Recollection5 本物は闇から来る:04
「秘密ですからね」
黒い髪をお団子にした看護師に連れられ、学登と篤利は警察病院のこの病室へと訪れた。
面会謝絶とされる彼の病室に、看護師を買収して無理やり忍び込んだのだ。
「もしもばれたら大変なことになりますから、私もここにいます。いいですね?」
化粧っけのない顔を厳しくして辺りを伺う看護師に、学登は札束の入った封筒を手渡す。ぱっと頬を紅潮させた看護師は、両手で封筒をつかんだ。
「病室の外で見張ってもらっていいですか?」
顎に生えた髭をなでながら学登が問うと、看護師は封筒に見入ったままうなずいた。
そっと病室のドアを開く。
音もなく開いたドアを、彼は目を丸くして見つめていた。
「……初めましてになってしまうのかな、優喜」
学登の問いかけに、彼はぽかんと口を開いた。
氷のような冷たい目をした相馬優喜は、そこにはいなかった。
学登が誰であるのか、篤利が誰であるのか、今の状況であるとか、すべてを把握していない、困惑した瞳。
戸惑いと怯えがないまぜになったその目には、優喜の持つ鋭さはどこにもなかった。
「誰?」
震える声を発する彼の姿に、篤利も戸惑いを隠せない。
木漏れ日の下で、文庫本を片手に篤利を待っていた、あの時の優喜の姿が、篤利の脳裏をよぎっていく。
「もう一人の君に、会いたいんだ」
学登の言葉の意味を理解していないのだろう。
彼は眉をしかめ、首をひねる。
少し開いていたドアを、篤利は慌てて閉める。外で待っている看護師に話を聞かれるわけにはいかない気がした。
「もう、ひとりの、僕……」
彼は自分に言い聞かせるように、自分の胸に手を置く。そうして、もう一度つぶやいた。
「もうひとりの僕……」
学登の目が一瞬、後ろにいる篤利を捉える。合図するような目線。篤利はその意味をなんとなく理解して、うなずいた。
「――俺に、何の用? 黒岩さん」
ゆっくりとまばたきをした彼は、その眼球を学登へと向けた。ぎょろりと動いたその目は、鋭い刃物のような鋭利な輝きを放つ。
「ユキオの片割れの優喜だな?」
学登のハスキーな声が、静かな病室に浸透していく。優喜は薄い唇を歪ませ、ニタリと笑った。
「そうだよ、黒岩さん」
クツクツと喉を鳴らし、苦しそうに笑う彼。
「なぜ、警察に捕まった? お前なら完全犯罪にすることだって出来たはずだ」
「――俺の役目は終わった」
片方の唇だけをあげて、皮肉いっぱいの笑みを絶やさない。
篤利は学登の後ろの隠れ、彼の姿を目に焼き付けていた。
寂しそうに見えた。悲しそうに見えた。嘆いているように聞こえた。すべてを、捨て去ろうとしているように思えた。
「俺の役目は、ユキオを主人格に戻すために、総志朗を消すことだった。……総志朗は消えた。俺のやることは、もう無い」
学登を睨んでいた彼の視線が、布団に投げ出された自身の手に落ちる。
「この体も、この心も、『優喜』に返す時が来たんだ」
「優喜に返すって……」
彼の黒髪が、さらさらとこぼれてゆく。下を向いてしまった彼の表情は見えない。
陰鬱とした室内の空気は、篤利の胃を圧迫する。
「俺は『本物の相馬優喜』の心を飲み込んで侵食した、ユキオの片割れだ。俺は、相馬優喜じゃない」
陰った室内は、優喜を影に追いやる。灰色に染まった世界で、彼は今にも消えてしまいそうな空気を淡々と吐き出していた。
「しょせん、俺もスケープゴート。総志朗と同じ。どんなにあがいても、本物にはなれない」
それは、彼らの運命のようでもあった。
本物を喰らって生まれた偽者は本物にすべてを返さなければならない――そんな運命。
篤利も学登も発するべき言葉を見つけられず、ただ息を吸う。重いだけの空気は、肺を苦しくさせるだけだった。
「そろそろ、いいですか?」
ドア越しに看護師の声。学登は「はい」と小声でうなずき、もう一度、優喜を見た。
今にも消えてしまいそうな彼は、それでも研ぎ澄ました刃をその目に宿す。
「言っておくよ、黒岩さん。俺たちは、わかっているんだ。俺も光喜もユキオも、本当はわかってる。俺たちは、だからこそ、彼を消した」
「どういう……」
疑問を投げかけようとする学登の声をさえぎり、彼は低い声でつぶやく。外の喧騒に飲み込まれてしまいそうな小さな声は、それでも学登と篤利の耳にしっかりと入っていった。
「どこかで、望んでいたのかもしれない。憎しみを忘れて、平穏で平凡な日々に身を委ねたかったのかもしれない。……それが、出来たら、良かった」
その手は握りしめられ、小刻みに揺れる。彼は目をつぶり、唇をかんだ。
「怖かっただけだ。この憎しみを忘れたら、俺の存在意義は無くなってしまうから――」
窓の外でもくもくと広がる雲間から、光が舞い落ちる。白い光線はビル群を真っ白に染め、濃淡を濃くしていく。
篤利は、その光景を息も出来ずに眺めていた。
「早くしてください!」
看護師の焦った声に、学登はゆっくりと踵を返した。篤利も慌てて学登を追う。
優喜に背を向けてドアに手をかけ、そこでやっと振り返る。
雲の隙間から漏れた光はいつの間にか消えうせ、そこにはぼんやりとした薄墨色が広がっているだけだった。
「優喜……」
灰色の世界で灰色に飲まれる優喜の姿。寂しさが去来し、篤利は涙をこらえる。
奈緒を殺し、総志朗を追いつめた、何もかもを面白がっているような優喜の姿はもういない。
少しずつ壊れていくフィルムの画像を追っているような、ジリジリとした焦燥感は、胸の中を駆けめぐり、やがて、散る。
「篤利、行くぞ」
すでに部屋の外に出ていた学登の呼ぶ声で、篤利は我に返る。そして、もう一度、優喜を見た。
「さよーなら、優喜」
ドアに手をかけ、優喜に呼びかける。二度と会えない気がしたから。
彼は目だけを動かして篤利を見ると、ニヤリと笑ってみせた。
「さようなら」
とても空が高くて、雲ひとつ無い晴天の空。
僕は僕を失った。
なんだか哀しくて、嬉しくて、でも、苦しかった。
空がとても遠いから――
きっと、何も手に入らない気がしたんだ。
はじめての×××企画に参加することにしました。
なるべくこちらの更新頻度は保っていこうと思いますが、週一更新の週が増えることになりそうです。
申し訳ありません。
はじめての×××企画、少しでも共感をいただけるような作品を書けるように頑張ります。
応援してくださると嬉しいです。