Recollection1 過ちの行方:07
麻紀子はキャンドルの揺らぐ炎に視線を落とし、ポツポツと小さな声で話し始めた。
店内に流れるクラシックの曲が、遠い昔の記憶へと誘ってくれる。
「あれは、そう……寒い、雪が降りそうなほど寒い日だった。仕事を終えて病院の裏口から外に出たら、裏口の横に赤ん坊が捨てられているのを発見したの。生まれたばかりのその赤ん坊を、私は急いで治療した」
「それが、総志朗?」
「言ったわよね? 総志朗は存在しない。彼はユキオ」
受け入れたくない事実を再確認させられる言葉。梨恵はぎゅっと唇をかむ。社会的に存在するのはユキオであり、総志朗ではない。やりきれない思いがのしかかる。
「私は子どもが出来ない体だったから、ユキオを養子にとることにしたわ。当時の夫も認めてくれた」
「当時の夫?」
「ええ。ずいぶん前に離婚したのよ」
肩をすくめて微笑んでみせると、麻紀子はまたキャンドルに視線を戻した。
「ユキオを不思議な子だった。母親の胎内にいた時の記憶を持ち合わせていて、時折私に聞かせてくれた。母親がいつも言っていた言葉。それさえもユキオには届いていた。母親はなんて言っていたと思う?」
「愛してる、とか……ですか?」
「生まれてくるな。死んでしまえ」
客の少ないダイニングバー。梨恵は今この場所に、麻紀子と自分しかいないような錯覚に囚われる。心が苦しい。誰かの手を求めたくなって、でも誰もいないことに気付き、己の手を握りしめる。
「まだお腹の中にいるユキオに、母親はそう呼びかけていた。理由はわからない。おそらくは
思いもよらないことで妊娠するはめになったんでしょうね。中絶するという選択さえもしなかったことを考えると、誰にも言えない境遇だったのかもしれない」
憶測でしかないけれど、麻紀子はそうつぶやいて、梨恵の腹を一瞥する。そこにいる生命を労わるように。
「産まれる前から憎まれていたあの子……どんな思いでいたのかしらね」
梨恵はそっと自分の腹に手を添えた。望んでいなかった妊娠。はたして自分がお腹の中にいる生命を憎むことなく産んだり出来るのだろうか。自分を騙した男の子どもなのに。
「ユキオはその記憶のせいで、どこか歪みを抱えていた。私はあの子に愛情を注ぐことで、世の中には憎しみだけではないことを教えようとした。けれど、心を閉ざし続けるあの子に、私の気持ちは届かなかった。夫は、懐かないあの子に愛情を持つことが出来なくて、いつも冷たく当たっていたわ。暴力もしょっちゅう振るっていたし、『お前なんかいらない』そんな暴言もよく吐いていたわ」
悲しすぎる過去。吐き気のような嗚咽が喉をつつく。口元に手をあて、梨恵は吐き気を我慢する。
「本当の母親に憎まれ、養父にも愛されない。あの子はいっそう歪んでいった。幼いがゆえにぶつける先の無い怒りや憎しみを、あの子はいつしか小さな動物に向けるようになっていった。私は、怖くなった。とんでない子どもを養子にしてしまった。ユキオは、まともじゃない。いつか私をも傷つけるんじゃないかと、そう思ってしまった」
切れ長の瞳を伏せ、麻紀子は小さく深呼吸した。長い髪に手を通し、額に手を当てる。
「私はあの子に愛情を注いでいるつもりでいたけど、結局は自分に酔っていただけだったのよ。かわいそうな子を育てる、健気な養母になったつもりでいて、私がユキオに向けていたのは単なるエゴでしかなかった。あの子は勘が鋭いから、そのことに気付いていたのよ。だから、私に心を開かなかった」
――オレはライオンの子。
いつかの総志朗の言葉。両親はいない、覚えていないと言った。
交代人格である自分にはそういう存在はいない、という意味だったのか。それとも基本人格であるユキオのことだったのか。どちらにしろ、彼にとっては触れられたくない過去だったのだろうと、今になって思う。
崖から突き落とされ、強いものだけが生き残る、ライオン。彼はライオンにあこがれていたのではないだろうか、梨恵はそんな考えを巡らせ、あの時の総志朗を思い出す。
笑っていたのに。そこにいたのに。――今はどこにもいない。
「私は夫と別れる決意をしたわ。夫の離婚の条件は、ユキオの親権を私に譲る代わりに、あの子は自分の下に置くことだった。私は、ユキオが怖かったから……それを認めてしまった」
鋭さを失った麻紀子の目。後悔と懺悔に満ちたその表情は、年齢を感じさせないと思っていたのに、急に老け込んでしまったかのように見えた。
「それが、ユキオが三歳の時。今から十八年前のこと」
いつの間にか、キャンドルの炎が消えていた。赤い小さな固まりだけが残ったキャンドルホルダー。まるで血の塊がべたりと張り付いているかのようだった。
「ユキオは、夫の病院で暮らしていたそうなの。香塚病院。知っているかしら」
「いえ、知らないです」
「そう……。香塚病院でどう暮らしていたのか、私には話すことが出来ない。続きは香塚病院の院長、香塚孝之に聞いて」
私は、何も知らなくて。
何の他愛も無い日常が、どれだけ愛おしいものかもわからなくて。
だから、この子には伝えてあげたいの。
何よりも大切だと。
愛しているのだと。