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Recollection1 過ちの行方:12

 目の前にいる光喜は、哀願するような目で梨恵を見つめていた。

 梨恵の目には涙が溢れてくる。

 なぜ涙が出てくるのか、梨恵自身にもわからない。初めて彼が自分に対して本心を吐露していることに、戸惑いを隠せない。


「梨恵」

「やめて!」


 耳を手で塞いで、座り込む。それでも、光喜が自分を見つめているのを感じる。


「私に何を求めてるの? 私は、あなたが思っているような女じゃない。何でも受け入れられるほど度量がある女じゃない。どうしてこんな目に合わせるの? どうして?」


 おそるおそる顔をあげる。光喜は梨恵の前に立ち、じっと梨恵を見下ろしていた。


「……俺たちは」


 光喜の視線がすっと空へ向けられる。澄み渡る青空。目が痛くなるくらいの青。


「……どうしてあんたなんだろうな」


 目の奥が熱くなるのを梨恵は感じていた。光喜の切なさを帯びる声が、心を刺激する。

 どうして。どうして自分なのか。わからない答え。梨恵はふと総志朗と生活した家を振り返った。

 あるはずもない幻影。笑いあうあの頃の面影が、ちらついた。

 地面を踏みしめる音が聞こえて、梨恵は光喜の方に向き直る。光喜は梨恵に背を向け、歩き出していた。


「光喜!」


 梨恵の呼ぶ声にも彼は振り返らず、歩いて行ってしまう。

 光喜の後姿を梨恵は目で追いながら、そっと立ち上がった。腹の子の存在が急に重みを増す。命がここにいることを、再確認する。






「黒岩さん!」


 肩を叩かれ、学登ははっと我に返った。クラブ・フィールドの従業員の一人が、学登の前で苦笑いをしていた。


「さっきから呼んでるのに。梨恵さんが事務室に来てますよ」


 急速にうるさいくらいの音楽が耳をつく。学登は「ああ」と返事して、頭を軽く振った。

 手に持っていた布巾の従業員に手渡し、事務室へと向かう。

 ドア一枚隔てるだけで、DJの奏でる音楽が遠くなる。誰もいない廊下を通り、事務室の前に立つ。

 ドアをノックし、中に入ると、梨恵が顔を上げた。


「どうしたんだい?」


 思いつめた表情の梨恵に笑いかける。だが、梨恵の表情は固く、重苦しさが漂う。


「誰に相談したらいいか、わからなくて。親にもまだ話せなくて……。学ちゃんならって、思って」

「なに?」


 梨恵の前に座り、もう一度微笑みかける。梨恵の表情が幾分か和らいだのがわかった。


「私、中絶しようって決めたの」


 悲壮な決意の言葉に驚きを隠せない。学登は鼻で息を吸い込み、「そうか」とだけ答えた。


「でも、光喜に産んでほしいって言われた。それだけなのに、決意が揺らいで……もうどうしたらいいのか、わからない」

「澤村さんから総志朗の話を少し聞いたんだって?」

「どうして知ってるの」

「澤村さんから連絡を受けたんだよ」


 内ポケットに入っているタバコを取り出そうとして、やめた。梨恵は妊娠している。タバコを吸うのはまずい。代わりにガムを取り出し、口の中に放り込んだ。


「ユキオが母親に憎まれていた話は聞いたろう? 光喜は、ユキオの体験をよく知っている。母親に憎まれ、殺されそうになる恐怖を彼らは知っているんだ。産まれてきても、誰も愛してくれない現実がどんなに苦しいことかも、光喜はよく知ってる」


