Recollection5 本物は闇から来る:03
土日を利用して羽島メンタルクリニックに訪れた梨恵は、麻紀子の家に一晩泊まり、次の日の日曜もユキオの病室を訪れた。
もうすぐ初夏を迎えるこの季節の新緑のまぶしさや太陽の暖かさに、梨恵は目を細めながらロビーを歩いていた。
「浅尾さん」
呼び止める声に、足を止める。院長の羽島が廊下の片隅に立っていた。
「あ、こんにちは」
「ちょっと話があるんだ。いいかな?」
羽島の表情は険しい。眉の間には深い皺が入り、梨恵を見る目は鋭い。
胸の中に煙たいものが広がっていく。梨恵は小さく息を飲み込んで、羽島の問いにうなずいた。
受付の奥に続く廊下は太陽の光を受けるロビーに比べ薄暗く、どことなく空気が淀んでいる。梨恵はバッグを胸の前でぎゅっと抱きしめた。
「こっちだよ」
診察室と書かれたプレートの下がったドアを開けて、羽島が手招く。梨恵がおずおずと中に踏み込むと、ユキオがテーブルの前に座っていた。
「ユキオ君……」
額に汗がにじむ。そこにいるユキオが、明でも統吾でも総志朗でも無いと、梨恵には瞬時にわかってしまった。
肌がピリピリする殺気だった空気。この雰囲気を持つのは光喜だ。だが、ユキオの左目はいつものまま。光喜が現れた時はグリーンが濃く出るというのに、その目は何の変化も無い。
「あなたは……」
光喜よりも冷たいその目を前に、梨恵は一歩後ずさる。冷凍庫に閉じ込められたような気分だ。
「君に会いたくないと、彼らが言ってるんだよ」
ドアの閉じられる音が鼓膜を叩く。梨恵ははっとして振り返り、羽島を見た。
羽島は手に持ったファイルを広げながら、ユキオのいるテーブルへと移動する。
薄暗い廊下とは対照的に、この部屋は日の光が存分に差し込み、明るい。白い壁と白い天井は光を反射し、統一された白い家具は、この部屋を外界から区切られた全く別の空間のように思わせた。
「統吾君も明君も君がいるとつらいんだそうだ。もちろん、ユキオ君もそう言ってる」
部屋の正面に置かれた四角いテーブルで、両肘をついて梨恵を見るユキオ。
挑戦的に睨みつけてくる彼を、梨恵はぐっと睨み返した。
「どういう、ことですか」
問いかけは、羽島ではなく、ユキオに向かう。だが、ユキオはニタニタと薄笑いを浮かべるだけで、何も答えない。
「君、私の診察に難癖つけてるんだって? ユキオ君から聞いたよ。それが彼らにはつらいことだし、私にとっても迷惑な話だ」
「私、そんなこと……」
「梨恵さん」
彼はテーブルから身を乗り出し、目を細めて楽しそうに梨恵をあざ笑った。
「総志朗を取り戻したいんでしょ? だけどさ、彼はオレの中に戻ってくれたんだ。オレは普通に生きるために、少しずつこの病気を克服していってる。オレが主人格として生きるんだ」
これからずっと、彼はつぶやく。
わなわなと唇が震え、それを隠すために梨恵は手で唇を覆った。
「羽島先生のおかげで、オレはオレとして生きられるように頑張っているのに、君が邪魔をする」
「ユキオ……!」
磨き上げられた床を靴で踏みしめ、梨恵は彼に詰め寄った。
ユキオは動じる様子すらない。
「目的はわかってるんだから! そうやって、私を追い出して、総志朗をもう二度と現れないようにしたいんでしょ! 昨日、総志朗に会えたわ! だから、おびえてるのね!」
勢いよくテーブルを叩く。響き渡る音に、外にいた鳥が羽ばたいていった。
木々の揺れる音、鳥の羽音が室内に木霊して、やがて沈黙が戻る。
「……羽島先生は、どうして彼の言うとおりにするんですか? 私を追い出して、どうしたいんですか? 彼が危険な人格であることは、澤村先生から聞いてるでしょう?!」
「私の診察では、彼からは残虐性は見られなかった。彼が基本人格であるなら、基本人格である彼を救うのが私の役割だ」
「そんな……!」
梨恵を見る羽島の目は軽蔑で染まっている。梨恵を疎ましく思っていることがあからさまに顔に出ていた。
「治療の邪魔なんだよ、浅尾さん」
