第二部九話
メンタルマップ。
人間がこれまでの経験や知識に基づいて頭の中に描き出している、イメージ上の地図。雪白さん曰く、人によって描くものが違うため、実際の地図とはかなり異なる仕上がりになる……らしい。案内の前と後で比較すれば、新しく覚えた場所や、何が印象に残ったかを見る手がかりになるとかなんとか。
それがトポフィリアとどう繋がるのかはよく分からないが、雪白さんと同じく勉強熱心な紬が異を唱えないので、きっと研究の役に立つのだろう。
週明けの五月二十五日、月曜日。
五十嵐先輩を交えての打ち合わせで、行先を山府下側地区の大通りとした。下側地区とは、前回の校外活動で行った山御杜本社の北側一帯を指すらしい。
「下側地区があるなら上側地区もあるの?」
俺は素朴な疑問を部員にぶつけてみた。
「当然ございますわ。お兄様はそんなこともご存じないのですね」
大竹さんに小馬鹿にされた。こいつ腹立つなー。
「上側地区は本社の南側一帯を指す。この前、式社や内社に行くときに歩いた辺りよ」
雪白さんが簡潔に説明してくれた。地図を見ると、上が下側地区で下が上側地区になっている。ややこしやー。
ちなみに、今日も室井君は不在である。そろそろ連絡するか。
「先輩はなぜこの下側地区に連れていきたいんですか?」
紬が積極的に質問している。普段人見知りなのに、部活のことになると大胆になる。
「単純に、私の家がある辺りだから詳しいの。それ以外にも観光地として魅力的な所だからなんだけど、さっき言ってたメンタルマップ? に影響するかもしれないから、詳しい説明は当日するね」
ほう、美人な先輩のお家があるとなると、これは張り切って行かなければなるまい。ウッキウキな心を抑えて、ポーカーフェイスを保っていると紬と目が合った。
「兄さんキモい」
……………………もう死ぬしかない。
生きる気力を失った俺は、大きく息を吸い込み……そして、大きく息を吐いた――。人はこれを、深呼吸と呼ぶ。
「では校外活動の申請用紙を作ってしまいましょう。前回のノウハウがあるので、慣れたものです」
邪知暴虐な紬さんは、俺のことは構わずに手続きを進める。そうだ、それでいい。俺のことは構わず、先に行け……。
「活動日は次の土曜日で、ここにいる人は全員参加で大丈夫なのですが、武尊君の参加の有無がわかりません。兄さん、連絡してください」
「それが、今さっき連絡したんだけど、まだ返信がないんだよな。忙しいのかもしれないし、返信の期限だけ伝えて無理に誘うのはよそう」
申請用紙の項目を埋められるだけ埋めて、この日は活動を終了した。
翌日になっても、その翌日になっても、室井君からの返信がない。さすがに心配になったので、昼休みに室井君の教室へ様子を見に行くことにした。
体調不良なのだろうか。いや、もしかして俺、嫌われたのかな……。
一度ネガティブに考えてしまうと、どこまでも膨らんでしまう。とても不安になったので、雪白さんと渡部君にも付いてきてもらうことにした。万が一嫌われていたら、昔から友達の渡部君に間に入ってもらおう。
「ところで、渡部君は室井君と連絡できてる?」
「いや、僕の方も、この前の金曜日から連絡が取れてない。元々忙しい家だから不思議ではないんだけど、さすがに心配だね」
どうやら連絡が取れていないのは俺だけではないようだ。嫌われている可能性は低くなったので、少しホッとした。いや、体調不良かもしれないからホッとしては駄目だろ。
部内ではもう既に、個人の事前メンタルマップの作製に取り掛かっており、申請書の提出期限も近付いている。今回の活動に参加するかどうかだけでも確認しておきたい。
室井君の教室、一年二十組へ到着した俺達は、扉をノックして中を確認する。
室井君はいなかった。
扉の近くにいた生徒に、室井君の所在を確認してみる。
「すみません、一年一組の者なのですが、室井武尊君ってどこにいるかご存じですか?」
「ああ、武尊なら今週ずっと休んでるっスよ」
俺の倍近く腕の太い、ゴツゴツの格闘家を思わせる男子生徒が答えてくれる。良く見ると教室の皆、全体的にガタイが良い。そういえば以前、大竹さんが室井君のクラスのことを、スポーツ特待クラスと言っていたっけ。
「欠席の理由とかって分かる?」
腕の太さに完全にビビッて委縮する俺の代わりに、渡部君が尋ねてくれる。
「担任曰く、家の用事で休んでるそうです」
「わかった。ありがとう」
お礼を言うと、渡部君は踵を返した。
「えっ、今ので何かわかったの?」
「いや、家の用事で学校を休んでいるとしか情報はないけど、それで十分だ」
渡部君はそのままスタスタ歩いて行ってしまう。
「室井君の家は天山流の他に、この街の祭礼で行う神楽などの伝統芸能も受け継いでいるの。だからこんな風に学校を休むことも珍しくないのよ」
雪白さんがポツリと説明してくれた。そんなもんなのか。室井君が総合伝統芸能者型ラストサムライなのは知っていたが、学校を欠席して連絡が取れなくなるほど忙しいのか。
急に室井君が、住む世界の違う人に思えてしまい寂しくなった。戻ってきたら存分に遊ぼう。
「この感じだと、土曜日の参加は難しそうね。室井君抜きで手続きを進めるしかないわ」
残念だが、雪白さんの言うとおりなのだろう。早速紬に連絡し、校外活動申請用紙を完成させた。




