CASE10 夫婦:02
奈緒の葬儀から三ヶ月が過ぎた。
梨恵の前に光喜は頻繁に現れるようになり、それが梨恵には不安でもあり嬉しくもあった。光喜との愛を交わすひとときは何よりも幸せで、何よりも怖かった。どこからか聞こえる踏切の音のような、危機感をあおる何かが、心に忍び寄っていることに見ないふりをしている。近い未来、今の自分の甘えが何かを引き起こす気がする。
マグカップをテーブルに置き、梨恵は短いため息をついた。最近どうも具合が悪い。微熱や頭痛が続くし、妙に眠い。少し早いが五月病にかかってしまったのだろうか。
窓の向こうに視線を移すと、新緑が風で揺らめいていた。季節はすっかり春。木漏れ日は暖かく、日差しは柔らかい。
ふと目に入ったカレンダーに、梨恵は首をかしげた。生理が遅れている。もともとあまり順調に生理が来る方ではない。まさか、梨恵は自分の考えに首を振り、学校に行く準備を始めた。
スーツを身に纏った男を総志朗はこっそりと追いかけていた。今回の依頼は浮気調査。
ストライプのスーツと短く切った黒髪。男からは清潔感が漂よい、生真面目そうな印象を受ける。
男の横には、OLらしいニットのカットソーに膝丈のフレアスカートを履いた女がぴったりと寄り添っている。
男は女の肩を抱き、ホテルへと入っていった。
総志朗は二人の後姿をカメラに納め、にやりと笑った。
浮気調査はなかなか実入りのいい仕事だ。相手側の原因が立証できれば、慰謝料が払われる。その慰謝料から浮気調査代が払われるので、時給で一万はくだらない。
何枚かシャッターを切った後、総志朗はカメラをズボンのポケットに押し込み、その場から離れた。
見上げる空は青く澄み渡り、春の陽気が降り注ぐ。どこからともなく桜の花がひらりと舞い落ちた。
薬局で買ってきた妊娠検査を梨恵はじっと見つめていた。家のトイレでそうしたままもう十分は立っている。馬鹿らしい、とため息をつく。
説明書はさっきから何度も読んだ。そんなわけがない、と思うのだが、避妊をちゃんとしていなかった日もあったのだ。
『判定窓にラインが出れば陽性です。出ていなければ陰性です』
もう一度注意書きを読み、梨恵はトイレにゆっくりと座った。
「あれ、梨恵さん」
道沿いに咲く桜を眺めながらふらふら歩いていたら、総志朗と出くわした。春の日差しを浴びる総志朗の顔は晴れやかで、そこには何の不安も無いように見えた。梨恵は涙が落ちそうになるのを必死にこらえ、総志朗に手を振る。
「どっか行くの?」
「うん。ちょっと具合が悪いから病院に」
笑顔を出しているつもりだったが、ちゃんと笑えているかわからない。総志朗は梨恵の態度がおかしいことに気付いたのか、ほんの少し首をかしげた。
「大丈夫?」
「うん。総志朗は? 仕事?」
「まあね」
「良かった。ちゃんと仕事出来てるんだね」
奈緒が死んでしばらく、総志朗は仕事もほとんどキャンセルして、奈緒の墓前に足繁く通っていた。「大丈夫」と言って笑うのだが、それでも寂しそうだった総志朗の姿を梨恵は忘れることが出来ない。
「梨恵さんがいてくれたから、オリャ元気になれたんだよ。感謝だね」
梨恵は「ううん」と首を振る。総志朗の住むアパートを教えてもらった梨恵は、毎日のように彼に会いに行ったのだ。
彼。会いに行っていたのは、総志朗だったのか、光喜だったのか。梨恵にもわからない。
「おっと、そろそろ時間だ。オレ、仕事だから」
ポケットからカメラを出し、ニッカリと笑う総志朗の顔に太陽光線が当たる。まぶしそうに空を仰ぎ、彼は「じゃ」とカメラを持った手を振った。
総志朗に手を振り返したその手を、梨恵はそっとお腹に当てた。去っていく総志朗の後姿はまばゆい緑と光の向こうでかすんで見える。
一度目をつぶり、深呼吸する。まぶたの裏まで届く光が目を眩ませる。
「ええと、これとこれとこれ」
写真をテーブルに一気に置く。どれもこれも同じ男と女の後姿。
「奥さん、浮気してましたよ。あなたが言うとおり」
「やっぱりか! くそ、あいつ……」
男はギリリと歯軋りをし、写真を食い入るように見つめる。
「でも、あなたも浮気してますよね?」
「な、なんだと!」
その爽やかな顔を歪ませ、男はテーブルから身を乗り出した。今日もストライプのスーツ。彼はストライプが好きなのか、総志朗はどうでもいいことを考える。
「実はね、奥さんからも依頼があったんです。奥さん、あなたがオレに依頼していること知ってたみたいですよ。何でも屋の名刺、スーツのポケットに入れっぱなしだったでしょ?」
男は身を乗り出した体勢のまま、「あ」と目を開いた。どうやら心当たりがあるらしい。
「奥さんもオレに依頼してきたんです。あいつも浮気してる。両成敗だって言ってましたよ」
すっと胸ポケットから写真を出す。目の前にいる男とOL風の女のツーショット写真だ。
「こ、これは!」
写真を奪い取ろうとする男の手からさっと写真をよけると、総志朗は写真を胸ポケットに戻した。
「さて、どうしますか? 離婚? それとも別居? それともこのまま? どれを選んでもいいんですけど、お互いがお互いを思いあっていないのに、一緒にいる意味なんてあるんですかね? この際、お互い浮気相手とくっついちゃえばいいんじゃないですか?」
胸ポケットから、今度は離婚届を出した。すでに妻側のサインと印鑑は押してあった。
「妻が、これを?!」
「そうですよ」
あっさりとそう答えると、男は力が抜けたように、どさりと椅子に腰を下ろした。
ねえ、総志朗。
ねえ、総志朗。
あなたはいない。
会いたい。
会いたい。
心から、あなたに会いたい。
ねえ、お願いだから、もう一度、私に笑いかけて。
101話目です。
夏ホラーも終わったので、連載の方も頑張ります(^^)