Recollection1 過ちの行方:05
静まり返った夜の住宅街をとぼとぼと歩き、家に戻る。明かりのついていない我が家が今日は無性に寂しく感じた。
空腹が吐き気を促している。つわりかも、と口を手で押さえながら足を速めた。
門の前を見ると、そこで篤利が体育座りをして待っていた。
「何か用?」
「謝りに来たんだよ。病院ではごめん。言い過ぎた」
しょんぼりとうなだれた篤利を目の前にして、梨恵はふと笑みがこぼれる。気にすることないのに、と思う。
「上がってく? お茶くらい出すわよ」
梨恵の微笑を見て、篤利も少しだけ笑顔を見せた。玄関に向かって歩き出した梨恵の後ろについてくる。
家に上がり、梨恵はコーヒーの準備をしながら、食パンをトースターに放り込んだ。
何も入っていない胃の中でぐるぐると胃液が回っているような感覚。何かを食べれば少しは収まるだろうと、とりあえずはパンを食べることにしたのだ。
ミルクたっぷりのコーヒーを篤利のために準備し、自分には水を用意する。妊娠中はカフェインを取らないほうがいいとどこかで聞いたことがある。そうなると今は水しか飲むものがない。
すでに大人しく座っている篤利にコーヒーを差し出し、キッチンに戻った。
食パンにバターを塗りながら、「篤利君も何か食べる?」と聞く。篤利は弱く首を振って「いらない」と答え、熱々のコーヒーに息を吹きかけていた。
いざパンを食べようと口を開けると、なぜだか食べる気がしなくなる。パンを皿に戻し、キッチンカウンターに置いてあったみかんを手に取った。これくらいなら食べることが出来そうだ。
「総志朗、どうして事故に遭ったの?」
おもむろに篤利がつぶやいた。梨恵は篤利のまっすぐな視線をかわすように、窓辺に近付く。
「言ったじゃない。私のせいだって」
「そういうことじゃなくて。オレは総志朗がどういう風に生きてきたか知らない。何も知らない。総志朗はなんで、梨恵さんの言葉でそこまで追い詰められたの?」
私だって何も知らない、梨恵は心の中で叫ぶようにつぶやき、窓枠に手をかける。静かな住宅街でわずかに聞こえる虫の声に耳をすませる。
「梨恵さん! 優喜って誰?! 光喜って何?! なんで総志朗のことを光喜って呼ぶやつがいるんだよ! 総志朗は?! 総志朗はどこにいんの?!」
「そんなの私にだってわからない!」
壁を思い切り叩き、梨恵は篤利に向き直った。言葉を吐き散らした篤利は眉間に大きなしわを寄せ、先ほどと変わらない強い眼差しで梨恵を睨んでいた。
「私にだって何もわからない! 私だって何も知らないのよ! どうして私を責めるの?! 私は……私はただ好きになっただけ……! どうすればいいの?! どうしろっていうのよ!」
崩れるように膝をつき、梨恵はぼろぼろと涙をこぼした。気持ちが悪い。吐き気が消えない。不安が押し寄せる。篤利にこんな風に感情を吐露する自分が情けなくて、梨恵はもう顔を上げることが出来ない。
「――総志朗を助けよう」
篤利の声が耳朶に響く。梨恵は涙を流しながら目だけを上げた。テーブルが邪魔で篤利の姿は見えない。
「オレ、よくわかんねえけど、そう思う。オレの母ちゃん、言ってたもん。傷つけたんなら、絆創膏はりにそばに行けって。それだけで優しさは伝わるって」
目だけでなく、顔も上げる。篤利はやはり変わらぬ強い眼差しで梨恵を見ていた。それが今の梨恵には心強く思えた。
「調べよう! 総志朗みたいに! 何でも屋みたいに!」
「し、ら、べる?」
「そうだよ! だってこんなわけがわかんない状態じゃ、オレたち何をしたらいいのかわかんねえじゃん。泣いてたってどうにもなんないよ。総志朗のことを知ろう!」
前向きでまっすぐな篤利の言葉。
総志朗のことを調べることで何が変わるというのか。そんな疑問など梨恵には思い浮かびもしなかった。篤利の真摯な言葉が心に突き刺さる。
「そうよ……」
何かをしなければいけない。総志朗を取り戻すために。動かなければいけない。償うために。
総志朗は本当に消えてしまったのか。何の目的のために光喜は自分を利用したのか。
決意が胸を貫く。
「調べる……。私、調べるわ」
東京から少し離れた場所に長山総合病院という、この市では一番大きな病院がある。
薄汚れた建物はどこか不気味だが、一歩病院に入ると、オレンジのタイルで出来た床と白い壁が印象的な清潔感のあるロビーに変わる。
梨恵は受付を済ませ、ロビーで名前が呼ばれるのを待っていた。手に持った名刺をじっと見つめる。
先日クラブ・フィールドで学登と話し込んでいた女。ユキオの養母と名乗ったあの『澤村麻紀子』という人物が何か知っているのではないかと、梨恵はここまで来たのだ。
ようやく名前を呼ばれ、診察室に入る。
ちょうど書き物をしていた澤村麻紀子は、入ってきた梨恵をちらりと見て、「あら、あなた」とメガネを人差し指で直した。
「こんにちは」
「どうしたの?」
はっきりとした二重と切れ長の目。女優並みに整った顔をした麻紀子は、患者用の優しい笑顔を梨恵に向けていた。
「お話がしたくて。総志朗のことで」
梨恵の言葉を聞くやいなや、麻紀子の目が厳しくなる。
「わかったわ。今は仕事中だから、夜まで待てるかしら」
梨恵は奥歯を噛み締めながら、うなずく。
あなたを知る。
あなたの過去を追う。
そこにある、真実。
あなたの、真実。