Recollection2 深淵:07
香塚病院からユキオが姿を消したことを、相馬光喜は香塚から聞かされた。そして、ユキオが眠りについてしまったことも。
香塚は詳しい理由は決して語らず、光喜は業を煮やして、とある場所に赴いた。
ユキオが消えた理由を知っているかもしれない人物がいる場所――澤村麻紀子のところへ。
「ユキオの行方? そんなの、私が聞きたいくらいだわ」
銀縁のメガネをかけ直し、長い黒髪を結わえなおしながら、麻紀子は光喜の問いにそう答えた。
香塚からは何も聞き出せそうもなく、頼りの綱は麻紀子しかいない光喜は、彼女に食い下がるしかない。
「ユキオはどうなった? 眠りについたってどういうこと? 知ってることを何でもいいから教えてくれ!」
サラサラの黒髪を振り乱し、くっきりとした目をしばたかせ、真剣な眼差しを麻紀子に向ける。麻紀子はメガネの縁を押さえながら、大きなため息をついた。
「ユキオは眠った。それだけよ。病院内で彼を危険視した医師たちが、彼を消すように頼んだらしいの。だから香塚はユキオを眠らせたのよ」
光喜は鋭い瞳を細め、唇をかむ。病院内に立ち込める消毒臭さが鼻をかすめる。
「あなた、ユキオの左目を傷つけた子よね? ユキオは左目を失明したらしいけど、そんなことをするあなたが、どうしてユキオを探すの?」
麻紀子の問いかけに、光喜は何も答えない。鋭い眼光で、麻紀子を睨むだけ。麻紀子は二度目のため息をついた。
「今は総志朗って人格が主人格になっているらしいわ。一年も前のことよ。ねえ、光喜君。あなたのことは香塚から聞いてる。あなたがどういう存在なのかもわかってる。だからあえて言うわ。ユキオのことは忘れなさい」
麻紀子の言葉を聞くやいなや、光喜の目が光を反射させる鏡のように鈍く光った。薄い唇を震わせ、つり上がった眉をさらにつりあがらせる。
「俺とユキオは……! お互い一人しかいない、血のつながった兄弟だ! 俺がユキオを守らないで、誰がユキオを守る?! あいつには俺しかいない! 俺はユキオを助けたいんだ!」
ユキオと共に過ごした母の胎内。生れ落ちた後もずっと一緒だった。ユキオの体内で生きていた彼は、ユキオのことを誰よりも深く知り、誰よりも深く思っていた。
ユキオと彼をつなぐ強い絆は、彼の意志を残し、彼は今もこうして生きている。相馬光喜という別の人間となっても。
「――わかったわ。ユキオを見つけたら、必ずあなたに教える」
麻紀子もまた、ユキオの行方を追う。
総志朗は香塚病院での出来事をあまり思い出せなくなっていた。防衛本能が働いて、苦しかった頃の記憶が思い出せなくなる。総志朗にとって香塚病院での日々は記憶の片鱗にも置きたくない出来事だった。だから、その記憶は思い出せなくなった。
そんな頃、総志朗は香塚にとうとう見つかってしまった。学登の親戚で暴力団幹部の加倉勇の部下が、香塚にちらつかされた金に目が眩み、行方をしゃべってしまったのだ。
総志朗は誘拐されるように無理やり車に押し込められ、香塚病院に連れて来られた。
「久しぶりだね、ユキオ」
香塚と総志朗だけの院長室。こげ茶色の重厚な机に肘をつき、香塚は座り心地の良さそうな革張りの椅子をゆらゆらと揺らしていた。
「オレはユキオじゃない」
「じゃあ、誰だい? 明か? 統吾か? 総志朗か?」
「……統吾だ」
いつの間にか人格は入れ替わっていた。統吾は奥歯が割れてしまうんじゃないかと思われるほど、強い力で食いしばる。目の前の男を殴ってやりたい衝動を必死に抑える。
「澤村先生を覚えているかい?」
かつての養母、澤村麻紀子の名を聞き、統吾は眉をしかめた。明と統吾は澤村麻紀子に関する記憶を有していたのだ。
「彼女はとある少年とコンタクトを取っているんだよ。この前、連絡が来てね。君にどうしても会わせてやりたかった。彼も君と会いたがってる」
申し合わせたかのように、院長室のドアが香塚の言葉と共に開く。ギイ、と軋んだ音が室内を走った。
ドアの向こうから現れた人物を前に、統吾は息を飲む。
彼は、ユキオと共に生き、そしてユキオの左目を傷つけた、ユキオのただ一人の兄弟。
「光喜……!」
オフホワイトのスーツを着た麻紀子の斜め後ろに立つ、少年。少しはねた黒髪と、鋭い眼光はユキオの前に初めて現れた時と変わらない。あの時よりもずいぶん成長はしていたが、ユキオと同じオーラを変わらず身に纏う彼を前に、統吾は動くことが出来ない。
「どういうことだよ! オレたちとこいつをまた会わせてどうするつもりだよ!」
射抜くような光喜の目をかわし、統吾は香塚に怒声をあげる。香塚は蓄えた口ひげをなでながら、未だ椅子をゆらゆらと揺らしていた。
「やってみたい実験があったんだよ。彼に会った時から考えていた実験が」
背筋をなめくじが這っていくようだった。統吾はもう見たくもなかった香塚の気味の悪い眼差しを一身に受け、体中から脂汗が出てくるのを感じていた。
「もう一度あの実験の日々に戻るか、ここで殺されるか、最後の実験を受けるか、選べ。話し合う時間をくれてやってもいい」
「最後の実験って、いうのは……?」
声が震えてしまうのを隠すことが出来ない。統吾の質問に、香塚はニタニタといやらしい笑みで答える。
「そこにいる、ユキオの双子。彼を君の体に戻すんだよ。彼の細胞を君の体に戻すんだ。彼が『ユキオの双子』として君の体に戻るのか、実験してみたいんだ。その実験を受けるなら、もう君に対して今までのような行為は行わない」
香塚の言葉に誰より驚いたのは、統吾ではなかった。光喜の隣にいた、麻紀子だ。
「光喜君! どういうこと?! ユキオの体に戻るって……? どういうことなの?!」
光喜の目はまっすぐにユキオに向けられていた。今は眠ってしまっている、ユキオに。
「俺がユキオを探していたのは、ユキオの体に戻るためだ。あの体は、俺のものだ。俺が手に入れるはずの体だったんだ。俺の体を、ユキオが奪ったんだ。俺はあの体を手に入れる。何が何でも」
「そっ……」
予想だにしていなかった光喜の発言を前に、麻紀子は発するべきセリフを見失う。光喜はユキオを助けたいと言っていたはずだ。それなのに、彼は正反対の言葉を吐いた。
「どうする?」
香塚の視線が統吾に戻る。光喜も麻紀子も統吾を見つめる。
あなたの左目は、彼を宿す。
彼はその存在を主張するように、彼が現れた時だけ、その目の色を濃い緑へと変えた。
漣のような淡い光を湛えていた。
それは、母なる海の面差し。
今週は月曜か火曜更新が守れず、申し訳ありませんでした。
来週からはきちんと更新していきます。




