2)レンジャー行動訓練【改】
尾根を越える手前で、佐久間はふと歩みを緩めた。
眼前の霧がわずかに揺れた瞬間、胸の奥に古い光景がよみがえる。
あれは、自分がまだ候補生だった頃――。
宿舎の壁一面に貼られた、赤い文字のスローガン。
「愚痴と悲鳴を上げるな」
「根性無き者は去れ」
夜更けに蛍光灯の下でそれを見上げたときの、あの息の詰まるような圧迫感を、今でも思い出す。
そして、入口横の掲示板に掲げられた五行の文字。
**“レンジャー五訓”**
一、飯は食う物と思うな。
一、道は歩く物と思うな。
一、夜は寝る物と思うな。
一、休みはある物と思うな。
一、教官・教授は神様と思え。
どれも理不尽に聞こえた。
しかし理不尽に抗う力がない者は、次々と姿を消していった。
あの頃の教官、一等陸尉は、いつもスローガンの前で言った。
「お前ら、覚悟だけは嘘がつけん。
声に出さずとも、態度に出る。
愚痴を飲み込む顔は、すぐに分かるぞ」
ある夜の集合教育でのことだ。
鬼島は、訓練生を玄関前に整列させ、指を一本ずつ折り曲げながら言った。
「五訓は“覚えるため”にあるんじゃねぇ。
**守れなくなった瞬間、自分が何者か分かるため**にある」
その言葉に若い佐久間は反発しかけた。
飯も食えず、道なき道を歩き、寝る時間もなく、休みなど夢のまた夢。
さらに教官を“神様”と思え――あまりにも極端だった。
だが鬼島は続けた。
「本当に追い詰められたとき、人間は“当たり前”を求める。
飯を食いたい、寝たい、楽になりたい――そう思った瞬間に折れる。
お前らが頼れるのは、五訓だけだ。
五訓は“当たり前を捨てる覚悟”を確認するためのもんだ!」
その夜、佐久間の隣で同期が一人、静かに列を抜けた。
言葉も涙もなかった。
ただ、自分の中で何かが折れたのだろう。
残った佐久間は、自分の膝が震えていることに気づいた。
鬼島が言った。
「震えてもいい。腹が減っても、眠くてもいい。
だが、**前に進む覚悟だけは捨てるな**」
――なぜか、その言葉だけは胸に刺さった。
それが理不尽な環境を生き抜く唯一の“足場”になった。
回想が霧の向こうに消えると同時に、現実の山道が戻ってくる。
12名が必死に歩き続けている背中。
その姿に、かつての自分の影が重なった。
佐久間は静かに息を吐き、口を開いた。
「……俺もな。あの壁の前で何度も立ち止まった。
愚痴を飲み込んで、歯を食いしばって……それでも立ったから、今ここにいる」
心の中で、昔の教官に答える。
一尉尉、俺はまだ折れていませんよ。
そして佐久間は、再び怒号を山に響かせた。
「止まるな! この先に立つ資格は、前へ出る奴にしかない!」
12名は振り返らない。
だが、その背中がわずかに強くなるのを、佐久間は確かに見ていた。




