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Recollection3 君を思う:02

「お待たせして悪いわね」


 チャコールグレイのスーツを身にまとった澤村麻紀子は、梨恵の座る席の前で姿勢正しく立っていた。

 梨恵はいじっていた携帯電話をバッグに戻し、椅子から立ち上がり、小さく会釈する。

 麻紀子はそっと目を伏せて梨恵の会釈に答えると、手でスカートを押さえながら静かな動作で席についた。

 長山総合病院のすぐそばにある小さなカフェ。観葉植物がたくさん飾ってある店内は花屋のようだ。小春日和の暖かい陽光が壁いっぱいのガラス窓から差し込んでくる。オープンスペースではカップルが二組、談笑していた。

 ガラス窓のすぐそばの席に座っていた梨恵は、ミントの香りがするピーチティを口に含み、喉の渇きを潤す。

 いくら飲んでも、喉のいがらっぽいかんじが取れない。

 麻紀子はコーヒーを注文し終え、梨恵のほうに視線を移した。


「あの、総志朗は?」


 めいっぱい吸い込んだ空気と共に、ミントの香りが通り抜けてゆく。

 麻紀子の鋭い目線は、空気を重くする。


「長山総合病院に転院したと聞きました。総志朗は、そちらにいるんですよね?」


 梨恵は早口でもう一度聞く。

 ちょうど店員がコーヒーを持ってきた。麻紀子はコーヒーカップを両手で覆い、その温度を確かめながら、ふっと短いため息をついた。


「病院の特別病棟に入院させたわ。お見舞いに来たの?」

「……はい」

「あの子は私たちにとって危険だわ。会わすことが出来ない。あの子を外に出すことも出来ない」


 交通事故にあった総志朗は、麻紀子が勤める総合病院に転院している。特別大きな怪我をしたわけではない彼が入院させられていると言う事態は、入院とは体のいい言葉で、監禁と言っていいだろう。

 ユキオが危険なのは、優喜や学登の話からわかっている。けれど、納得は出来ない。

 梨恵は唇を噛み、言うべき言葉を考えあぐねる。

 麻紀子は、梨恵に口を挟ませる気は無いと、語気を強めた。


「今は明君と統吾君がユキオが出てこないように抑えているけど、おそらくすぐに限界は来るわ。ユキオはそれくらい強い力を持ってる。総志朗がいたことで、明君と統吾君が門番の役割をしてユキオが目覚めないように出来たけど、総志朗がいなくなってその均衡は崩れた。明君か統吾君、どちらかが表に出てこなければいけない状況では、門番の役割は一人になってしまう。一人では、抑えられないのよ。ユキオという人間を」

「光喜はそういう状況を作って、ユキオを目覚めさせたんですね……」


 コーヒーを一口すすり、ゆっくりとうなずく麻紀子を見据える。

 春の光は麻紀子の長い睫毛に影を作り出し、顔立ちをいっそう端整に見せた。

 気が遠くなってゆくような、崖から落ちる夢のような感覚に陥りながら、梨恵は麻紀子をただじっと見つめ続ける。


「総志朗は、おそらくユキオの中に残ってるはずよ」

「え?」

「それを聞きに来たんじゃないの?」


 はっきりとした目鼻立ちの麻紀子は一見きつい性格の女に見える。だが、その大きな瞳の奥には確かに温もりを感じる。

 総志朗と同じ、陽だまりのような。


「総志朗は、生きているって、ことです、よね?」

「おそらく。推測の域でしかないけれど」


 顔に一気に血が集まってくる。今まで死んでいた体が息を吹き返したかのように、血の脈動が体中を駆けめぐる。

 梨恵は頬をばら色に染め、期待に満ちた目を麻紀子に向けた。

 だが、麻紀子の目は暗い。


「期待を持たせるようなことは言いたくないの。総志朗が目覚める可能性はゼロに近いわよ。ユキオは強い。弱ってしまった総志朗の心では、ユキオには勝てない。総志朗が残っていたとしても深層心理の奥底に引きこもり、扉は完全に閉じられ、出てくることは叶わない」


 一気に奈落へ突き落とされた気分だ。梨恵は浮つき始めていた体を椅子にもたれさせた。


「扉は固く頑丈で、私たちの声は届きにくい。総志朗を取り戻すなんて、絵空事だわ」


 それはまるで死亡宣告。頭の中を手でごちゃまぜにされるような不快感が支配する。


「総志朗が主人格に戻れないなら、明君か統吾君を主人格にする手立てを立てなければならないわ。そのために、彼を知り合いの病院に預ける予定よ」

「知り合い……」

「精神科の先生よ。私の大学時代の友人なの。優秀な医師だから、きっとユキオを治療してくれるわ」


 現実が、叩きつけられる。総志朗はもう現れないし、もう会えない。

 そして彼は梨恵の手が届かない病院で、危険な存在として閉じ込められる。それは、彼との永久の別れを示している様な気がした。


「……香塚先生の手の届かないところに置いておきたいのよ。香塚先生はユキオを実験対象として見てる。昔から。今になっても。私の目の届くところに置いて、彼を香塚先生から守りたいの。私は昔、あの子を捨てた。だから、私に出来ることに手を尽くしたいのよ」


 麻紀子の口調が途端に優しくなった。梨恵の気持ちを汲んでくれたのだろう。

 その優しさがかえってつらい。梨恵は手で持ったコップをぎゅっと握りしめることで、涙をこらえる。


「私にも、出来ることをしたいです。私も、総志朗を捨てたから。出来ることを、したい」


 麻紀子の手が、コップを握った梨恵の手に触れる。少しかさついたその手からは、ほんのりと温かさが伝わってきた。


「そうね。そう。一緒に頑張りましょう」


 麻紀子の目は陽だまり。冬の寒い日でも、ぽっと温めてくれる光。


「澤村先生の目は、総志朗の目と似ている気がします」

「え?」

「総志朗の人格がいるのは、きっと倉沢先生のおかげですね」


 そんな気がした。本来の人格であるユキオの記憶や思いを切り取ったのが『人格』という存在だというなら、その人格を作り出す事象があるはずだ。

 つらいだけの、苦しみだけの人生なら、総志朗のような人格は生まれてくるはずがない、梨恵はそう思った。


「総志朗の表立って見せない優しさは、澤村先生に似ている気がします。澤村先生がユキオに与えたものが、きっと総志朗を創り出したんです」

「……そうかしら」

「そうですよ」


 麻紀子は気の張った顔を緩め、微笑んだ。梨恵もつられて笑う。

 観葉植物の合間から差し込む光が、二人を穏やかな空気で包み込む。







 本当に、そう思ったの。

 人との距離を作るのに、優しさが見え隠れする、あなたの瞳。

 すごく、似てると思った。

 あなたの人生がただつらいだけのものじゃないって、訴えているような気がした。

 だって、笑ってたじゃない。

 寂しそうにも見えたけど、幸せそうでもあったよ。

 私は、幸せだったよ。

 あなたといる時間が、とても。

ライオンの子番外編もブログにて更新。

興味がある方は読んでみてください。

(リンクは後書きの下などに張ってあります)

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