Recollection3 君を思う:08
真っ青な空に大きな綿菓子のような雲が泳ぐ。窓の隙間から見える空を、明はずっと眺めていた。
梨恵はその横で何をしゃべったらいいのかもわからず、明の視線の先の雲を追う。
「さっきから黙りこくってるけど、なんか用があってきたんじゃないの」
明は梨恵をけして見ない。梨恵にはそれが悲しくて、膝の上の手をぎゅっと握りしめた。
羽島メンタルクリニックに入院したユキオは、閉鎖病棟に入れられた。家族以外は面会さえ出来ないのだが、梨恵は澤村麻紀子の計らいで、こうしてユキオの病室に訪れることが出来る。
真っ白な病室にある金属製の家具は、同じように真っ白で無機質だ。麻紀子が持ってきた赤い花がこの白い部屋の中では異様に映る。
「……話が、したくて」
梨恵の家からこの病院まで、距離がある。ゴールデンウィーク中だけ麻紀子のマンションに泊めてもらうことにして、こうしてユキオのお見舞いに来ることにした梨恵。出来るだけ、彼のそばにいたかった。
「話? 僕は話したくない。目障りだよ」
総志朗を消えるきっかけを作ってしまった梨恵を、ユキオの交代人格たちは煙たがっている。邪険にされてしまうことが、梨恵にはなによりつらい。
「ごめんなさい……」
それしか言えず、またうつむく。
「……守ってきたものが、簡単に壊れて……いらついてるんだ。あんたにあたってるだけ。……ごめん」
落ち込んだ様子の梨恵の姿に居たたまれなくなったのか、明はぼそりとつぶやき、ようやく梨恵のほうを見た。
梨恵を見る彼の目は、捨てられて人を信じられなくなってしまった子犬のよう。すがりつきたいのに、またつらい思いをしてしまうのではないかとおびえている、そんな目。
光喜の人を射抜くような鋭い目とは違う。総志朗の温かみのある寂しそうな目とも違う。
全く別の人間がそこにいるような錯覚に陥る。
「ねえ、総志朗は、生きてるの?」
「たぶん」
誰に聞いても、総志朗の生死ははっきりとわからない。総志朗はユキオの心のどこにいるのだろう、と梨恵は思いを巡らす。
「総志朗をもう一度主人格に戻すことは出来ないの?」
「わからない」
窓から差し込む光が、ふと蔭る。目の前に灰色の膜を張られたような奇妙な感覚。
「総志朗は、あんたがいて、支えられてた。奈緒が行方不明だった時も死んでしまったことがわかった時も、あんたがいたから救われてたんだ。あんたを大切に思ってた。あんたを心の底から慕ってた。だから――」
梨恵は顔をあげ、明を見据える。明の言葉が、暖かな光のように心に降り注ぐ。
梨恵自身も、総志朗を大切に思っていた。心の底から彼が好きだった。
「あんたがいれば、総志朗だって戻ってくると……信じたいんだ」
後悔は津波のように押し寄せる。けれど、波に飲まれていては進むことは出来ない。梨恵は、過去を償う決意を固めていた。
後戻りが出来ないなら、前に進むしかない。
総志朗を消そうとする光喜に恋をした。
光喜が必要だ、と総志朗に言ってしまった。総志朗という人格を、否定してしまった。
総志朗の心を踏みにじり、彼を奈落に突き落とした。
だからこそ、彼を迎えに、奈落に足を踏み入れる。
「僕たちは、あんたを信用していいの?」
「信用は、得るものだわ。私、あなたの信用を手に入れる」
梨恵の強い口調に、明は穏やかに笑った。冷ややかな明が初めて見せた、笑顔だった。
「奥さん、ドアを開けて下さい。彼に逮捕状が出ました」
ドアの隙間から逮捕状を見せ付けられる。
優喜の母、百合子は狼狽しながら、後ずさった。
ドアのチェーンはつけたままだ。そのために開かないドアの前で、警察官と思われるスーツの男が、百合子を睨みつける。
「開けて下さい」
チェーンをはずすように手でジェスチャーする警察官を見つめながら、百合子はいやいやと首を振る。
一歩二歩後ろに下がったところで、段差に足をぶつけ、よろけた。
階段の上にある優喜の部屋の方に振り返る。
ちょうどその時、優喜の部屋のドアは、静かに開いた。
「警察が来たんだね」
優喜は小さく笑みを浮かべ、玄関のドアの向こうにいる警官たちに会釈した。
「優喜! だめよ! だめ! どうして部屋から出てきたの!」
「母さん、もう終わりなんだよ。俺の役目は、終わったんだ」
ゆっくりと階段を降りてくる優喜の姿を、百合子はがたがたと震えながら眺めていた。
フラッシュバックする記憶。
白くなった肌。傷だらけの体。未来ある我が子は、その命を自ら絶った。いなくなってしまった。そのはずなのに。目の前には死んだ子と瓜二つの、子どもがいた。
ああ、双子なんだから、同じ顔なのよ。でも――
この子が光喜ではなかったのか。この子は優喜だったのか。百合子には時折わからなくなる。いなくなった我が子は、ちゃんとここにいた。同じ顔、同じ声、同じ――
また、いなくなってしまうのか。
去来する思いが、ぐわりと腹の底から溢れ出る。
いつの間にか台所にいて、いつの間にか包丁をつかんでいた。
失うくらいなら、またいなくなってしまうなら。
引き止める手段が、包丁をぎらつかせた。
「君が白岡奈緒さんを殺したんだね」
玄関先の会話が耳をつく。
「優喜っ……!」
玄関へと足が進む。
優喜はドアを開け、警官と対峙していた。警官の言葉に神妙にうなずく優喜は、抵抗する気は無さそうだった。
「はい。俺が白岡奈緒さんを」
「優喜ぃ!」
「――殺しました」
大事な息子。二度と失いたくない。ならば、一緒に遠いどこかに逃げるしかない。
遠い、誰も追いかけてこない場所へ。
「危ない――!」
ぐにゃり、とそれは突き刺さった。弾力がある固い肉にのめり込む。優喜の背中を百合子はぎゅっと抱きしめた。
手に、包丁を握ったまま。
「優喜、優喜。お母さんもすぐに行く。だから、一緒に逃げましょう。ね、優喜。ね、天国に行こう。光喜が、待ってる」
崩れ落ちる優喜は、背中の痛みに顔を歪ませながらも、かすかに笑っていた。
警察官達の騒ぐ声が、遠い場所から聞こえてくる。
「こ、光喜、俺、……」
声が出ない。目の前が真っ黒になってゆく。
「ユ、キオ」
揺らいで見えたのは、いつの思い出だったのか。誰かが、確かに笑っていた。
消えない過去を抱えて、僕たちは何度も願う。
この思いが、いつか消えていくようにと。
叶わない願い。
消えゆく思い。
そして、僕たちは繰り返す。
終わりのないメビウスの輪を。
――永遠になぞり続けるんだ。
This tale cleared.Next tale……探していたもの
なんとか今年中にもう一回更新出来ました!
気付けばもう大晦日……。
この物語に1年間付き合ってくださった皆様に、心からお礼申し上げます。
すっごい暗いシーンで今年の終わりを迎えてしまったことをお許し下さい(笑)
来年にはこの物語も完結します。
それまでまたお付き合いいただけたら幸いです。
ではでは、どうぞ良いお年を!