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Recollection2 深淵:04

「左目はほとんど視力を失ってしまったよ。角膜の移植が必要だ」


 光喜によって傷つけられたユキオの左目の傷は思ったより深く、ユキオの視力はあっという間に落ちていった。移植の話が出たが、ユキオはそれを拒んだ。片目くらい見えなくてもいい、彼はそう言った。手術はもうたくさんだった。香塚に何をされるかわかったもんじゃないから。

 光喜がユキオに襲いかかったあの日、光喜は落としたナイフをそのままに、真っ青な顔で逃げていった。追おうとする香塚をユキオはなんとなく引き止めていた。

 体の中にいた、双子の兄弟。彼は確かに生きていて、ユキオの前に現れた。

 同じ苦しみを受けたもう一人の自分は、姿かたちは違えど、ユキオ自身と同じ表情をして目の前にいた。懐かしい気持ちと寂しい気持ちが入り混じる。

 同じのはずの彼は、違う人生を歩んでいる。


「光喜、か」


 蔑んだ目でユキオをいつも見ていた香塚の目が、光喜と遭遇したあの日からユキオに向かなくなっていた。しょっちゅう「光喜」「優喜」の名をつぶやき、遠い目をする。

 ユキオは香塚のつぶやく声を耳にするたび、脂汗がにじみ出てくるのを感じていた。

 香塚のあの目。あれは、ユキオを見るときの目。『実験対象』を見るときの目。

 触れてはいけない気がした。聞いてはいけない気がした。だが、聞かずにはいられなかった。不安は噴水のように溢れ出て、塞き止めることが出来なかった。


「光喜のことが気になるの?」


 そう聞いた瞬間、ユキオは聞いたことを後悔した。聞かなくても気付いていたことだったのに。わざわざ確認することで、確信してしまった。気付かない方が良かったことだった。

 香塚は細い目をさらに細くして、顔を皺だらけにして笑った。下品で粗野な笑い顔。ユキオを実験体として使う時、ユキオに見せていた表情だった。

 ざわざわと心臓の辺りから鳥肌が立っていくのがわかった。体の中心から爪の先まで、波紋のように広がる怖気。耳を防ぎ、座り込んでしまいたかった。


「あれもいい実験体になる」


 香塚の言葉は、鉛のように重く。鈍器で殴られたような衝撃が脳髄を走った。


――殺してくれればいいのに。

――神様、僕はなぜ生まれてきたの?


――僕はどうして生きているの?


「殺してやる!」


 烈火のごとく吹き上がる怒り。ユキオはとっさに机の上に置いてあったペーパーナイフを掴んでいた。

 顔色ひとつ変えず、香塚はユキオを見下ろしていた。


「殺してやる! 殺してやる! お前だけは! 殺してやるっ!」


 振り回すペーパーナイフは空を切る。そばにいた香塚の助手、宮間が慌ててユキオを取り押さえる。ユキオは反撃しようと宮間の心臓めがけてナイフを振る。ナイフは宮間の鎖骨辺りをかすり、鮮血が空中を舞った。


「ユキオ、ナイフを振り回したところで人は殺せない。少しは頭を使え」

「殺してやる!」


 床に押し付けられ、身動きの取れない体勢に持ち込まれたユキオだが、殺意をほとばしらせ、血走った目で香塚を睨み続けた。宮間が苦々しい表情で、必死にユキオを押さえ込む。


「ユキオ、おいたが過ぎると殺すぞ」


 歪み切った笑みを浮かべ、香塚はユキオのふわふわのくせっけをなでた。

 香塚の自分を見下した態度が癇に障る。ユキオは押さえつけられながらも、ぺっと唾を吐いた。

 今はまだ勝てない。この憎むべき男に今は勝てない。怒り心頭になりながらもユキオは冷静にそれだけを理解する。





 ユキオが十三歳になる頃、研修医として香塚病院に配属されたのは黒岩学登だった。

 学校を卒業したての彼に与えられた最初の仕事、それはユキオの世話。病気でずっと病院生活を送る息子の世話をしてくれ、香塚はそう言っていた。

 世間から隔離され、ずっと病室で過ごすユキオは青白く、何かの病を患っているように確かに見えた。

 ずっと病室で過ごし、友達もいない、うつろな目をした彼を学登は哀れに思う。だから、彼の世話にも力が入った。

 友達とはいかないにしても兄のように思ってくれたらいい、学登はそう思って、外の世界を教え、勉強を教えた。

 ユキオの目が学登に向けられることはなかったけれど、学登の声をユキオが追っているのは間違いなかった。学登の動きや声に合わせて、彼の体が時折ピクリピクリと動いていたから。



「黒岩、ユキオの世話、大変だろ」


 学登の上司にあたる男が、ある日ポツリとそう言った。ユキオは自分のことは自分で出来るし、行動を見ていると病気をしているようには見えない。(実際は病気ではないのだから)話しかけても反応さえしてくれないことは寂しくもあったが、大変だと言い切るようなものでもない。学登は首をひねり、「大変ではないですよ」と笑った。


「お前は酔狂なやつだよ。いや、知らないから仕方ないのか」

「何をです?」

「お前はまだここに入って間もないから知らないんだ。お前だけだぞ。ユキオに話しかけてるの」

「だから?」


 上司の話の意図が読めず、学登は少しイライラする。上司の真顔が近くに迫っていた。


「ユキオ、医者の一人を殺そうとしてる。心臓めがけてナイフを振り落としたんだ。何年も前の話だが、この前も」


 そこでいったん話を区切り、首を切るように手を振って見せた。


「首を絞めてきやがった。その二回だけじゃねえ。もう何十回だ。まだ子どもだから俺たちも何とか対処できているが、あと二、三年してみろ。俺たちの誰かは殺されるぞ」





 一年後、香塚病院に勤め、ユキオのことを知る医師数名から、嘆願書が香塚に提出される。

ユキオを消してくれという、内容だった。








 本当は気付いていたくせに。

 隠してた。見ない振りしてた。逃げてた。

 誰かへの思慕。

 それを顧みることを恐れないで。

 胸に抱えたその小さな花を手折らないで。



 

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