 梨恵が苦しそうに顔を歪めた。

 つけっぱなしにしていたパソコンの光が部屋を青く染める。


「梨恵ちゃん、お腹の子を愛せないかい?」


 テーブルに肘をつき、梨恵は手で顔を覆った。泣いてしまいそうなのを耐えているように見えた。


「わからない。わからない」

「光喜は、梨恵ちゃんを信じているんだと思うよ」


 思わぬ言葉だったのだろう。梨恵は手で覆っていた顔をあげ、目を丸くして学登を見つめる。

 学登は、まだつたない生き方しか出来ない梨恵を懐かしく思う。遠い昔の自分を見ているような気がする。


「俺にはそう思えるけど、梨恵ちゃんはそう思わないかい?」

「……学ちゃんは、どうしてそんなに総志朗や光喜のことを知っているの? もう、いい加減話してくれてもいいじゃない」


 梨恵の真剣な眼差しを前に、あの頃の記憶がざわめきだす。風に吹かれた海がさざなみを起こすようなゆるやかな波。やがて大きな波へと変わる。

 振り返れない過去。

 取り返しのつかない過ち。

 未だに自分がしたことが正しかったのか誤っていたのか、わからない。だからこそ、隅に追いやり考えないようにしていた記憶。

 しかし、それではいつまでたっても償いさえ出来ないことを、学登自身よくわかっていた。


「そうだね。そうだ。すべて話さなければいけないのかもしれない」


 学登の重い口がようやく開く。





 篤利は優喜の家の前に立っていた。

 昨日、総志朗の病室を訪れた篤利。そこで遭遇した総志朗の別の人格。その人格と関わりのある優喜。

 あの日、優喜は病室を去る間際、篤利に言った。


「話が聞きたいなら、俺の家に来なよ」


 住所を教えてもらった篤利は、今日こうして優喜の家に訪れたのだ。

 優喜が恐ろしい人物であることを肌で実感してはいたが、どうしても真実を解き明かしたい。その一心で篤利はここまで来た。

 おそるおそるチャイムを押すと、覇気の無い女の返事がインターホンから聞こえてきた。


「あの、優喜に用があって、」

『優喜はいません』


 ガチャンと内線が切れた音。

 篤利はへなへなとその場に座り込む。

 緊張が解けたのと同時に、決意をそがれたことで体から力が抜ける。


「いらっしゃい」


 いきなり開いたドア。そこから優喜がにやにやと笑みを浮かべて立っていた。


「なんだよ! いるんじゃん!」

「悪かったよ。さあ、どうぞ」


 優喜に導かれ、家の中へと入る。しんと静まり返った家。先ほどインターホンに出た女がどこにいるのか、その存在さえ伺えない廃墟のような雰囲気を放っていた。高級な家具が並び、ぴかぴかに磨かれた家屋なのに。

 二階にある優喜の部屋は整理整頓が行き届き、生活感を感じさせない。モノトーンの家具で統一された部屋は、高校生の男が住んでいるにしては小奇麗過ぎる気がした。


「そこ、座りなよ」


 八畳ほど広さの部屋。ドアの向かいにはベッドがあり、その手前にガラステーブルと黒革の二人掛けソファーが鎮座していた。ソファーを指差され、篤利はあたりを伺いながら、予想以上にふわふわしたソファーに腰を下ろす。

 優喜はベッドの脇にあった机から椅子を引っ張り、ソファーの真向かいに置くと、そこに座った。

 壁にかかったダーツボートに三本ダーツが刺さっている。すべて真ん中を捉えている。それについつい目を奪われていた篤利だが、すぐに目の前に座った優喜に視線を戻した。


「話してくれよ! 総志朗のこと!」


 優喜は面白そうにくつくつと喉を鳴らす。まるで篤利の反応を楽しんでいるかのよう。

 優喜にとってすべてがゲームのようなもので、優喜はそれを楽しんでいるだけのような気がして、篤利はぞっとする。


「話してやってもいいよ。俺はもうすぐいなくなるし」

「え?」


 優喜の目は篤利を通り過ぎ、遠い過去へと向かってゆく。


 






 傷つけ、傷ついて。

 私たちは深い蟻地獄の中で、もがき続ける。

 抜け出す術はすぐ近くにあるのに。

 それすら気付けず。

 ただひたすらに、あがき続ける。






This tale cleared.Next tale……深淵


次回更新は14日か15日の深夜の予定です。

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