CASE10 夫婦:03
「はい、これ。依頼料」
女はぶ厚い封筒を総志朗の目の前に差し出した。総志朗は恭しく一礼し、封筒を両手で受け取る。
胸元に大きなリボンのついた淡いピンクのカットソーにシフォン素材のスカートという甘甘な服装をしたその女は、満足そうにメンソールのタバコを燻らす。
「これで、離婚も成立したし。彼もあたしとの結婚、考えてくれるわ」
甘い雰囲気とは真逆の刺々しい言葉を吐きだし、女は醜い笑みを浮かべた。この女は、浮気調査をした男の浮気相手だ。
男は「離婚する」と言いつつ、いつまでたっても離婚する様子はなかった。さらに、男の妻が妻自身も浮気しているにも関わらず、世間体を考えてか旦那と別れようとしないため、浮気相手のこの女は一手を講じたのだ。
男と自分の浮気だけがばれれば、慰謝料を請求されかねない。慰謝料は浮気相手である自分にも降りかかる。妻が浮気していることを認めさせ、夫婦共々離婚を選ぶように仕向けるよう、総志朗に依頼したのだ。
そして、それは見事に成功した。
女は報酬として総志朗に五十万手渡すことで、自分の将来を手に入れた。
「じゃ、ありがとね。あんた、詐欺師のが向いてんじゃない?」
「あはは。オレは何でも屋が性に合ってるんで」
「そ」
女はタバコを長い爪で灰皿に押し付け、ひらりと手を一度振って去っていった。
かなりの金額を手に入れたことで総志朗は浮かれていた。足取り軽くアパートに戻ると、二階に上がる外階段の前に梨恵が佇んでいるのを発見した。
「梨恵!」
「……お帰り」
「今日はメシおごってやろうか? 依頼料が入ったんだ」
梨恵は弱々しく首を振り、地面に視線を落としてしまった。
「梨恵?」
「私……」
何かを言いかけて言いよどむ。バッグを持っていない方の手で腕をこすり、視線をあちこちに泳がせる。
総志朗はわけがわからず、首をかしげ、梨恵を心配そうに見つめた。
「この前、病院行くって言ったでしょ……?」
「ん? ああ、そういえば」
梨恵は決して目を上げない。
闇夜がそっと忍び寄ってくる時間。太陽は冷たい風を起こしながら、家々の間に姿を消してゆく。
「あれから、ずっと考えてた。どうしよう、どうしよう、って」
アパートの前に一本だけ植えられた桜の木。風が舞い、桜の花弁が踊る。
「こんな、こんなこと、本当は言いたくない。でも、でも」
何の前触れも無く、梨恵の目から大粒の涙が零れ落ちた。総志朗は唖然として、梨恵の涙が地面に吸い込まれてゆくのを眺めていた。
「光喜に……」
地面すれすれで桜の花弁が渦を巻く。それがまるでめまいのようで、総志朗は一瞬立ちくらみを覚える。
「光喜に会いたいの! 光喜に会わせて!」
「な……なに、言ってんだよ?」
「私、光喜が好きなの! 光喜との子どもが、出来たの……!」
梨恵の肩に触れようと伸ばしかけた手から力が抜けていくのを感じた。梨恵の言葉が、テレビの向こう側の声のようで、実感が湧かない。
「お願い。光喜に会わせて! 光喜と一緒にいさせて!」
言葉が出なかった。
闇が目の前を覆いつくした気がした。梨恵の姿も桜の木もアパートも何もかもが無くなって、世界にただ一人、暗い闇の底に落とされた気がした。
奈緒の死を乗り越えた時の強い気持ちが消えてゆく。
梨恵が支えてくれた生きる勇気が消えていく。
自分を守ろうとした今までの力が消えてゆく。
何もかもが、闇に飲まれ、跡形も無くなっていく。
「やっと……」
目の奥が焼けるように熱い。喉が震え、吐き気がこみ上げる。
「やっと手に入れた居場所を……こんな、こんな形で手放すことになるなんて……」
かすれた声が自分の声とは思えなかった。
奈緒を失った喪失感。自分さえも消えてしまいそうな喪失感から救い出してくれたのは、梨恵だった。
かけがえの無い人。一番信頼できた人。性別を超えた絆を感じさせてくれた人。総志朗にとって、梨恵は支えだった。