「治療なんて! 彼のことをちっともわかっていないくせに! どこが治療出来ているの! 彼は演技しているだけだわ! ここを早く出たいから! 彼の本当の姿を見てよ!」
怒りのあまり、言葉が荒れてゆく。梨恵は奥歯をかみ、何度も息を吸い込む。歯の隙間から漏れる息の音が鼓動を大きくする。
「君のような素人にとやかく言われる筋合いはない。とにかく、もうここには来るな。いいね?」
羽島の言葉も怒りを帯びている。額の血管がひくつき、梨恵を血走った目で睨みつけていた。
「……私がいると、総志朗が目覚めるかもしれないから、怖いんでしょ」
ユキオに視線を戻す。
「あなた、総志朗が怖いんだ? 光喜が総志朗を消すのを待っていたのは、総志朗が怖かったからじゃないの?」
ゆっくりと瞬きした彼の目が、梨恵を見上げた。何も映さないにごった瞳。どこまでもそこの見えない井戸をのぞいたような感覚に襲われ、梨恵は怖くなる。
「怖い?」
テーブルに片手をつき、彼はゆらりと立ち上がった。
今まで彼を見下ろしていた梨恵だが、今度は彼を見上げることになる。
「あんな弱っちい馬鹿をオレが怖がっているって?」
梨恵に歩み寄ってくる彼。梨恵は足を踏ん張り、手を強く握る。逃げたくない。何があっても。
「んなわけあるか。バッカじゃねえの!」
「総志朗は弱くなんかない!」
声を大きくすることで、逃げ出したい衝動を押さえ込む。負けるわけにはいかないと、梨恵は波打つ心臓の音を聞こえないふりする。
ユキオから吐き出される殺気は、梨恵を喰いつくすとばかりに迫ってくる。
怖い。足を一歩でも後ろに下げたら、そのまま逃げ出してしまいそうだった。
「あなたは、総志朗を弱さだと決め付けて、逃げてるだけだわ! 自分が強いと思い込んで、自分を守ってるだけ。彼を蔑むことで、向き合おうとしないで、自分の憎しみだけを追い続ける。そんなの、強さなんかじゃない!」
足が震え、それは全身にまで上ってくる。負けない、そう心の中で何度もつぶやき、ユキオを見据える。
「総志朗、聞いてるでしょ? 聞こえてるんでしょ? 私の声、聞いてよ。私、総志朗と一緒にいたいよ。戻ってきてよ。私のところに戻ってきてよ。ねえ、私、あんたといる時間が、本当に好きだったんだよ。あの家に帰ってきてよ。総志朗!」
「うるさい!」
乾いた音が梨恵の言葉をさえぎった。一瞬何が起こったかわからず、梨恵は頭を振る。床に尻をつき、倒れていた。
くらくらとめまいがする。口の中が鉄臭さで充満していた。
ジンジンと頭に響いてくる熱さ。それが頬の痛みだと、梨恵は遅れて気付く。
「痛……」
見上げると、ユキオがニタリと笑った。ざまあみろ、とでも言うように。
かっと頭に血が上る。
「何すんのよ!」
床に手をつき、立ち上がる。そのままの勢いで、ユキオの頬を引っ叩いた。
手の平が腫れ上がったように熱くて、痛い。
「てめえ……」
「私、あんたが嫌いだわ」
「オレも同じ意見だね。てめえほど、むかつく女は初めてだ」
ユキオは舌打ちし、羽島の横にある椅子にもう一度座った。
困惑した表情の羽島に「すいません」と侘びをいれ、縮こまる。
羽島に対しては、気弱で大人しい人物を演じてきたのだろう。演技する様に、迷いはない。
「ユキオ君、女の子に暴力はいけないぞ」
「はい……。梨恵さん、ごめんなさい」
先ほどまでの殺意に満ちた目は消えうせ、おどおどした表情になる。
はらわたが煮えくり返りそうになりながら、梨恵は「いいえ」とだけ返した。
「ユキオ君、病室に戻りなさい」
「はい」
おずおずと立ち上がり、ユキオは梨恵の横を通り過ぎる。その瞬間、彼は梨恵の耳元でぼそりとささやいた。
「邪魔するなら殺すぞ」
帰り道を照らす光がなくても。
きっと見つけられるから。
迷って彷徨って見失って。
それでも、帰れるから。
待っている人がいる。
あなたの帰りを待ちわびる人がいる。
それが道しるべになるから。
大丈夫。
ここだよ。
ここが、あなたが帰ってくる場所なんだよ。
昨日中に更新しようと頑張ったんですが、無理でした・・・すいません・・・
少し煮つまっています。けど頑張ります。
今週中にもう一回更新できればと思っています。