Recollection2 深淵:02
「生意気なクソガキが」
拳をさすり、男は憎々しげな声を吐く。ユキオの養父、香塚孝之はことあるごとにユキオをなぐっていた。ユキオの反抗的な目、冷めた口調、憎たらしい態度。すべてが気に食わない。
ユキオはその度に、虚ろな目でつぶやく。
「死ね死ね死ね死ね」
「どうして? 殺したい」
「死ねばいいのに」
「おまえ、うるさい」
ユキオの独り言は、独り言というよりは誰かと会話しているかのようだった。
麻紀子は気味悪く感じるが、孝之はどこか興味をそそられるような目で彼を見ていた。
マッドサイエンティストの目だ、と麻紀子は恐ろしく思う。孝之の研究熱心なところに惹かれて結婚にまで至ったが、そばにいればいるほどに、孝之の『人』を『人』というよりは『研究対象』として見ているような部分を怖いと思うようになってきていた。
ユキオを養子にしてから初めて気付いた孝之のその目。孝之はユキオを息子だとは思っていない。実験動物だと思っているような気がしてならない。
ユキオの周りでは動物虐待の噂が絶えない。
麻紀子は真実を知ろうと、ユキオの行動を見逃さないように追い続けた。
保育園に預けたユキオが、ある日保育園を抜け出し、近くの家にするりと入り込むのを目の当たりにする。
そこにいた、雑種の中型犬。白黒のぶち犬は人懐っこい犬らしく、ユキオを見るなりしっぽを振った。
ユキオは寄って来る犬めがけて、ナイフを振り落とす。犬の断末魔の鳴き声が静かな住宅街に響き渡る。着ていたTシャツを真っ赤に染め、舞い散る鮮血を満足げに見つめるユキオ。
麻紀子はそのすべてを目撃し、体中からほとばしる恐怖を隠しきれなかった。
もうだめだ、そう思った。あの子は狂っている。自分もいつか殺される。そばにいられない。
麻紀子は夫である香塚孝之に離婚を突きつける。
もう今の環境の中では生きていけない、離婚してほしい。麻紀子の懇願に孝之はうなずいた。
「わかった。離婚しよう。ユキオの親権はお前に譲るが、ユキオの養育権は俺がもらう」
それが離婚の条件だった。
全ての荷物をまとめ、麻紀子はユキオと暮らした家を出る。ほとんどの荷物を宅急便で送ってしまったため、その日、麻紀子の荷物はスーツケース一つ分しかなかった。
「ごめんね、ユキオ」
玄関の前で立ちすくむユキオに、麻紀子は笑いかける。だが、ユキオはずっと足元に視線を落としていた。
「じゃあ、行くね。ユキオ、元気でね」
ユキオの横に立つ孝之に一礼し、麻紀子はもう一度ユキオを見た。ユキオは、その視線に気付いたのか、ゆっくりと顔を上げた。その目に僅かながらも涙を湛えて。
「あんたも……ぼくを捨てるのか」
「え……」
スーツケースを持った手がビリビリとしびれた気がした。ユキオの目には明らかに涙があった。ゆるゆると、何かの衝撃があればぽろりと落ちてきそうな、涙が。
「ユキオ……」
伸ばそうとした手を、孝之に塞がれる。「ユキオ、家に戻ろう」そう言って、孝之はユキオの肩を抱いて家に入ってしまった。
麻紀子は大事なことを見落としていた気がして、息を飲み込んだ。とても大事なこと。ユキオの本心を見逃していたことに、この時気付いてしまった。そして、気付いたところで、もう遅いことも。
香塚孝之は麻紀子と別れたその日から、ユキオを自分の病院に連れ込んだ。表向きは入院という形で、彼を軟禁したのだ。
特別病棟に入れられたユキオが、その病院に入ってすぐにそれは行われた。
麻紀子も気付いていなかった事実。ユキオを殴り蹴り、虐待を加えていたからこそ気付いたこと。ユキオの腹部には小さな瘤があったのだ。
孝之は確信していた。医者の勘ともいえた。得体の知れない何かが、そこにある。
その瘤を取り出す摘出手術を行ったのだ。
「胎児内胎児」
ユキオの腹にあったその瘤。それは、胎児内胎児といわれるものだった。
母親の胎内にいた時、本来なら双子で生まれるはずの兄弟が、何らかの原因で赤ん坊の体内に取り込まれてしまう現象。体の一部分だけとはいえ、それがユキオの体内にあり、瘤のようになっていた。
顔や手、背骨まで出来上がったその胎児は、ユキオの中で生きていたのだ。
「ユキオ、お前はこいつと会話していたんだろう?」
孝之は楽しそうに笑い、取り出したユキオの兄弟を大事そうに容器に置く。
「実験をしようか。この子の生命力を試してみよう」
後ろに流した黒髪が揺れる。鋭い一重まぶたの眼光を輝かせ、孝之はカルテを眺める。口に蓄えた髭をなで、彼は目を細める。
香塚総合病院の産婦人科。そこにいる医師の一人、岡村勝太は、香塚孝之と懇意な間柄であるとともに、孝之に借金をしていた。
孝之はそこにつけこみ、彼に実験の協力を願い出た。
その日、体外受精のために病院に訪れていた相馬百合子。百合子の胎内に戻す受精卵にユキオから取り出した胎児内胎児の細胞を混ぜること。孝之は借金の帳消しと交換条件で彼にそれを強要した。
崇拝する医師である香塚孝之の申し出と、借金の帳消しという魅力を前に、岡村勝太は良識というものをかなぐり捨てる。
たまたまその日、体外受精の治療をした百合子。彼女の胎内に宿った命は、『ユキオの双子』の細胞が交じり合う。
そして、産まれたのは――
光喜。
あなたの願いや思い。
私にはわからないことだらけで。
だけど、確かに感じていたことがあった。
あなたも、同じだった。
求めていたものは、同じだった。
実際の医療では絶対に無理な設定ではあると思います。
ですが、その辺は大目に見てくださると助かります(^^;
次回更新は、出来れば明日します。