Recollection3 君を思う:03
「梨恵、教員採用試験の準備はしてるのか?」
久々に会った父は開口一番、梨恵にそう聞いてきた。
疲れた体をひきずって家に帰ると、梨恵の父、修司が玄関前で仁王立ちしていた。
早く寝たいのに、心の中で父の訪問を疎ましく思いながらも、仕方なく修司を家に迎え入れた。
修司は繰り返し、「ちゃんと準備しているのか」と聞くと、厳しい顔にしわを寄せた。
「教育実習には行ったのか」
「五月の途中にあるから、これから」
「先生になる」と母親に宣言した手前、梨恵は教師になるための勉強も進めていた。
教師になる気はなかったが一応教職免許は取っておこうと、一年の時から単位をきちんと取っていた。
四年生になった今は、四年次の教育実習と教員採用試験を受ける準備をしていたのだが、突然の妊娠という事態に、梨恵のやる気は半分失せていた。つわりがひどくて、勉強に身が入らないのも事実だ。
そんな時の父親の訪問に、梨恵はげんなりする。
「梨恵、本当に教師になんかなりたいのか」
心の内を読んだような父親のセリフに、梨恵は目を白黒させる。
「どうして教師になりたいんだ」
「ど、どうしてって」
「教師は大変な職業だぞ。どうしてなりたいんだ」
どうして、梨恵は声には出さずにつぶやく。どうして。
最初は口から出たでまかせだった。うるさい母親に「なりたいものなんかないくせに」と言われたから、つい言ってしまっただけ。
教師なんて目指してもいなかった。
けれど。
総志朗が「先生になればいいのに」と、「おせっかいで世話焼きなとこ、思いっきり先生向きだと思うんだけど」と言ったセリフが頭から離れなかった。
どうして教師になりたいなんて言ってしまったのだろう。
自問自答を繰り返す。
修司は後ろに流した黒い髪の毛をぽりぽりと掻きながら、梨恵と似た形のいいアーモンド形の瞳を梨恵に向けていた。
「私……」
長い間を置いて、やっと声を出した梨恵。修司は「うん」とうなずき、梨恵が続きの言葉を発するのを待ってくれている。
「私、教えてあげたいのかも……」
「何を?」
「学校って、勉強だけじゃないと思うの。『人間』を学ぶところだと思うの。私、教えてあげたい。例えば愛情の形とか、友情の形とか、人として大事なもの。心を、教えてあげたい」
それは、彼に伝えたかったメッセージ。
もういない彼に、どうしても教えたい梨恵自身の思い。
「だから、教師になりたい」
目を泳がせてばかりだった梨恵が、今日初めて、強い眼差しを修司に向けた。修司はそれを笑顔で受け止めた。
娘が自分の考えを持って、前を向いて生きようとする姿に感動を覚えていたのかもしれない。少し瞳を潤わせ、「そうか」と感慨深げにうなずく。
「わかった。私立中学校の校長をしている知り合いがいるんだ。お前は嫌がるかもしれないが、お前を紹介してやってもいいぞ」
父が自分のためにそんなことをしてくれようとしていたとは考えていなかった梨恵は、どう返事していいかわからず口をぽかんと開ける。
修司はテーブルの木目もようを手の平でなぞりながら、言いづらそうに続けた。
「もしかしたら、おせっかいだと思うかもしれない。だが、利用できるものを利用していいんだ。他人に迷惑がかからないなら、いいんだよ。コネなんていうと聞こえは悪いが、お前の将来のためなんだよ」
「うん、ありがとう」
妊娠している現状を思うと、即答は出来ない。梨恵は父の優しさに涙が込み上げるのを我慢しながら、微笑んだ。
「少し、考える。教育実習が終わるまで、待って」
「ああ、わかった」
テーブルの上に置かれた梨恵の手を、修司は優しく叩いた。
その激励の気持ちが、梨恵にとっては何よりもの励みに思えた。
「お父さん、ありがとう」
帰っていく父親の背中を眺める。小さいころはものすごく大きく感じた背中も、あの当時よりはずっと小さくなった気がする。
それでも、やっぱり父の背中はたくましく、大きい。遠かった背中が今は身近に触れられるほど、その熱を感じられるほど近くにある気がした。
四月の終わり。祝日で休みだった梨恵は、長山総合病院に来ていた。
ユキオはこの日、神奈川県にある精神科の病院に行くことになっていた。梨恵はそれに同行するのだ。
反対していた麻紀子も、梨恵の熱意に折れて、許可を出してくれた。ユキオの姿が出てくることは滅多に無かったためだ。
麻紀子の運転する車の中は、ラジオのDJの静かな語りだけが淡々と流れる。
助手席に座った付き添いの男性医師と麻紀子はたまに会話を交わしていたが、後ろに座る梨恵とユキオに会話は無い。
ユキオはシートにぐったりと身を預け、窓の向こうをずっと眺めている。
「……ねえ、今は、誰、なの?」
隣に座るユキオに問いかける。彼は流れる景色から目を離さずに、聞き取れないくらいの小さな声でぼそりと言った。
「明」
「明君なんだ」
反応を示してくれたことは嬉しいが、愛想の無い明との会話はどうにも気まずい。
明は九歳の少年の人格だが、妙に大人びていて、言葉はいつも冷静だ。感情の無い、抑揚の無いしゃべり方は、総志朗とも光喜とも全く違う人間なんだと思わせる。
「……なんであんたがいるの」
「いちゃいけないかな」
「……別に。ただ、僕はあんたが嫌いだ」
はっきりと「嫌い」と言われることなんてそうそう無いことだ。梨恵は心臓に棘が刺さったような痛みを感じながら、「そう……」と力なくつぶやく。
「総志朗はあんたを必要としていたよ。それを、あんたは平気で裏切ったんだ」
「わかってる」
車窓に向けられていた明の瞳が、ふと梨恵を捉える。冷たいようでいて、母親を恋しがる子どもが強がっている時のような寂しそうな少年の瞳は、やはり総志朗とも光喜とも違っていた。
梨恵は明の膝にそっと触れていた。
「それでも、そばにいたいの。そばにいさせてよ」
明はまた広がる青空に視線を戻してしまった。
ぬけるような青空は、少し、物悲しかった。
あの時見えたのは、私の将来の姿。
あなたが見せてくれたのは、私のあるべき姿。
私、先生になったよ。
あなたが、先生に向いてるって言うから。