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平手打ちされたので、婚約破棄宣言に拳でお答えしました

平手打ちされたので、婚約破棄宣言に拳でお答えしましたー子爵令嬢・エミリーの場合ー

作者: Megumi
掲載日:2026/02/01

「……許さなくて、よかったんですね」と語った、子爵令嬢のその後のお話です。

 人気のない学園の廊下。

 昼休みが終わる直前で、人の気配はほとんどない。


「なあ、エミリー」


 低い声に呼び止められ、エミリーは足を止めた。

 振り返って婚約者——ジェイソンの顔を見た瞬間、心臓がぎゅっと縮む。


 怒っている。

 ああ、まただ。


「さっき、あいつと何を話してた?」

「あいつ?」

「とぼけるなよ。あの商家の息子とやけに楽しそうにしてただろ」


 そこでエミリーはようやく、ジェイソンがなにに苛立っているのかを把握した。

 商家の息子であるエイデンと話しているのを見られていたらしい。


「別に、何ってほどでは……ただ試験の順位を褒められただけで……」


 相手にとっては、きっとほんの社交辞令。

 一言、二言交わしただけで、会話というほどのものでもない。


 ——けれどこの男にとっては、それすら許されないものらしい。


「女のくせに俺より成績がいいのも気に入らねえのに、平民の男なんかにヘラヘラ愛想振りまいてるんじゃねぇよ!」

「痛っ!」


 腕の内側を、ぎゅっとつねられる。

 いつものことだ。

 見えない場所を狙った、暴力とまでは言えない行為。

 しかし日常的に行われるそれは、いつもエミリーを萎縮させた。


 痛い。

 怖い。


 けれど、その日のエミリーの脳裏に浮かんだのは、あの日の光景だった。

 イヴが、女性だからというだけで押し付けられた理不尽を、毅然と跳ね除けた日のこと。


 ——あのとき、思った。


 どうして私は、ずっと被害者のままでいるんだろう。

 私だって、動けばなにか変わるんじゃないだろうか。


 何かを変えるということは、すごく怖い。

 長い時間をかけて刷り込まれた“女は黙って男に従うべき”という教えが、エミリーの足をすくませる。

 けれども、今動かなければ一生このままだという思いが、とうとう彼女を突き動かした。


「や、やめてください。私は愛想を振りまいてなんて……」

「は? 口答えすんのかよ」


 冷たく吐き捨てるような声に、エミリーの背筋が凍る。

 この声音は、何度も聞いてきた。

 このあと何が起きるか、体が覚えている。


 これまでのエイミーだったら、真っ先に謝っている。

 必死に許しを乞えば、ジェイソンは満足して拳を下ろしたから。


 けれど今、エイミーはそれをしなかった。

 そんなエミリーの態度に、ジェイソンの頭にますます血が昇っていく。

 自分より弱いはずの相手が、思い通りに怯えない。

 それが、彼には何よりも許せなかった。


 ジェイソンの腕がエミリーに向かって、苛立ちのまま乱暴に伸びる。

 反射的に両腕を上げて自分を守りそうになるのを、エミリーは必死でこらえた。


 避けない。

 歯を食いしばる。


 ジェイソンが、乱暴にエミリーの髪を掴んだ。

 涙がにじむ。怖い。痛い。

 それでもエミリーは勇気を振り絞ると、廊下に響き渡る悲鳴を上げた。


「きゃあああああっ!!」


 驚いたジェイソンが思わず手を離すと、エミリーはわざと大袈裟に体勢を崩した。

 背後の台に置かれた花瓶にぶつかり、エミリーはびしょ濡れになる。


 そして花瓶が割れた音にジェイソンが呆然としている間に、足音が近づいてきた。

 近くにいた人が集まってきたのだ。


「何があった!?」


 駆けつけた教師と生徒たちの視線が、一斉に二人に向けられる。


 床に散らばる、割れた花瓶の破片と散った花。

 びしょ濡れの状態で床に座り込んでいる、乱れた髪のエミリー。

 そして、腕を中途半端に上げたまま、固まるジェイソン。


 ——変わり始めた学園で、それは致命的な光景だった。


「ひどい……婚約者に暴力を振るうなんて」

「最低……」


 非難の声が、次第に大きくなっていく。

 婚約者は青ざめて叫んだ。


「ち、違う! こいつが勝手に……!」


 指を刺され、エミリーは床に座り込んだまま、肩を震わせた。


 怖かった。

 本当に怖かった。


 でも同時に、心の奥底から激しい感情が込み上げてくる。

 エミリーは思わず口角が上がってしまいそうになるのを、必死でこらえながら言った。


「ごめんなさい……私が、いけないんです。私が勝手に転んだだけで……」


 本当のことしか言っていない。

 確かに、エミリーは自ら花瓶にぶつかりにいった。

 この状況を作ったのは彼女だ。


 しかし、周囲は、その言葉を別の意味で受け取った。


「……最低だな」

「婚約者にこんなこと言わせるなんて……」


 ジェイソンが何を言っても、言い訳にしか聞こえない。

 その場の空気を支配したのは、エミリーだった。


 その様子を少し離れた場所で見ていたエイデンだけが、気づいた。


 ——彼女が、自らこの状況を作り出したということに。


 ◇◇◇


 その後の処分は早かった。


 ジェイソンは暴力行為により退学。

 二人の婚約は破棄。


 学園に残ったエミリーは、周囲からの気遣いと好奇心の視線を浴びて、小さくため息をついた。


 怖かった。

 痛かった。

 それでも——自分で、自分を守ることができた。


「大丈夫、でしたか」


 声をかけてきたのは、結果的に婚約破棄のきっかけとなった、エイデンだった。

 心配そうに、それでも踏み込みすぎない距離で立っている。


「……少し、痛かったです」


 正直に言うと、彼は困ったように笑った。


「見事な立ち回りでしたよ」


 その言葉にエミリーは、思わず泣き笑いのような表情を浮かべた。

 自分を認めてくれる人がすぐそばにいたことに、今さらながら気づいたのだ。


 ——これから先の私は、きっと。

 自分の意思で、誰かの隣に立てる。


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暴力行為により退学か…あの男も
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