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Recollection2 深淵:05

 ユキオの中にはいつの間にか新たな人格が生まれていた。明と同じく、実験の苦痛から逃れるために生まれたその人格は、統吾という十六歳の少年だった。

 明が従順で大人しい人格なのに比べ、統吾は荒々しく反抗的だった。実験が行われるとわかれば暴れ、怒りを発散する。だが、ユキオのような殺意に溢れたものではなく、まだ少年ゆえの反抗的な態度のようなものだった。



 香塚の机には、ユキオを知る病院内の者からの嘆願書が山のように積まれるようになっていた。ユキオを消してほしいという要望はほぼ毎日提出されていたのだ。

 最初は無視していた香塚だが、あまりの嘆願書の量に嫌気がさし、実験がてらユキオを眠らせようと考えた。

 やってみたい実験があった。その実験をやるのに、ユキオが邪魔になる可能性があった。



 院長室の重厚な机の上に積まれた書類。香塚はそれを片手で叩きながら、柔らかいソファーに身を沈めたユキオを見ていた。ユキオは眠るように目をつぶり、ぶつぶつと何事かつぶやいている。


「ユキオ、これが何かわかるか?」


 山となった書類を指差すが、ユキオは何も答えない。


「お前を殺してほしいという嘆願書だ。従業員の連中が毎日毎日嫌味のように送ってくる」


 目をつぶったまま、ユキオはふっと嘲笑った。ばかばかしい、と言うように。


「俺はお前を殺さなければいけない。こうも頼み込まれたらもう『No』とは言えないだろう?」

「殺せば? オレに生きている意味なんて元から無い」

「お前は俺を殺すんじゃあないのか?」


 香塚のおどけた調子の言葉に、ユキオはようやく目を開けた。ぎらつくその目には当たり前のように殺意がのぞく。


「俺を殺すんだろう? 死んでいいのか? 復讐も果たさずに?」

「何が言いたい?」

「他の人格にまかせて、しばらく眠れ」


 反論しようと口を開きかけたユキオより早く、香塚は言う。


「鋭気を養え。俺を殺すために」


――だから、今はゆっくり休め。鋭気を養うんだ。


 脳裏に木霊したのは、母の胎内にいた頃、そばにいたはずの双子の兄弟の言葉。

 胎児だったあの頃に言語なんてものは無かったが、双子の兄弟の意思は伝わっていた。羊水の中で反響するモールス信号のような二人だけの合言葉。

 目の前にいるこの憎むべき男に、今はまだ勝てない。そう思ったことを思い出す。怒りの中で冷静に受け入れた事実を反芻する。

 香塚の言うように、今は休む時。いずれ来るチャンスのために。

 ユキオは眠りにつくことを了承した。十四歳の時だった。





 催眠のような形で、ユキオは深い眠りに落ちていく。深淵の海に落ちていくようなゆらゆらとした感覚。煌く光は遠くに消えてゆく。


「必ず、殺してやる……」


 寝言のようにつぶやいたユキオの言葉を香塚は鼻で笑う。ユキオが甦ることはない、香塚はそう確信する。

 明と統吾とも話をつけていた。


「ユキオのような危険な人格をいつまでも放置できない、彼をどうにかしなければ、君たちの人生は狂いゆくだけ」


 香塚は明と統吾を言い含め、味方につけていた。明と統吾はユキオが目覚めないよう、ユキオが沈んだ『心の底』の門番の役割を買ってでた。ユキオを監視する役目を負ったのだ。

 だが、ユキオはすでにそれを予期していたのだろう。新しい人格を作り出していた。

 ユキオが簡単に切り捨てられる、己の弱い部分。いらない心を切り離して作った人格。眠りにつき、目覚める瞬間、その人格を簡単に壊し、主人格に戻るために。


「君は誰だい?」


 新たな人格は答える。


「――オレは総志朗……」







 ユキオが眠りについた後も香塚の実験は続いていた。

 猟犬のような牙を向くユキオがいなくなったため院内は落ち着きを取り戻し、それは淡々と繰り返された。

 ユキオの代わりに主人格となったのは総志朗だった。『門番』役を務める明と統吾はほとんど姿を現さず、院内の誰もが、総志朗ユキオが多重人格であるということを思い出さなくなっていっていた。

 総志朗は世話役だった学登と少しずつ交流を深めていた。

 総志朗はユキオとは違い、外の世界に憧れていたし、学登が教えてくれることをよく聞いた。学登を慕っていた。

 少しずつ積み上げていく関係は、本当に兄弟のように変わってゆく。そう思ってくれたらいい、学登が思っていた通りに。

 親しくなるにつれ、学登は総志朗が哀れに思えて仕方なかった。まだ子どもなのに、こんなところに閉じ込められ、香塚の残酷な実験を受けるユキオ。それを受け継いでしまった総志朗。

 投薬実験をすれば副作用で体中が爛れたようになり、生体実験をすれば、何日も寝込んだ。


「総志朗、どうして実験に反発しない?」


 耐え切れず、学登は問う。うつむき、何も答えない総志朗。


「君は、人間らしい生き方を出来ないでいる。ここにいれば、ずっと人間らしく生きられない」


 思わず訴える学登を、総志朗は今にも泣きそうな目で見た。


「人間らしいって何? 生き方ってなんだよ? オレはたった一時だけの存在で、オレの中の『ホンモノ』が目覚めたら消えなければいけないんだ! オレに『人間らしい』ものなんてひとっつも無いんだよ!」


 総志朗はユキオの存在を知っていた。そして、ユキオが目覚める時、自分が消されてしまうことも。

 まだ十五歳の子どもとは思えない、現実を知ったその目。絶望と失意がないまぜになった緑がかった瞳。

 このままではいけないと、学登は思う。十五歳の少年がしていい目ではない。

 普通の子どもが何かに励んだり、恋をしたりして青春を謳歌する年頃なのに、彼はこんな薄暗いところで、自分の行く末を知ってしまっている。

 香塚はとても優れた医師で、たくさんの人間を救っている。院内の医師たちは香塚を尊敬し崇拝し、彼の残虐な行動にも何の疑問も抱かずにいる。

 ユキオに対する実験も未来の医療のために、と賛同している。

 学登自身も香塚のことは尊敬していた。けれど、総志朗のこの目を見てしまってから、疑問を抱かずにはいられない。


「オレ、ここを出たいよ。あんたがいう世界を見てみたい」


 総志朗の一言は、学登の心の引き金をひいた。







 あなたが寂しそうだったことを知っていたよ。

 あなたが消えてしまいそうなこと、気付いていたよ。

 私があなたを消してしまったけど。

 あなたが思っている以上に、私はあなたを必要としてた。

 わかっていたよね?

 人は独りでは生きられない。あなたがそうだったように、私もそう。

 あなたがいないあの家に、怖くて行けなくなってしまったの。




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