つけられないと、思ったのに」
つぶった目の隙間から、溢れ出る。この思いは、ずっと探してきたものだった。
「誰にも、認めてもらえないと思ってた」
真っ暗な闇の向こうで、笑う男。もうひとりの自分。ユキオ。彼を救うために生きてきた。そのためだけに生きてきた。
終わりを迎えたその時、この手には何も残っていなかった。
空しさだけが、カラカラと心の中で音を立てた。
「そんなに泣いて。まだまだ子どもねえ」
百合子の言葉で、ようやく自分が泣いていたことに気付いた。ハハ、と小さく笑い、そっと顔を上げた。
「ありがとう……母さん」
あなたがいて良かった、心の中でつぶやき、母の肩を両手で包む。思っていた以上に細い肩は、そこに負った苦労を思わせた。
「俺、もう眠らなければいけないんだ。母さん、どうか優喜をよろしく頼む」
本物の優喜は、その手が血に染まったことすら知らない。これからの彼の人生を思うと、優喜は少しだけ心が痛んだ。
間違ったことをしたとは思っていない。こうするしかなかった。
だからこそ、何の関係も無い本物の優喜が幸せになれることを願っていた。
「優喜のこと、大切にしてあげてくれ」
懇願は、声を震わせる。
「大丈夫よ。心配しないで」
そこにいたのは、紛れもない優喜の母。百合子は母親としての強さを取り戻したかのように、毅然とした表情で優喜を見ていた。
「俺は、眠っていいかな……」
「疲れたんでしょう? ゆっくり休みなさい。頑張ったものね。ね……よく眠って、疲れを癒して」
閉じた瞳。そのまぶたの向こう。影が見える。ゆらゆらとたわむ、虹の色。ぐんと高くなった青空は、少しひんやりと冷たかったけれど。
手を取ってくれた誰かの手は確かに温かくて。
離したくないと、ぎゅっと握りしめた。
「おやすみなさい、もうひとりの優喜……」
子守唄が聞こえる。いつのことだったのか、誰だったのか。これは、彼自身の記憶なのか。追い求めた幻想なのか。
彼にはわからない。
けれど、彼はその心地良い温もりにそっと身を委ね、まぶたを落とした。
「お休み」
彼は小さくつぶやいた。
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