Recollection1 過ちの行方:03
「気付いてなかった? 俺は別にあんたのことなんか愛してなんかいないんだよ。全ては総志朗を消すため……。こんなにうまく騙されてくれるとは思わなかったよ」
嘲笑が光喜の顔を歪ませる。
梨恵は何を言われたのか理解できず、ただ大きく目を見開き、吸い込まれそうなほど綺麗な光喜の左目をずっと見つめ続けていた。
「協力をありがとう、梨恵」
「え……、なに、そ……」
なぜか顔が笑ってしまう。梨恵は追いついてこない思考をなんとか奮い立たせようと、手をせわしなく動かし続ける。自分の頬に触れ、唇に触れ、額に触れる。
「総志朗が何を求めていたか、あんたはわかる?」
梨恵を抱く時の、愛に満ちた瞳はそこにはない。上流の川に足を突っ込んだ時のような冷ややかさだけが、そこにあった。
「彼は求めていた。『加倉総志朗』という人間の居場所を。誰かの心にそれがあることを彼は知っていた。彼を愛した奈緒は優喜に殺され、支えにしていたあんたは彼を裏切った。彼はあんたに自分の存在を認めてもらっていると信じていた。あんたに触れたこともない家族の愛情を与えてもらっていると信じていた。だが、あんたは言った。『愛しているのは、お前じゃない』と」
底なしの沼に足を入れてしまった感覚。光喜の言葉がずぶずぶと梨恵を沼の底に誘う。熱いとさえ思えてしまう冷たさを漂わせながら。
「俺はあんたがそう言ってくれるのを待っていた。その言葉こそが、彼を消すキィワードだったのだから」
「じゃあ、あなたは、私を……だましたの? 私は本当に本気であなたが好きなのよ……。それを……総志朗を消すためだなんて!」
荒げる言葉と共に、現状が浸透してゆく。利用されていただけだという真実が、胃を圧迫する。信じるつもりがない心とは逆に、脳はその事実を淡々と受け止めてゆく。
「あんたが勝手に俺を好きになったんだろ? あんたが総志朗に投げた言葉は、俺が言わせたんじゃない。あんたが勝手に言ったんだ」
「私を、利用しただけってこと……?」
「気付くのが遅いよ」
不気味な笑顔で光喜は言う。優しい声も優しい笑顔もどこにも無い。梨恵はようやく気付く。これが彼の真実の顔だということを。
「どうして……なんで? どうして総志朗を消そうとするの? 私を利用して! どうしてよ!」
「俺たちはただひとつの目的のために生きてる。目的を果たすには、総志朗が邪魔なんだよ。くだらない日常とはもうお別れだ」
梨恵は立ち上がり、腹に触れる。そこにいる生命を実感するために。
「子どもが、いるのよ。私は、どうすればいいの? どうすればいいのよ」
「産めばいい。俺とあんたの子どもだ」
「簡単に言わないで!」
「俺が決めることじゃない。あんたが決めることだ」
光喜は静かに目をつぶり、布団に体を沈める。そのまま彼は再び眠りについてしまった。
非常階段への入り口のそばで膝を抱えて座っていた篤利は、たれてくる鼻水を袖口で拭って立ち上がった。
梨恵にひどいことを言ってしまった。傷つけることを言うな、と言った自分も梨恵が傷つく言葉を吐いた。梨恵に謝ろう、と思う。
膝に手をつきながら立ち上がり、ぱんっと頬を叩く。うじうじしているのは大嫌いだ。
キャップをかぶり直し、篤利は総志朗の病室に向かった。
個室のためか、静けさに包まれた病室。梨恵は病室を出てどこかに行ってしまった。空調の機械的な音がわずかに聞こえる。
病室のドアがゆっくりと開く。履きつぶした革靴が一歩病室に侵入してくる。
「兄さん、おめでとう」
病室に入るなり、彼はクスクスと笑いながらそう言った。紺色のネクタイをゆるめ、カバンをどさりと床に置く。
「思ったより時間がかかったね」
閉じた目を開き、光喜は目だけで彼を見る。そこにいるのは、制服を纏った青年。――相馬優喜だった。
「優喜、感謝してる」
「兄さんの望みは俺の望みだ」
フフと笑みをこぼす優喜。光喜は真剣な面持ちのまま、真っ白な壁を睨んだ。
「あとはユキオが完全に目を覚ますのを待つだけだ」
病室の外で、篤利は身を潜めながら病室内の会話に聞き入っていた。
総志朗に向かって話しかけている制服の男は、総志朗を『兄さん』と呼んでいる。総志朗に兄弟はいないはず。そして、男の名――相馬優喜。梨恵が行方を捜していた人物の名だ。
胸騒ぎがする。優喜からは不穏で黒い嫌なオーラを感じる。野生の動物が感じ取る危険信号のような、胸騒ぎ。篤利は不安と疑惑をひしひしと感じながら、そっと病室から離れた。
ダンスイベントで盛り上がるフロアを、学登はぼんやりと眺めていた。ダンスを習っている若者たちが集まっているだけに、フロア内で繰り広げられているステップは軽快でリズミカルだ。
「黒岩君」
カウンターにすっと出てきた手。少しだけしわのよったその手は、明らかに今日の客層では考えられない年齢を感じさせた。中指におさまった赤い石のリングが照明の光で妖しく光る。
「黒岩君よね? お久しぶり」
ハスキーな女の声。学登はその女の手ばかりに集中していた自分の目線をそろりと上げた。
つり目で二重の大きな瞳。つり上がった形のいい眉。年齢を重ねた分だけ刻まれたしわも、その女にとってはまるで化粧のひとつのように綺麗だった。
長いストレートの髪を後ろで束ねたその女は、意志の強そうな眼を学登に向け、穏やかに笑う。
「澤村さん……!」
澤村麻紀子という名のその女。九年前に会った彼女は、あの頃と変わらず、五十歳に差し掛かるとは思えない若々しさを保っていた。
「どうして、ここに?」
「ちょっと話したいことがあるんだけど、大丈夫かしら?」
嘘だと。
嘘だと信じてる。
あなたの言葉が偽りだらけだったのわかってる。
でも、あなたは偽りの中に真実を隠してた。
咲きかけの花の中にあった雨粒のようなその真実を、私は信じ続けるの。
今回最後の方で登場した澤村麻紀子。
今回が初登場ではありません。『A current scene6 再会の幻』でちょこっとだけ出てます。