離婚を言い渡されました
「離婚して欲しい」
そう言われて、ミラベルは目の前の椅子に座る夫を見つめた。
今朝も顔を合わせた夫が半日も経たずに別の人になったかのように思える。
大きく開いた窓から暖かな太陽の光が燦々と差し込み夫の顔に影を作っていた。
サンルームにいるのはミラベルと夫のリカルドだけだ。執事も使用人も下がらせ、久しぶりの二人だけでのティータイムだった。
目の前のテーブルには一度だけ口をつけられた紅茶が置かれている。
茶菓子として用意したフィナンシェは夫が好きなお菓子であり、二人だけの時間に花を添えるためにミラベルが指示を出して作らせた物だった。
幼少期からずっと、恋してやまない夫の顔をミラベルは見つめる。
「理由を伺っても?」
冷静に口に出したと思った声はかすかに掠れていた。思った以上に衝撃を受けている自分にミラベルはショックを受ける。
いつかこんな日がくるかもしれないと、覚悟していたはずなのに。
「マリエッタが、兄と別れることになった」
端的な一言にミラベルは事態を察した。
自身の兄嫁のことをリカルドは決して『義姉』とは呼ばない。誰がどれだけ注意をしようとも、幼馴染であり昔からそう呼んでいたからと呼び方を変えようとはしなかった。
それをミラベルがどう思っていたかなんて、きっと考えたこともないのだろう。
「これからの彼女を支えていきたいと思う」
離婚した女性に許された道は多くない。外聞が悪くなろうとも実家に戻るか、修道院へ入るか、すぐに新しく婚約をして相手の家へ入るかそれぐらいだ。
「お義姉さまは同意されているのかしら?」
「この家に来ることはな。実家に戻れば口さがない連中にいろいろ言われるだろうから」
「私と別れるということは、婚約するのでしょう?」
「まだ約束はしていない。しかし同居することには同意したのだからマリエッタもわかっているだろう」
そうだろうか。マリエッタは良く言えば天真爛漫で純粋だが、悪く言えば考えが足りない。リカルドの家に身を寄せることも幼馴染の好意としか思っていない可能性がある。
(たとえどう思っていたとしても、マリエッタがそれで良いと言ったのなら私にはどうすることもできないわ。リカルドの中で優先されるべきはマリエッタなのだから)
「……たとえお義兄さまと別れたとしても、お義姉さまと一緒になれるのは少なくとも半年後よ」
「もちろん理解している。だからこそ、今同じタイミングで私たちも別れなければ間に合わないだろう?」
貴族は離婚してから半年以上経たなければ再婚が認められない。それだけの時間を開けることによって、万が一子どもが産まれても誰の子かわかるようにしなければならないからだ。
しかし婚約に関してはそうではなかった。すぐにでも新しい相手との婚約を結ぶことができるし、相手の家に花嫁修行と称して入ることもできる。ただし、離婚後半年の間に産まれた子どもは自動的に前の夫との子と認定されてしまう。だから新しい相手の家に入ったとしてもその辺は気をつけなければいけないところだった。
「そう。わかったわ」
それ以外にミラベルに何が言えただろうか。
ミラベルと離婚することはリカルドの中ではもう決定事項なのだ。しかし当然ながら勝手に別れることはできないから時間を作って説明している。
でもそれはミラベルに謝罪するとか、離婚したいと思うがどうかと相談するわけではなく、ただこれから起こる事実を説明しているだけ。
「お義姉さまはいつこちらにいらっしゃるの?」
「先週離婚が成立したと言っていたから少なくとも今週にはこちらに来る」
今週はもう残り三日しかない。
リカルドは兄の離婚を知ってすぐに行動に出たに違いない。そして義姉の意思を確認しすべてを決めた上でミラベルに話した。
(私の気持ちなんて最初からどうでもいいのね)
そう思うとミラベルの胸はシクリと痛んだ。
想い続けた気持ちも、雑に扱われるばかりでは擦り切れていく。そうして擦り切れて擦り切れて……もはやミラベルのリカルドへの想いはボロ雑巾のようだった。
「わかりました。では私はお義姉さまがこちらにいらっしゃる前にこの家を出ますわ。その場合あまり時間がありませんから離婚の手続きはどうされますか?」
極めて事務的に言葉を続けたのは、そうしなければ自分が何を言ってしまうかわからなかったからだ。不意をついて抑え込んだ想いが口から出てしまいそうで、ミラベルは膝の上に置いた自身の手をグッと握った。
「いや、出て行くのはマリエッタが来てからにしてくれ」
「なぜですか?」
ミラベルはこんな状況でマリエッタに会いたくなどなかった。
彼女はいつも通りに接してくるだろうが、ちゃんと振る舞えるか自信がない。
「ミラベルがマリエッタに会わずに出て行ったら彼女が気にするだろう? 自分のせいで家を出たと思うじゃないか」
「……お義姉さまが気兼ねなくこの家に滞在できるように私に挨拶をしろと仰るの?」
