3話 光をくれた男の子
夢を見ていた。子どもの頃の夢だ。
場所はシレンシオ市。五月のある晴れた日のこと。
どこにでもありそうな出で立ちの公立小学校の、一年生が所属するある教室。
六歳だった少女ポラリスが、教室の隅にしゃがみ込んで本を読んでいた。文章よりも、写真やイラストのほうが多いような本だ。
ポラリスは先月四月にこの小学校に入学したばかり。まだ慣れない教室に、自分の意思で居残っている。
さらさらの長い銀糸の髪に、熟れた林檎のような赤い瞳。
やや血色が悪く青白い肌に、全体的に細い体は栄養状態がちょっと心配だ。
月のように淡く優しい輝きを放つ少女だった。六歳にして大人びたような、静穏な光をまとっている。
今時間は午後三時を少し過ぎたところ。もう一時間前には低学年の今日の授業は終了していた。
他の一年生たちはとっくに下校済みで、だからポラリスのいる教室はがらんどうだった。他に誰もいない放課後の教室は、いつもとは違う場所みたいだ。
慎重な手つきで本のページをめくる、ポラリスの表情はどこか浮かない。
「皆さんさようなら先生さようなら」と言ってから、もう一時間半は経過しているのに帰ろうとしないあたり、何か事情があることが透けて見える。
あえて電灯は点けず、窓から差し込む金色の日差しのみを頼りに本を読んでいた。
と。
ぱちっと目が覚めたような音がして、教室の明かりが点けられた。
この時最初から教室が明るかったら、二人は出会っていなかったのかも知れない。
彼が彼女の世界に光をくれたことから、この物語は始まったのだ。
「電気つけないと、目がつかれちゃうよ」
ポラリスの知らない、上級生らしき男子児童が教室に入ってきた。
あまりに綺麗な容姿の少年だったので、ポラリスはつい見とれてしまった。
少年は中性的というか、線が細かった。
艶やかな黒髪を腰まで伸ばし、澄んだ海の色の碧眼をしている。ミルクのような温かみを有する乳白色の肌。
その少年の、紅を引いたように赤い唇が開く。
「ね、きみ。その本いつ、かりたの?」
声もまた綺麗な少年だった。摘み立ての薄荷のような、爽やかなボーイソプラノ。
「これは『としょしつ』をはじめてつかったときに、かりたの」
ポラリスも砂糖菓子のように甘い声で返す。
「そっか。本はいつごろに返す予定なの? じつはぼくもその本かりたいんだよね」
「これは『へんきゃくきげんの日』になったらかえすわ」
「そうなんだ。気に入っているの?」
「このほんはわたしの『あんていざい』なの」
見た目も声がどんなに美しくても、心はそうではない人間をポラリスは知っている。
だからこの少年からも、「何言ってるの? さっさと返してよ!」と脅されるかもと思ったのだ。決してポラリスに悪気はない。
「そっか」
でも。少年は穏やかに微笑んでいた。「なら、いいんだ」
「いいの?」ポラリスはきょとんとした。
「いいんだよ。その本はきみの『安定剤』なんだろう? ぎりぎりまでかりていたいよね?」
にこ、と爽やかな笑顔で言われれば、反論する言葉もない――はずだった。
――あれ。
「あ、あの。わたしなんかのために、むりしてわらわないでね……?」
すると少年が気まずげな顔をした。
まるで自信があった計算テストで一問余計に間違えてしまったような。こっそり家族のプリンを食べてしまったことがばれてしまったような。そんな感じの。
こういう表情をしているほうが人間っぽいなと、ポラリスは内心ホッとした。
「ヘンなことを言って、ごめんなさい」
ポラリスはすぐに謝った。目の前の人に嫌な気持ちになって欲しくない。
まだ六年とちょっとの彼女の人生は、いつも必要以上の気遣いの連続でできている。
「いや、いいんだよ」
「でも、」
「あやまらないで。本当に気にしてないから。……ぼくは今三年生なんだけど、学年中から『お姫さま』ってよばれてて。それは気に入っているんだけどさ」
「おとこのこが『おひめさま』になってもいいの?」
「別に男の姫がいたっていいだろう? ぼく、本当はお姫さまよりメイドさんになりたいんだけどね」
「メイドさんなの?」
「そうだよ」
にっこり爽やかに笑む様は、確かに気品ある姫君そのもの。メイドさん云々の話は、まあ、置いておいて。
――そういえば。
ポラリスの兄で小学三年生のシリウスの友人のなかの一人に、綺麗だからとお姫様と呼ばれている男子児童がいると聞いていた、気がする。
ポラリスは周囲に無関心とまでいかないが、自分の殻に閉じこもってしまう癖があった。だから学校内の噂話には疎い。
兄の友達のことだから、知っていたようなものだ。
「やっぱりいつもニコニコしていたほうが、まわりもほめてくれるから。それでこんな風に笑うようになっちゃったんだ。……ヘンだよね」
小学校という小さな舞台の上で、周囲に求められた『自分』という配役を演じているのだ。
少しでも失敗したら、観客はみんな気落ちして帰ってしまう。酷いと野次を飛ばされるかもしれない。だから、求められる通りに振る舞わなければならないのだ。
「へん、じゃないよ」
「そうかな?」
「わたしも、おうちではずっと『いいこ』にしているの。……ほめてもらいたいから」
「そうなんだ。家の人のこともあって、まだ教室にのこっているの?」
「それは…………」
一瞬だけ、ポラリスは返事をどうしようか迷って。
「ええ、そうよ」
正直に答えた。なんとなく、嘘をつきたくない気分だった。
「じゃあさ、ぼくもいっしょにその本見てもいいかな?」
「う、うん」
ポラリスは人から言われたことは、基本断れない女の子だった。
でも。
もうちょっとだけ、この男の子と話してみたいという気持ちもあった。
「ぼくのなまえはリヒト。三年生のリヒト・フローレスというんだ。きみは?」
――きれいなおなまえ。
「わたし……わたしのなまえは、ポラリス・クライノート」
「ああ、やっぱりシリウスの妹さんだったんだね。ポラリスという名前、まえからきれいだなって思っていたんだ」
ポラリスは目をみはった。
きれいだな、と言ったとき。少年リヒトは確かに風のように美しく笑っていた。
「フローレスさん」
「リヒトでいいよ? ぼくもきみのこと、ポラリスとよぶね」
「ええ、リヒトさん」
「ありがとう。それって砂糖菓子のレシピ集だよね」
「はい、さとうがし、ね」
それから二人は、毎日放課後一緒に過ごすようになった。二人で同じ本を読んだり、テスト結果を見せっこしたり、意味もなく走り回ったり、校長先生の真似っこをしたり、どうでもいい話で笑ったり。
上級生の綺麗な『お姫様』と仲の良いポラリスのまわりにも、次第に友達ができてきて。
それまでひたすら苦しい日々を送っていたポラリスに、安らげる時間ができたのだった。
そんな懐かしく優しい夢を、見ていた。




