Recollection3 君を思う:07
ゴールデンウィーク中は麻紀子が住んでいるマンションに泊めてもらうことになっていた。麻紀子より先に戻った梨恵は、柔らかな白い革の六人がけソファーに身を沈め、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
一応テレビはつけているが、耳には全く入ってこない。今年最大のヒットを飛ばした女性歌手の歌声が、雑音にしか聞こえない。
広い室内。シンプルなデザインの白を基調とした家具。家主のセンスのよさがよくわかる部屋。一度部屋全体をぐるりと見渡し、窓際に飾られた観葉植物に目を留めた時だった。
玄関の開く音が聞こえた。麻紀子が帰ってきたのだ。
「ごめんなさいね。遅くなって。お寿司の出前頼んでおいたから、夕飯はもう少し待ってね」
「気を使わせちゃってすいません。私、何か作りますよ」
慌ててソファーから立ち上がった梨恵を、麻紀子は「いいのよ」とソファーに座らせた。
「もう出前頼んじゃったから、大丈夫よ。梨恵ちゃんの手作り料理は、また明日。妊婦さんは無理しなくていいの」
「妊婦」という言葉に、梨恵の気持ちは沈んでいく。
最近は考えないようにしていたこと。考えなければいけないことなのに、考えたくなかった。中絶しなくてはまずい、それはわかっているのに、決断が下せない。
産んでくれと哀願してきた光喜の去り行く背中が忘れられない。
「つわりは大丈夫なの? つらくない?」
急に表情を曇らせた梨恵の背中を、麻紀子が優しくなでてくれる。その優しさが心に沁みて、梨恵の目はあっという間に潤んでいった。
「澤村先生だったら、産みますか? 自分を利用した男の子どもを産めますか? 利用したくせに、子どもを産んでくれなんて言って来る男の子どもを産もうと思いますか?」
八つ当たりをするかのように、麻紀子を責めるような言葉を吐く。麻紀子は驚いて梨恵を見つめていたが、ふ、と短いため息をついて、梨恵の隣に座った。
「迷っているのね」
「……はい」
「どうして?」
麻紀子の声色は、とても優しい。梨恵の膝に手を置き、子どもをあやす時のように、ポンポンと優しく叩く。
「……中絶しようって、決めたんです。手術同意書だって書いてもらった。だけど……光喜は産んで欲しい、って言ってきたんです」
嗚咽がまじり、言葉がうまく発せられない。ポタポタと落ちる涙が頬を濡らしてゆく。
「望まれない子どもなんて産めないって思ってた。なのに、光喜は! 産んでくれって……! 私、何も考えられなくなってしまった。光喜は残酷です。私は、本当に彼が好きで、好きだったから!」
指先が冷たい。梨恵は手をぎゅっと握りしめ、その手だけを睨みつける。我慢しようとするのに相反して、涙のコントロールがきかない。
「産めないって、思ってたのに、もうわからない! わからない!」
「産みたいとも思ってるってことなの?」
麻紀子の言葉に、梨恵は顔を上げた。麻紀子が心配そうに梨恵を見ていた。
「……私、怖いんです。この子を産んで、私が、この子を愛せなかったら。光喜を許せないと思う気持ちが、この子に向いてしまったら。この子も、ユキオみたいに憎しみしか知らない子になってしまうんじゃないかって。私が、この子をきっと傷つけてしまう。きっと」
テレビからバラードが流れる。静かに流れるメロディーが部屋を覆う。
麻紀子はそっと梨恵の肩を抱いた。
「ねえ、梨恵ちゃん」
窓の外で星が瞬く。少しだけ開けた窓から風が入り、窓際に飾られた観葉植物の葉がふわふわと揺れた。
「ユキオのことを知れば、不安が増すのはわかるわ。愛されなかったことが、彼をあんな人間にしてしまった。でも、愛を与えられなかったはずの総志朗は、ちゃんと人を愛すことも愛されることも知っているわ。あなたがもしも子どもを愛せなくても、誰かが愛を教えてくれる。総志朗は、周りにいた人――黒岩君やあなたにそれを教わったのよ」
総志朗の笑顔が脳裏をよぎっていく。寂しそうだったけど、楽しそうだった笑顔。あの家で暮らしていた時、彼はいつも笑っていた。幸せだった。
「それにね、梨恵ちゃん。あなたは『愛せない』って断言していないじゃない。『愛せないかもしれない』って言ってる。ねえ、それって、『愛せるかもしれない』っていう意味でもあるでしょう?」
簡単なようで行き着くことがなかった、その結論。梨恵は涙を拭い、麻紀子を見つめる。
「大丈夫よ。あなたの子どもだもの。あなたなら、ちゃんと育てられる。大丈夫」
何の根拠もない言葉。なのに、梨恵の心にずっと巣食っていたもやもやとした感情が、包み込まれるように軽くなる。
「私……考えたこともなかった……。愛せる、かもしれない……」
独り言のように何度もつぶやく。麻紀子はその度に「うん、うん」とうなずいてくれる。
「私、ずっとマイナスな方にばかり考えてた……」
「つらい時は、誰だってそうよ。でも、意外とそばに新しい道は用意されてる。気付くか気付かないか、それだけ。ほんの少し横を見れば、気付けるのにね」
ぽん、と大きく肩を叩かれ、梨恵は泣きながら笑った。
「私、もっと前向きに考えてみます。ちゃんと」
あなたがくれたもの。
私の宝物。
心から、愛してる。
何よりも、愛してる。
メリークリスマスです(^^)
年末年始の更新予定ですが、年末はこれが最後の更新になるかも……出来ればもう一回更新したいところですが、仕事が忙しいのでちょっと微妙です……。
年始はおそらく4日以降の更新となります。
今年最後の更新かもなので、一応。
良いお年を!