つい、リカルドを責めるような言葉を言ってしまった。途端にリカルドの眉間に皺が見え、ミラベルは心の中で小さなため息をつく。
「そんな言い方はないだろう? マリエッタに居心地の悪い思いをさせたいのか?」
「そうね。言い過ぎたわ」
本当は言い過ぎたなんて思っていない。むしろもっと言ってやりたかった。しかしどんなに言葉を尽くしても自身の気持ちがリカルドには伝わらないと、もう何年も諦め続けたミラベルは知っている。
そしてなぜリカルドがミラベルに挨拶をしろと言ってるのかもわかっていた。
リカルドはミラベルとの離婚がマリエッタとルドヴィックが別れたことによって引き起こされたと思われたくないのだ。いかにマリエッタといえどもそれを知ってしまえばリカルドのところへ身を寄せることに躊躇するだろうから。
もちろん、マリエッタにリカルドへの恋心があれば気にはしてもミラベルに遠慮はしないかもしれないけれど。
それでも今の状況を考えるに、リカルドにはそこまでの勝算が確信できていないように思えた。いずれにせよ、ミラベルへの離婚宣告はどこまでいってもリカルドの自分本位の申し出には違いない。
「ミラベルは思いやり深いと思っていたのだが、思い違いだったのだろうか?」
さらに追い討ちをかけるような言葉をぶつけられてミラベルは唇を噛み締める。そして一つ深呼吸をすると自分の気持ちを無理やり静めた。
「そんなつもりはなかったの。謝るわ」
重ねて謝ればリカルドは不機嫌そうな表情を緩める。
「わかってくれたならいいんだ」
そう言うとリカルドが一息つくかのように紅茶を飲んだ。
場に沈黙が落ち、手持ち無沙汰になったミラベルも紅茶のカップを手に取った。しかし口に含んだ紅茶はすでに冷めていておいしくない。
(まるで私の気持ちのようね)
温かった時には幸せを感じるものだが、冷めてしまえば気持ちも沈むのだろう。
「そうそう、離婚届のことだが……」
そう言ったリカルドはおもむろにジャケットの内側から一枚の書類を取り出した。半分に折り畳まれたその書類が何なのか、ミラベルはすぐに気づく。
「後回しにする必要もないだろうと思って用意しておいたんだ」
(準備万端ね。いったいいつから用意してたのか)
そう思ってミラベルが見つめる先で、リカルドは書類の隣に羽ペンを添えた。透かし彫りの入ったオケージョナルテーブルの上に無粋な書類が無造作に置かれている。
見れば夫の欄にはすでにリカルドの署名が入っていた。
「今ここで記入しろと?」
「内容は変わらないのだから今書いてしまった方が効率的だろう?」
リカルドはすぐにでも手続きを済ませたいのだ。ミラベルはそう思った。
少なくともマリエッタがこの邸宅に来る前に離婚の手続きを済ませ、彼は晴れて独身として彼女を迎え入れたいのだろう。
(ならばわざわざ私が会う必要なんてないのに)
離婚を言い渡された元妻と、これから婚約しようとしている相手を会わせたいだなんて趣味が悪い。
しかしなぜリカルドがそんな行動を取ってしまうのかをミラベルは理解していた。そもそもミラベルもまたマリエッタの幼馴染だからだ。ここでミラベルとマリエッタの間にわだかまりを残すのはリカルドとしても本意ではないのだろう。
とは言え、それは主にマリエッタの心情を考えてのこと。
ミラベルがマリエッタに会わずに出て行ってしまったらきっと彼女は気にする。
自分はそんなつもりはなかったのだと、他意なく言いふらすに違いない。
それはリカルドにとっては都合が悪いだろうし、同時に『純粋』で『悪意の無い』マリエッタからの不興を買ってしまう。
それを防ぐための対策だ。
(滑稽ね)
何がと言えば自分の立場がだ。
離婚を言い渡された妻。夫の関心を義姉に奪われた女。少なくともこの邸宅の使用人は皆そう思う。もちろんちゃんと教育された彼らはそれを言いふらすことはしないだろうけれど。
しかしどれだけ体裁を整えようとも人の口に戸は立てられないのだから、きっとどこかで漏れていくだろう。
(それすらも、どうでもいいのかもしれないけれど)
手にした羽ペンはなぜかヒンヤリとしているように感じる。
自分の手が冷え切っているからだとミラベルは気づいていた。
静かな空間にペンの滑る音だけが聞こえる。いつもよりも時間をかけて書いたのに、手が震えていたからかその字はお世辞にも綺麗とは言えなかった。
『ミラベル・ヒュラス』
(これが私が書く最後の『今』の名前ね)
ミラベルが署名をしたのを見届けると、リカルドは大事そうに書類を手に取った。
「マリエッタが到着する日がわかったら君にも伝えるよ」
そう言い置いてリカルドはサンルームから出て行く。
去っていく背中を見つめながら、結局自分はずっとリカルドの背を見送るしかないのだとミラベルはその事実を噛み締めた。
それが、離婚を言い渡された日の出来事。
ミラベルが過去の自分を捨てて新たな自分になることを決意した日のことだった。
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