Recollection4 探していたもの:03
ゴールデンウィークも終わりを迎える。梨恵は帰る支度をすませ、羽島メンタルクリニックへと訪れた。
もうしばらくはお見舞いに来ることは出来ない。
その日、非番の麻紀子と一緒に病室に入ると、ユキオはジーパンにTシャツというラフなスタイルで梨恵たちを待ち受けていた。
「外出許可が出たんだ」
低い声でぼそりとつぶやく声に、梨恵は彼が今、明だということに気付く。ユキオの人格たちと過ごした日々は短かったけれど、梨恵にはもう誰がどの人格なのか見分けがつくようになっていた。
「外出許可って?」
「羽島先生が、あんたを送ってやれって。駅までだけど」
麻紀子が「良かったじゃない」と明るい声で梨恵の肩を叩く。梨恵はその声に小さくうなずき、明の顔を覗きこんだ。
憮然とした表情を浮かべ、不機嫌そうだ。
「じゃあ、行こうか」
わざと明るく明に呼びかけると、明は少しだけ頬を赤く染め、返事もせずに歩き出した。
最寄り駅までの道筋を車はすいすいと進んでゆく。窓から見える海が太陽の光でキラキラと揺らめき、梨恵の目を細めさせる。
「寄っていく?」
運転していた麻紀子が、後ろに座る明を一瞥した後、助手席に座る梨恵に目配せしてきた。二人で話したいでしょ? と麻紀子が小声で笑いかけてくる。梨恵もちらりと明を見るが、明は体を椅子にもたれさせ、ぼんやりと空を眺めているだけで、梨恵たちの会話に興味が無いようだ。
「ちょっとだけ……お願いします」
少しずつ膨らんできた気がする腹に触れる。手の平からとくんとくんと、伝わってくる脈動。それは自分の心音なのに、梨恵には腹の子が生きている証のような気がして、そっと目を閉じた。
車から降りた梨恵と明は、砂浜をゆっくりと歩いていた。麻紀子は「お茶してくる」と近くにあった喫茶店に入ってしまった。
心地良い風が梨恵の長い髪をなぶる。髪の毛を押さえ、波乗りをするサーファー達を眺める梨恵の斜め後ろを、明がため息を何度もつきながらついてくる。
白い泡を巻き上げながら、ゆっくりとしたリズムを刻む波。
反射する光はゆらゆらと海面を漂っては消えてゆく。
「座る?」
階段状になったコンクリートの堤防を指差す。明は何も言わないが、梨恵は明の腕を取り、無理やり座らせた。
やっと歩けるようになったくらいの男の子と、幼稚園生くらいの女の子が一生懸命砂山を作っている姿が目に映る。
明は後ろに手を置き、足を投げ出す。視線は真っ青な空へと吸い込まれてゆく。
「いつも空を見てるね」
明の横で、梨恵は明の視線を追う。太陽光線がまぶしい。
「……雲を見るのが好きなんだ」
「そうなんだ……」
穏やかな表情を見せる明。なぜだか胸が締め付けられる。梨恵はそっと広がる白い雲に視線を移した。
「ねえ、独り言、聞いてくれる?」
「独り言なのに?」
「うん」
子どもの歓声が耳朶に響く。目をつぶっても、光は目の奥まで届いて、目の前は赤く染まる。
「私、総志朗が好きだよ」
喉につかえて言い出せなかった言葉たちが、花開く。
「光喜も、好き。どんなに否定しても、変えられない気持ち」
目を開き、明に微笑みかける。明は空だけを見つめ続ける。
「むかつくし、大嫌いだとも思ってる。だけど、やっぱり好きなんだと思う。私、光喜も総志朗も、本当に好きなんだよ」
形は違っても、愛という根本は同じ。ゆっくりとゆっくりと紡がれてゆく思いを、梨恵は言葉に変えてゆく。今だからこそ言える気持ち。今だけしか言えない思い。言葉に大切な心をのせて、ひとつひとつ、吐き出してゆく。
「総志朗に、会いたいよ……」
詰まる声を無理やり押し出して、もう一度、つぶやく。
「総志朗に会いたい」
大気中に舞う砂塵が、太陽の光を反射して、光の粒が降り注ぐ。涙でたわんだ世界は、光の雨を降らしていた。
「僕の独り言、聞いて」
ぼそり、と明はささやいた。梨恵はにじんだ涙を手で拭い、明を見つめる。
「本当は……」
ゆったりと泳ぐ雲。その下で大声で笑いあう子供たち。明の視線は、子供たちに注がれていた。
「本当は、あんな風に生きたかった」
崩れる砂の山。「ああっ」と泣きそうになりながら、もう一度山を作り出す女の子。その横で、女の子の手伝いをする、小さな男の子。
「あんな風に無邪気に笑って、世界がきらきら輝いてて、何も恐れるものは無くて、何もかも信じきって……」
寂しそうに、明は笑う。
「そんな風に生きていきたかった」
込み上げてくる嗚咽を我慢しようと、梨恵は手で口元を覆う。ユキオという人間が歩んできた人生を思い、明の言葉を噛みしめる。
得られなかった愛情。明は、当たり前のようにあるものを、知らない。
「明君……」
「あんた、どうするの?」
「え?」
「お腹の子」
梨恵に鋭い視線を投げかける。
「迷ってる」
「どうして?」
片手で髪の毛を押さえながら、梨恵はもう片方の手で砂にぐるぐると渦巻きを描いた。さらさらの砂が、風に飛ばされる。
「不安なの。怖いのよ。ちゃんと育てられる自信がない」
「僕は……」
ごくり、と明が息を飲み込んだ音が聞こえた。
「産んでほしいよ」
子どもの笑い声が響いてくる。波の音が静かに問いかけてくる。聞こえてくる音に耳を澄ませ、梨恵はお腹に触れる。
「僕は、あんな風に生きられなかったから、その子には、あんたに愛されて、幸せに、生きてほしい」
途切れ途切れに、精一杯の明の思いが胸を刺す。
砂浜で遊ぶ子供たちに目を向けると、子どもと目が合った。驚いたのか、目を見開いた女の子。だが、すぐに目を細め、ニイ、と笑った。
「――そうだね……」
目ににじむ涙を梨恵は拭うこともせず、目の前で遊ぶ子供たちの笑顔をずっとずっと見つめ続けた。
柔らかい日差しは、きらきらと溶けていく。
ありがとう。
産まれてくれて。
私の目の前に、あなたがいる。
その奇跡に。
心からの感謝を。
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