Recollection1 過ちの行方:01
「梨恵ちゃん!」
病院に駆けつけた梨恵を出迎えたのは学登だった。血相を変えた学登の顔を見て、梨恵は唇が震えるのを感じた。
「そ、総志朗は?」
「わからない。今、集中治療室に……」
学登の説明が終わらないうちに、集中治療室からメガネをかけた若い医師が出てきた。一息つき、梨恵と学登を見やる。
「彼の親御さんは?」
「俺が親代わりをしてるんです。彼に両親はいません」
「ああ、そうですか。彼の状態なんですが、とりあえずは命に別条はありませんから安心して下さい」
力が抜けたのか、学登は近くにあったソファにどさりと座り込み、大きく息を吐き出した。
総志朗は道路をふらふら歩いていたところを車に轢かれたらしい。加害者は事情聴取で警察に連れて行かれてしまった。
「彼が目を覚ましたら、警察から事情聴取に来ると思います。まあとにかく今は彼のそばにいてあげてください」
メガネの奥の目に優しさを灯した医師の言葉に従い、梨恵と学登は病室に運ばれた総志朗の元へ向かう。
病室に入ると、点滴の準備をしていた看護師が二人に会釈し、小さく微笑んだ。
「左手と肋骨を骨折してますけど、それ以外に大きな怪我はありませんよ。その内、目も覚まします」
そう言って、総志朗にかけられた布団を直し、病室を出て行く。学登は看護師に一礼し、総志朗の傍に寄った。
頭にも傷を負ったのか包帯が巻かれ、小さな傷が生々しく残っている。頭の他にも至るところに包帯が巻かれていた。
あまりに痛々しい姿に、梨恵は瞳を潤す。
学登は梨恵に椅子を渡すと、窓際に寄りかかった。
「ちゃんと息してる?」
自分で確かめればいいのに、梨恵は怖くて確認できない。学登は「大丈夫だよ」と笑い、総志朗の顔に耳を寄せた。静かな吐息が「すーはー」とゆっくりとだが確かに聞こえた。
「呼吸は安定してる。医者だって別条はないって言ってたんだから」
だから安心しな、と学登は優しく笑ったが、梨恵は顔面を蒼白にし、総志朗のそばに寄ろうとしない。
「梨恵ちゃん?」
「学ちゃん、どうしよう……」
ガタガタと梨恵が震えていることが、遠目でもわかった。学登は嫌な予感を覚えながら、梨恵の言葉を待つ。
梨恵は唇を噛み、涙を一筋こぼし、手を強く握りしめ、学登を見据えた。
「私、総志朗にひどいことを言ったの……! だから、こんなことに……」
学登はごくりと唾を飲み込んだ。
窓から差し込む光が、朝を告げている。雀ののん気な鳴き声が、今はただ耳障りだった。
「何を、言った?」
「……光喜に会いたいって、光喜と一緒にいたいって、言ってしまった……。でも、だって、しょうがないじゃない! 光喜の子供がいるの! 光喜が好きなんだもの!」
息が止まる思いだった。なんてことだ、学登はつぶやき、頭を抱えた。
奈緒の葬儀の日、梨恵を連れて帰った光喜の、あの笑み。梨恵の腰を抱いたあの手。あの時、何が起こっていたのか気付くべきだった。
「どういうことだ……? いつからそんなことになってた? それが総にとってどういう意味を持つのか、わかってるのか? わかってるのか?!」
感情が高ぶるのを感じる。言葉を抑えようと思うのに、声を荒げてしまう。
梨恵はおびえた目を一瞬したが、すぐに学登を鋭く睨んだ。
「そんなこと、わかってる! でも、好きな人と一緒にいたいと思うことが悪いことなの?! 私は、光喜が好きなのよ!」
「自分のしたことを正当化させようとするのはやめろ!」
息を飲み込み、梨恵は目線を床に落とした。
光が部屋をだんだんと明るくしていく。
「……誰を好きになろうと、それは梨恵ちゃんの勝手だ。悪いことなんかじゃない。だが……」
学登は日の光を浴びた総志朗の顔を見つめる。乾ききっていない血が赤く光って見えた。
「それが何かを犠牲にするなら、その犠牲になる者のことを考えるべきなんだ。梨恵ちゃん」
学登の目は哀れみに満ちていた。梨恵は学登の目も総志朗のことも見ることが出来ず、ただじっと床だけを見つめ続ける。
「君は、総志朗の存在を否定したんだ」
梨恵には、白い床が真っ黒に見えた。
「光喜が必要だということは、結果、総志朗を排斥することになる。君が口にした言葉は、決して言ってはいけない言葉だったんだ」
総志朗を巡る五人の人格。総志朗、明、統吾、光喜、ユキオ。五人はとても細い糸の上で微妙なバランスを取っている。
ひとつの人格は、ひとつの人格を消そうと策を練る。
ひとつの人格は、消されまいと、自分はここにいるのだと、存在し続けようとした。だが、それは脆いガラスのような、壊れやすいものだった。
『私が必要なのは、あなたじゃない。私が必要なのは、別のあなた』
ガラスは簡単に砕け散る。
決して口にしてはいけない、タブーの言葉。
「私……」
梨恵はようやく顔をあげる。体中、傷だらけの彼。『彼』は目覚めるのだろうか。『誰』が目覚めるのだろうか。
それは、学登にも梨恵にも、わからない。
せめぎあう人格たち。
私には、どうすることも出来ない、彼の目的。
彼らがその道を選んだのは。その道を選ぶために犠牲を出したのは。
彼らを突き動かす、たった一つの心。
揺るぎない彼の心。