Recollection5 本物は闇から来る:02
「本当に来るとはな」
ようやく陽が昇って来た。白い光がクラブ・フィールドのドアについた小さな四角いガラスに当たって反射する。
学登はタバコをフウーと長く吐き、走ってきた篤利を出迎えた。
「で、優喜は!?」
「中、入れ」
フィールドの重いドアを開け、手招きする。ドアのそばにあるフロントを横切り、重厚な黒い鉄製のドアを開くと、テーブルも椅子も何もないフロアが広がっている。
クラブ・フィールドは閉店準備中だ。もうほとんどの荷物は運び出されている。
唯一残されているのは、冷蔵庫と灰皿。
冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出し、篤利に投げ渡した。
「どうも。って、それより、優喜の話!」
学登ののんびりした態度に地団太を踏む篤利を笑い、学登はタバコに口をつける。
「ひとつ、言っておきたいことがある」
「なに!?」
「総に関わることは、それだけで身に危険が迫る。わかるよな?」
直接関わったことはないが、篤利だって奈緒の事件のことは知っている。河川敷でめった刺しにされ殺された――その事実を思い出し、篤利は唇をかんだ。
「ユキオのことを聞いたんだろう? 彼が残酷で恐ろしい人物であることはわかっているはずだ。ユキオのことを追うつもりなら、覚悟が必要なのは、わかっているな?」
肺に入れたタバコの煙が、うごめいている。覚悟、その言葉が、学登自身にも重くのしかかってくる。
篤利がゴクリと唾を飲み込んだのが、学登にもわかった。
「オレ、逃げたくない」
以前、梨恵からも同じセリフを聞いたことを思い出す。
覚悟に満ちた少年の鋭い眼差し。学登は頼もしい気持ちになって、うなずいていた。
「悪い。試すようなことを言ったな。安心しろ。おそらく、ユキオが誰かを殺すことはないよ。今のところは。ごく一部をのぞいて」
ごく一部――ユキオが復讐したい人間。ユキオの実験に関わった医師たち。学登自身も、その中の一人だ。殺されるかもしれない。覚悟を決めなければいけないのは、彼自身。
「なんだよ、オレのこと、脅したのか?」
「違う違う。悪かったって。真実を知る覚悟があるのか、確認したかったんだ」
タバコの灰が粉雪のように落ちてゆく。
悪夢は幕を開けている。
「篤利。――真実は知らないほうがいい時だってある。真実を突き詰めれば、それだけで苦しむこともある。それを、忘れるな」
「でも! 真実を突き詰めなきゃ、その先には行けないだろ!」
力強い篤利の言葉。黒い瞳に宿るその心根の強さに、学登は心打たれる。タバコを灰皿になすりつけ、伸びてきた黒髪をかきあげた。
「そうだ。その通りだ。篤利」
土日を利用して、梨恵は再びユキオの病室を訪れた。
昼間の喧騒が少し開いた窓から聞こえてくる。明はいつもの通り、窓の隙間から、ひつじ雲をじっと見つめていた。
「明君」
「この前帰ったと思ったら、もう来たの」
「うん。毎週来るつもり。つわりもそんなにひどくないから」
明のそばによると、明は居心地悪そうにもぞもぞと動いた。短くため息をつき、ためらいがちに梨恵をちらりと見る。
「産むの?」
「そのことで、光喜と話したいんだけど、いいかな?」
わあ、と歓声が聞こえた。いきなりの声に、明は窓の向こうにもう一度目を向ける。そのまま目線を太陽の方へ向け、すっと目を細めた。
「ちょっと、待ってて」
ゆっくりと閉じられていくまぶた。陽の光が陰ってゆく。
再び、明の目が開く。左目が濃い緑へと、変わっていた。
「……俺に話?」
逆光が、彼の顔を隠す。梨恵は彼の顔をまっすぐに見据え、手を強く握りしめた。
「そうよ。大事な話」
雲に隠された太陽は、病室に光を届けてくれない。薄暗くなった室内で、そのエメラルドの瞳は異様に輝く。
「なに? 聞いてやってもいいよ。面白い話なら」
「優喜が捕まったわ」
「そんな話? つまらないなあ」
薄笑いを湛えた口元。優喜が浮かべていた笑みとそっくりだ。表情一つ一つが、優喜と光喜のつながりをはっきりと露呈させる。
「もう一人のあなたのことよ。そんな他人事みたいな言い方ないじゃない!」
「人を殺せば捕まる。そんなこと、馬鹿でもわかる。それなのに、何を言えと?」
梨恵に愛を囁いた時の優しい表情なんてどこにもない。かりそめの愛に溺れたことが、梨恵にはくやしくてたまらない。
「俺をわざわざ呼び出して、こんなどうでもいい話なのかい? 拍子抜けだな」
「違うわ」
唇をかみ、光喜に一歩近付く。光喜は梨恵から目を離さない。鋭い視線と視線がぶつかり合う。けれど、お互いけっして目をそらさない。
「私、決めたの」
二人の距離は一メートルもない。緊迫した重い空気が張りつめる。
「この子を、産むって、決めた」
両手で腹を押さえる。一瞬、光喜は何かを言いたげに口を開いた。光喜の口元から、あの蔑みに満ちた笑みが消えていく。
「でも、誤解しないで。あなたのためじゃない。あなたに産んでくれと言われたからでもない。私がこの子を産みたいと思えたから産むのよ。誰のためでもない」
息を吸い込み、そのまま光喜は沈黙する。そして、どさりと、ベッドに倒れこみ、顔を両手で覆った。
「は……はは! そうか……!」
乾いた笑い声が、病室に響く。陰っていた室内に、再び光が戻り始める。
梨恵はそっと光喜の顔をのぞきこむ。手で覆ったその表情は見えない。手の隙間から僅かに見える口元が、笑っていることだけがわかった。
「光喜……?」
「ありがとう」
「え……」
布団から漂ってくる太陽の匂いが、鼻をくすぐる。懐かしい香り。
梨恵は飛びつくように、彼の腕をつかんでいた。
「そ、総志朗!? 総志朗でしょ!?」
喉をつつく、この思い。目の奥から、せり上がってくる涙。声が震える。心が、彼を感じ取っている。
彼が笑っている。記憶の向こうで。優しい陽だまりの中で。
梨恵の手をはらいのけ、彼は両手を顔から離した。
「……明だよ」
寂しそうな声色でそうつぶやいて、彼は体を起こした。
梨恵は身を震わせながら、明から一歩離れる。
「そ、そうだった……?」
総志朗がそこにいた気がしたのは、気のせいだったのか。一瞬の白昼夢だったのか。梨恵は口元を押さえ、嗚咽をこらえた。
私、信じてるよ。
あなたが浩人の誕生を喜んでいると。
浩人は、あなたを慕っていたよ。
たった一度きりの、動物園。
あなたの手の温もりを、あの子は決して忘れない。
浩人は梨恵の息子の名前です。
お、覚えていますか?(^^;
ブログにて番外編をアップしました。
読んでくれている方、いらっしゃいましたら、のんびり更新すいません!