平手打ちされたので、婚約破棄宣言に拳でお答えしましたー子爵令嬢・エミリーの場合ー
「……許さなくて、よかったんですね」と語った、子爵令嬢のその後のお話です。
人気のない学園の廊下。
昼休みが終わる直前で、人の気配はほとんどない。
「なあ、エミリー」
低い声に呼び止められ、エミリーは足を止めた。
振り返って婚約者——ジェイソンの顔を見た瞬間、心臓がぎゅっと縮む。
怒っている。
ああ、まただ。
「さっき、あいつと何を話してた?」
「あいつ?」
「とぼけるなよ。あの商家の息子とやけに楽しそうにしてただろ」
そこでエミリーはようやく、ジェイソンがなにに苛立っているのかを把握した。
商家の息子であるエイデンと話しているのを見られていたらしい。
「別に、何ってほどでは……ただ試験の順位を褒められただけで……」
相手にとっては、きっとほんの社交辞令。
一言、二言交わしただけで、会話というほどのものでもない。
——けれどこの男にとっては、それすら許されないものらしい。
「女のくせに俺より成績がいいのも気に入らねえのに、平民の男なんかにヘラヘラ愛想振りまいてるんじゃねぇよ!」
「痛っ!」
腕の内側を、ぎゅっとつねられる。
いつものことだ。
見えない場所を狙った、暴力とまでは言えない行為。
しかし日常的に行われるそれは、いつもエミリーを萎縮させた。
痛い。
怖い。
けれど、その日のエミリーの脳裏に浮かんだのは、あの日の光景だった。
イヴが、女性だからというだけで押し付けられた理不尽を、毅然と跳ね除けた日のこと。
——あのとき、思った。
どうして私は、ずっと被害者のままでいるんだろう。
私だって、動けばなにか変わるんじゃないだろうか。
何かを変えるということは、すごく怖い。
長い時間をかけて刷り込まれた“女は黙って男に従うべき”という教えが、エミリーの足をすくませる。
けれども、今動かなければ一生このままだという思いが、とうとう彼女を突き動かした。
「や、やめてください。私は愛想を振りまいてなんて……」
「は? 口答えすんのかよ」
冷たく吐き捨てるような声に、エミリーの背筋が凍る。
この声音は、何度も聞いてきた。
このあと何が起きるか、体が覚えている。
これまでのエイミーだったら、真っ先に謝っている。
必死に許しを乞えば、ジェイソンは満足して拳を下ろしたから。
けれど今、エイミーはそれをしなかった。
そんなエミリーの態度に、ジェイソンの頭にますます血が昇っていく。
自分より弱いはずの相手が、思い通りに怯えない。
それが、彼には何よりも許せなかった。
ジェイソンの腕がエミリーに向かって、苛立ちのまま乱暴に伸びる。
反射的に両腕を上げて自分を守りそうになるのを、エミリーは必死でこらえた。
避けない。
歯を食いしばる。
ジェイソンが、乱暴にエミリーの髪を掴んだ。
涙がにじむ。怖い。痛い。
それでもエミリーは勇気を振り絞ると、廊下に響き渡る悲鳴を上げた。
「きゃあああああっ!!」
驚いたジェイソンが思わず手を離すと、エミリーはわざと大袈裟に体勢を崩した。
背後の台に置かれた花瓶にぶつかり、エミリーはびしょ濡れになる。
そして花瓶が割れた音にジェイソンが呆然としている間に、足音が近づいてきた。
近くにいた人が集まってきたのだ。
「何があった!?」
駆けつけた教師と生徒たちの視線が、一斉に二人に向けられる。
床に散らばる、割れた花瓶の破片と散った花。
びしょ濡れの状態で床に座り込んでいる、乱れた髪のエミリー。
そして、腕を中途半端に上げたまま、固まるジェイソン。
——変わり始めた学園で、それは致命的な光景だった。
「ひどい……婚約者に暴力を振るうなんて」
「最低……」
非難の声が、次第に大きくなっていく。
婚約者は青ざめて叫んだ。
「ち、違う! こいつが勝手に……!」
指を刺され、エミリーは床に座り込んだまま、肩を震わせた。
怖かった。
本当に怖かった。
でも同時に、心の奥底から激しい感情が込み上げてくる。
エミリーは思わず口角が上がってしまいそうになるのを、必死でこらえながら言った。
「ごめんなさい……私が、いけないんです。私が勝手に転んだだけで……」
本当のことしか言っていない。
確かに、エミリーは自ら花瓶にぶつかりにいった。
この状況を作ったのは彼女だ。
しかし、周囲は、その言葉を別の意味で受け取った。
「……最低だな」
「婚約者にこんなこと言わせるなんて……」
ジェイソンが何を言っても、言い訳にしか聞こえない。
その場の空気を支配したのは、エミリーだった。
その様子を少し離れた場所で見ていたエイデンだけが、気づいた。
——彼女が、自らこの状況を作り出したということに。
◇◇◇
その後の処分は早かった。
ジェイソンは暴力行為により退学。
二人の婚約は破棄。
学園に残ったエミリーは、周囲からの気遣いと好奇心の視線を浴びて、小さくため息をついた。
怖かった。
痛かった。
それでも——自分で、自分を守ることができた。
「大丈夫、でしたか」
声をかけてきたのは、結果的に婚約破棄のきっかけとなった、エイデンだった。
心配そうに、それでも踏み込みすぎない距離で立っている。
「……少し、痛かったです」
正直に言うと、彼は困ったように笑った。
「見事な立ち回りでしたよ」
その言葉にエミリーは、思わず泣き笑いのような表情を浮かべた。
自分を認めてくれる人がすぐそばにいたことに、今さらながら気づいたのだ。
——これから先の私は、きっと。
自分の意思で、誰かの隣に立てる。




