Recollection3 君を思う:06
「君が彼は生きるべきではないと思ったなら、殺せばいい」
香塚孝之がそう言ったのは、ユキオが十五歳の時。ユキオが眠りについてからしばらくたったある日だった。
ユキオが眠り、総志朗という人格が主人格になったことで、平穏は保たれているはずだった。だが、ユキオが目覚めることを未だ恐れていた医師の数名が、ユキオを殺してくれと香塚にその後も直訴していた。
面倒くさくなった香塚は、その選択を学登に一任したのだ。
「そんなこと、俺に判断できません!」
「出来なかろうが出来ようが、君に任せたんだ。私にとって、ユキオが生きようが死のうがどちらでもいいんだよ。生きていれば面白いが、死んだところで困らない。ユキオを殺してくれと頼まれても、私はそのことを判断する気は無い。ユキオは眠らせた。私はそれで満足してるんだ」
ユキオの養父であるはずの、香塚の愛情の片鱗も無い凍てつく言葉。学登は「殺せるわけがない」と心の中で香塚の言動を噛み砕き、香塚に対する不信感を密かに募らせていた。
「私は殺したほうがいいと思うよ。ただの勘だがね」
香塚の顔に浮かぶのは嘲笑。「君には『人を殺す』なんて選択は出来ないだろうが」と顔が言っていた。
学登は、憤りが隠しきれなかった。
そして、あの運命の日。
総志朗を連れ出して逃げたあの日。
あの日から、この病院に訪れたことは一度も無かった。総志朗が角膜移植の手術を受けた時も、澤村麻紀子が総志朗を学登のところに連れてきてくれたのだ。
香塚と会うのも、総志朗を連れて病院から逃亡した日以来だった。
香塚総合病院を訪れた学登を待っていた香塚は、薄暗い従業員用の通路を通り、院長室へと入る。
凝った織りのワインレッドの絨毯と黒革のソファーは、学登がこの病院で働いていた時のものとは違っていた。
扉の向かいには大きなこげ茶の机と椅子があり、それは当時のままだった。
「で? わざわざ連絡をよこしてここに訪れた理由はなんだい?」
そう問いかけてはくるが、香塚はすべてわかっているのだろう。にやにやと薄ら笑い、学登がどう答えるのか待ちわびているようだ。
「あなたのせいで、色々状況が変わったので。きちんとお話をしなければと思いまして」
学登も努めて冷静に振舞う。灰色のシャツの襟を手で直しながら、机に腰かけた香塚を睨む。
「私のせいにされても困るがねえ」
椅子をゆらゆらと揺らしながら、香塚は声をあげて笑った。
学登は唇を噛み、胃の中で暴れる怒りを必死で抑える。
まだ二十代だった頃はこの男を尊敬していた。だが、今は尊敬なんて出来るわけもない。
「一年前、俺の家に『相馬優喜』と名乗る高校生が訪れてきたことがあります。彼は言っていた。『ユキオを殺さなかったことを後悔することになる』と。……俺は後悔しています。あなたが俺にユキオの命を一任した時、俺は彼を殺すべきだった」
逆流しようとする怒りは胃の底に影を潜める。代わりにせり上がってくるのは、後悔。
「あの時彼を殺していれば、こんなにも彼を追い詰めることはなかったんだ」
握った拳が震える。犠牲を出した。奈緒を。総志朗を。――ユキオ自身を。
「俺は覚悟を決めています」
前を見据え、言い切る学登。香塚は椅子を揺らすのを止め、前に体を乗り出し、机に肘をついた。
「殺させる覚悟、かね?」
「そうです」
ははっ、と小ばかにしたように短く笑い、香塚はまた椅子を揺らし始める。
「君は変わらないねえ。曲がったことが嫌いな、正義感ぶった態度」
「……あなたはどうするんですか。ユキオは必ずあなたのところに来る。あなたを殺しに」
「害が及ぶのであれば、殺すだけだよ。準備もしてある」
白髪のまじった口ひげをなで、香塚は余裕綽々の態度を改めない。唾を吐き捨てたくなる気持ちを押さえ込み、学登は握った拳にさらに力を込めた。
「これ以上、彼を苦しめたくない。お願いですから、もうユキオに関わらないで下さい」
「関わるなぁ? 何を言うんだ。こんな面白いことをただ傍観していろと言うのか? 彼の中の複雑なあの人格たち。捕まえて、脳内を調べてみたいんだよ! たとえ死んでも、あの子は良いサンプルなんだよ!」
「っこの……!」
掴みかかろうと、足が一歩前に出る。だが、学登は必死に足を押さえ、すぐにまた退いた。ここで争うのは懸命ではない。
「あなたは何もわかってない。ユキオがどれだけあなたを恨んでいるか。あなたを憎んでいるか。ユキオは、あなたと同じ目をしてる。悪意だけしかない目。いずれ、あなたはあなたが産み出した悪魔に報復を受ける」
「それは楽しみだ」
高らかに笑う香塚を尻目に、学登は院長室を出た。扉を閉まる音を背中で聞きながら、振り返ることなく廊下を進む。
血管が浮き出るほどに強く握られた拳で、怒りをつぶしながら。
「あ! 黒岩さん!」
CLOSEの札が下がったクラブ・フィールドの前に、篤利がうずくまっていた。歩み寄ってくる学登に気付くと、篤利はつり目を細くして笑い、立ち上がった。
「篤利君じゃないか。どうしたの?」
「いや、あのさ」
帽子のつばをいじりながら、篤利はあたりをきょろきょろと伺う。すっかり薄暗くなった通りは、これから飲みに繰り出す若者たちでいっぱいだった。
「相馬優喜がオレに会いに来たんだ」
聞かれてはまずい、とでも言うかのように、篤利は声を小さく低くする。誰かが聞いてたとしても、何のことかわかるわけがないのに。
「それで?」
「敵じゃないって、言ってきた。意味わかんねんだけど!」
「……敵じゃ、ない?」
「そう! 強さは弱さだ〜とか、弱いやつほど強いんだぜ〜とか言ってた!」
思案するように顎に手をやる。
一年ほど前、学登の家に突然訪れた会ったこともない少年は、学登に『相馬優喜だ』と名乗った。
「探していた」と。「光喜を知っているだろう」と。学登に話しかけてきた、少年。
少年は笑っていた。喉を鳴らし、クツクツと。
あの笑顔は――
すべてを諦めてしまった笑顔。何もかもがどうでもいい、と嘲笑するような笑顔だった。
「あんな顔……」
いつか見た、笑顔だった。あれは、あの病院の、あの暗い病室で。総志朗が、学登に向けた笑顔と同じだった。
「子どもが、あんな顔をしていいわけないんだ……」
伸びきった黒髪をぐしゃりと握る。目の奥が熱くなる。
「俺は、諦めない。絶対に。諦めない」
諦めないよ。
あなたを失いたくない。
だから、諦めない。
何があっても。