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Recollection3 君を思う:05

「君が澤村君だね」


 梨恵たちを出迎えたのは、のっぺりとした白髪を七三に分けた初老の医師だった。

 羽島メンタルクリニックと書かれた銀色の看板の下で、医師はどんぐりのような目をユキオに向ける。


「初めまして。院長の羽島宗久はしまむねひさです。倉沢先生、お久しぶりです」


 梨恵とユキオを一瞥した後、羽島は麻紀子と握手を交わす。梨恵は緊張しながら羽島と簡単な挨拶を交わし、院内へと案内された。

 精神病院というとどうも暗いイメージを持ってしまいがちだが、羽島メンタルクリニックは南側の壁がすべてガラスになっていて、春の陽光がさんさんと降り注ぐ。真っ白な病院は清潔感が保たれ、誰もここが精神病院とは思わない明るさがあった。


「ええと、浅尾さんはゴールデンウィーク中はこっちにいるのかい?」

「はい。出来る限り、彼のそばにいたくて」


 羽島の質問に梨恵はそう答えると、横にいるユキオを見た。ユキオは梨恵を睨むように見やり、すぐに視線を大きな窓の向こうに向けてしまった。

 ゆったりと流れる雲が林の先に見える。ジャージ姿の中学生くらいの少年が、ちょうど窓の向こうをのんびりと歩いていた。


「じゃあ、ユキオ君」


 羽島が微笑みを浮かべながら振り返る。ユキオは不機嫌そうにくぐもった声を出した。


「僕はユキオじゃない。明だ」

「ああ、すまない。明君。君が入院する部屋に案内するよ」


 羽島は笑みを絶やさず、階段を手で指し示した。ぽかぽかの陽気が差し込む窓辺の向こうにあるその階段は、明るい待合室に反比例するように薄暗い。

 梨恵はなんだかぞっとして、肩を抱いた。闇に吸い込まれてしまいそうな感覚。あの階段の向こうは、踏み込んではならない別世界のような気がした。


「この上は閉鎖病棟になっているんだ」

「総志朗は、閉鎖病棟に入院するんですか?」


 思わず梨恵は聞き返してしまった。閉鎖病棟という響きが、牢屋のような、すべてを遮断するものに思えたから。


「総志朗? ああ、彼の交代人格の名前だね? 明君もわかっているだろうからあえて言うけど、ユキオ君は非常に危険な人物だと伺っているよ」


 明は何も言わない。梨恵も何も言うことが出来ない。


「閉鎖病棟は鍵がかかっている病棟だ。鍵をかけるということが悪いイメージを与えているとは思うけど、これは患者の命を守るためなんだよ」


 病院の中庭では、ベンチに座る少女がニコニコと笑いながら飛び交う蝶を眺めている。穏やかでゆるやかな時間がそこには存在している。

 精神科の病院が自分の思うイメージとはだいぶ違う、と梨恵はその子を目の端で見ていた。


「自殺を図ろうとする子が、自殺するために外に行ってしまわないように、自殺するために必要なものを手に入れないように、あるいは誰かに危害を加えないように、そのために鍵がついている。それは患者の命と、周りにいる人間を守るためなんだよ。わかるね?」


 梨恵は胸のざわつきを押さえながらうなずいた。


「ご家族以外の面会は本当はNGなんだけど、浅尾さんは澤村先生からのお達しがあるから、面会できるからね」

「ありがとうございます」


 暗い階段を一歩一歩上がる。一歩上がるごとに、階段は暗くないことに気付く。窓からこぼれる光は、ちゃんとこの階段まで届いている。

 けれど、網膜は何かに覆われ、うっすらと闇を纏う。

 階段を上り終えると、短い廊下が続く。廊下の先には真っ白なドア。ドアには三十センチ四方の小窓があり、そこには鉄格子がはめてあった。


「この先に君の病室がある」


 羽島がポケットからチェーンのついた鍵を取り出す。ガチリ、と鍵の開く音が廊下を駆けた。


「浅尾さんは今日はここまで。澤村先生と話があるから、今日はこれで帰ってもらえるかな?」


 後ろにいた麻紀子が梨恵に向かってうなずいてみせた。梨恵は仕方なく「はい」と返事する。

 羽島、明、麻紀子の順で閉鎖病棟へ入っていく。

 鉄格子の向こうで、キャラメル色のねこっけが揺れた。


「総志朗……」


 廊下に響く施錠の音は、先ほどより大きく聞こえた気がした。






 新緑が芽生えた小道を学登はゆっくりと歩く。木漏れ日がまぶしくて、手を額に当てた。

 この小道の先に、香塚総合病院がある。

 大学卒業したてだったあの頃、病院勤めにへとへとになりながらも、毎日歩いた道。懐かしさと同時に込み上げるのはもどかしさと罪悪感。

 昇って来た太陽が暑くて、学登は着ていた黒いジャケットを脱いだ。

 病院の裏側にある従業員用の出入り口の前に来て、学登はゆっくりと息を吐き出す。

 何年ぶりの再会だろう。

 歪んだ笑みをするあの男の、ユキオを見るときの目を思い出し、鳥肌が立つ。


「黒岩君」


 一歩踏み込んだ入り口の奥で、その男は待っていた。

 白髪が増え、口ひげも白くなっている。だが、あの頃と変わらず、彼は下品な笑いを絶やさない。


「お久しぶりです、香塚先生」


 男は、歯を出して笑った。







 窓の向こうの真っ白な雲を、ずっと見ていたね。

 数センチしか開かない分厚いガラス窓の向こう。

 変わらない空がずっとそこにいた。

 私、忘れられないよ。

 あの時の言葉。

 あの、声。



更新が遅れてしまい、申し訳ありません。

諸事情により、更新が遅れることが多くなりそうですが、月曜か火曜更新は出来る限り守っていこうと思ってます。

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