『加倉総志朗』という存在を認めてくれた支えだった。
総志朗はこの瞬間、唯一の支えを失ってしまった。
「――梨恵。賭けをしないか」
「え……?」
「簡単な賭けさ。オレが生きるか死ぬかの賭け。ルールは簡単。オレが生きてたらオレの勝ち。『オレ』が生き続ける。……オレが死んだら梨恵の勝ち」
そっと梨恵の頬に触れる。幾度となく流れた涙で濡れていた。
「――光喜が、手に入るよ」
「な……」
それは、いつだったか、梨恵が依頼したゲーム。生と死を賭けた、ばかばかしい依頼。
総志朗は優しく微笑んでいた。
「わ、私、そんなつもりじゃ」
「光喜が欲しいんだろ? それは、こういうことなんだ」
「ご、ごめん……。でも」
総志朗の腕にしがみつこうとする梨恵の手を振り払い、軽いステップを踏むように梨恵から身を離した。
それはまるで、梨恵と総志朗の間に出来た距離のようだった。
「捕まえてみせろよ、梨恵」
総志朗は寂しそうに笑い、道路を渡ってゆく。人通りの無い入り組んだ街の闇の深い方へ、彼は行ってしまった。
梨恵は慌てて彼を追うが、もうどこにもその姿を見つけることが出来なかった。
重く、淀んだ、深い闇。眼前に広がるそれは、うれしそうに歪んで見えた。
――人はね、死んだらまた生まれ変わるの。それを繰り返すの。何度も、何度も……。大切な人のところに生まれ変わりながら。
一歩。一歩。踏み出すたびに闇の色が濃くなる。
――総君もあきらめないで。生きることをあきらめないで。
彩香との約束。守れない、くやしさ。
「オレはもう、だめだ……。オレはもう」
ひきずる足が重く、心の奥の笑い声が闇と共に膨張してゆく。
――あたし、総ちゃんのこと、守ってあげるんだもん。そばにいてあげる。
奈緒はもういない。自分のせいで、殺された。
――独りだって思ってても、どこかにいるじゃん、絶対、誰かが。
もう、いない。誰も。誰も。
――あなたは知っているの? 自分の中に、別の人格がいること……。
「そんなこと、ずっと知ってた!」
――お前は加倉総志朗として生きてきた。これからも、じーさんになって死ぬまで、お前は加倉総志朗として生きるんだよ。
「黒岩さん、ごめん。オレは、もう、あいつには勝てない……!」
――つらいことも苦しいことも、わかりたいの。言葉にしてほしいんだよ。
「梨恵……!」
砕け散った。何もかもが。
見知った風景が広がる。病院を抜け出した彩香と歩いた道。富士山を見た公園に行く道だった。
あの時は楓の木に目が行ってしまっていて、道の脇に桜の木が整然と並んでいたことに今更気付く。
はらはらと舞い散る桜。風でさんざめく花の音。
彩香と見たあの日の夕焼けが、まぶたの裏で煌くように広がってゆく。
けれど、それは淡い夢。
薄紅色の嵐の上には黒く重く暗い雲が、総志朗を押しつぶさんと垂れこんでくる。
――お前は消えるんだよ!
「やめてくれっ!」
車のクラクションの音。鋭いブレーキ音。響き渡る、闇の音。
It is this to receive work and it is in the end.
He disappeared.
It already finishes truly and is ?
A tale newly starts again.
Go in the past……
前にも書いたのですが、この作品は私が学生の頃に書いたものです。
小説を書いていることは友達二人しか教えていなくて、当時読んでもらっていたのもこの二人だけでした。(今も書いていることは二人とも知らないけど)
この友達二人、二人ともこの回を読み終えた後の感想が、「梨恵、ひでぇよ。むかつくよ」でした(笑)
さて、読者の皆様はどう感じたでしょうか?
作者としてかなり気になります。
「むかついた」でも「これはしかたないかな」でも私的には納得しちゃいます。