Recollection1 過ちの行方:04
長テーブルを布巾で丁寧に拭き、学登は「どうぞ」と澤村麻紀子に座るように促す。麻紀子は無駄のない所作で音もなく椅子に座る。
お茶を用意している学登の背中を見つめながら、麻紀子は穏やかな口調で問いかけた。
「ユキオはどうしているの?」
カタ、と湯飲みと急須があたる音がする。学登は振り返ることなく返事をした。
「入院しています。事故にあって」
「あら、大丈夫なの? あの子、保険に入っていないでしょう」
「ええ、まあなんとか」
麻紀子とは目を合わせることなく、学登はお茶を差し出し、麻紀子の前に座る。何とも言えない気まずい空気。かすかに聞こえるダンスフロアの音楽が無かったら耐えられなかっただろう。
「この九年間、私はずっとユキオを思っていたわ。あの子が目を覚ましてしまうのではないか、その時はどうなるのだろうか……。不安で不安で仕方なかった。でも、あの子は目覚める様子はなかった。もしかしたら大丈夫なのかもしれないと期待していたけれど」
湯飲みを両手で持ち、まだ熱いお茶を一口飲み込む。湯飲みについた口紅の跡を親指と人差し指で拭い、麻紀子は視線を落とした。
「あなたのことだから、もう気付いているわよね? ユキオがすでに目覚めていたことを」
学登はなにも答えない。
「香塚病院から私に報告があったのよ。ユキオの調査報告。東京に来たのも報告を聞いたから。私はあの子の母親だから、心配になったのよ」
真ん中で分けた長い前髪を片手で梳き、麻紀子は小さくそうつぶやいた。学登はずっと抱えていた不安が、雷雨の雲のように心の中にあっという間に広がっていく様を感じていた。
眉間に深いしわを寄せ、麻紀子の切れ長の目を見つめる。
「俺がしたことは……やはり間違っていたのでしょうか。香塚先生に言われたとおり、あの時ユキオを見捨てていれば」
溜め込んでいた不安を初めて吐露する。それは目の前にいる澤村麻紀子という女性が唯一の理解者のように思えてならなかったから。
「そうかもしれないわね。でも、それをどう感じたかはあの子自身のこと。あなたが後悔するのはなぜ? ユキオの周りにいる人間のことを考えて? ユキオ自身のことを考えて?」
「……両方です」
きつく鋭い麻紀子の目。だがその目には確かに柔らかな優しさが垣間見える。学登を見つめる麻紀子の目は学登を睨んでいるようでいて、そうではない。慈愛に満ちた、母親の目。
「黒岩君、私とあなたは同志だわ。彼を思い、彼の行く末を案じてる。だからこそ、私たちは決断しなければいけない」
「それは」
学登が言葉を吐きかけたとき、ドアが勢いよく開いた。
驚いて振り返る学登と麻紀子の前に、目に涙をためた梨恵が立っていた。
「学ちゃん! 私、光喜に……!」
学登だけを見ていた梨恵だが、麻紀子の存在を確認し、慌てて口をつぐむ。目を丸くして梨恵を見ていた麻紀子は、すぐに表情を厳しくした。
「光喜? あなた、ユキオのことを知っているの?」
「え……」
今度は梨恵が目を丸くする。麻紀子は表情を和らげて立ち上がると、梨恵に向かって名刺を差し出した。
「澤村麻紀子と申します。ユキオの養母です。あなたは?」
「あ、ええと、浅尾梨恵といいます……」
『長山総合病院産婦人科 澤村麻紀子』そう書かれた名刺を梨恵は繁々と見つめている。そんな梨恵をしばし眺めていた麻紀子だが、革バッグを持って立ち上がり、学登にそっと視線を送った。
「こうなってしまった以上、ユキオはこちらで預かるわ。今後のことは後ほど相談しましょう。香塚先生はユキオを消したがっているけれど、私は彼を生かす道を考えたいと思ってる。あなたの味方なのよ。連絡してちょうだい」
そう言い残し、ヒールの音を響かせて去っていってしまった。
状況が飲み込めない梨恵は呆然とその後姿を見送っていたが、少ししてようやく学登に向き直った。
「今の人は?」
うなだれた学登。肩にかかる長さの黒髪でその表情は見えない。
「いつか……梨恵ちゃんにはすべてを話さなければいけないのかもしれない。だが……俺にはまだ話せない。悪い」
梨恵はごくりと唾を飲み込んだ。学登の表情は見えないけれど、彼が今、混沌の中にいることだけははっきりとわかる。
言い知れぬ不安を抱えているのは決して自分だけではないことを、梨恵はまざまざと思い知らされる。
「私、帰る……」
胃の中に落ちた重い石のようなこの思い。それは消化できるようなものには思えない。入り混じる様々な思いが吐き気に変わる。それをこらえることしか、今の梨恵には出来ない。
「梨恵ちゃん、総志朗のことが知りたいか?」
「――はい」
「いつか、ちゃんと話す。だから、少しだけ、待っててくれ……」
待てない、梨恵は口には出さずに、そう思った。
あなたのことを知るにつれ、私は私が言った言葉を何度も噛み締めた。
無知で残酷で非情な言葉。
思い出すのは、絶望に満ちたあなたの表情。
だから、私は。