生き返りの湖
男はうろうろと畳の上を行ったり来たりしていた。実家の居間には6月だと言うのに、まだこたつが出ている。
もともと周囲の評判が物凄く悪い男だが、これにはさすがに焦っていた。
「しまったな」
窓を開けると梅雨の晴れ間の気持ちの良い青空の日。
こたつの脇に倒れた母は、風に吹かれてもぐったりとしてピクリともしない。
「ーーどうしたものか」
久しぶりに帰省した男は老いた母と口論になり、つい殴ってしまった。
「何故こんなことに」
どうして母との関係が悪化してしまったのだろうか。学生時代までは気味が悪いくらい優しい母だったのに。就職に失敗してから態度が変わった。バイトから帰ってくると、毎日罵声を浴びせられた。
今まで借りた金を今すぐ返せと、返せないなら帰れ、と怒鳴られる。借りた金、とは教育費と生活費のことらしい。
そうやって過ごしていくうちに年月が経ち、男は中年になり、母は老婆になった。
白髪だらけの母に、いい歳して結婚もしないで気持ち悪い、とまで言われた。
時代錯誤の母親に腹が立ってしまった。
「捨ててしまおう」
思い立った男は動かなくなった母を車に乗せ、山へと向かった。
名案が浮かんだのだ。
男の父親は実家から少し離れたところに山を持っていて、子どもの頃山菜や筍を取りに行っていた。そこにある深い湖のことを思い出したのだ。
男は車で山を進み、記憶をたどって湖までたどり着く。
湖のほとりには小さな鳥居が建てられている。
涼し気な風を受けつつ湖を眺める。
懐かしさで胸がいっぱいになった。
「こんな小さかったっけ?」
父親からこの湖には神様がいるから大切に祀れと言われていた。もちろん、男は信じてなどいなかった。
祀れと言う割に、父親はこの湖に何でも捨てていた。
刈り取った草も、剪定した枝も、弁当の残りも、死んだ愛犬のシロも。
その後、シロは生き返って、湖から出てきた。しっぽをちぎれそうなほど振り回し、父の周りを跳ね回っていた。
「母さんに言うなよ」
父が怖い顔で言っていたのを覚えている。
その後のシロの行方は知らない。
思い出に浸るのもそこそこに、男は車の中から母親を担ぎ出して容赦なく投げ捨てた。
不思議なことに母親はどんどん沈んでいった。重しをつけてもいないのに。
波が消えて鏡のように鎮まった水面を見つめても、母親の姿は既に見えない。湖の底の底には暗闇しか見えない。
(沈んだーーか)
男は待っていたのだ。シロみたいに生き返るのではないか、と。
すると、水底からひとつ、ふたつと泡が浮き上がってきた。やがて水面が波立ち、ゆらゆらと人影が浮上してきている。
「ああ、苦しい!」
男は、驚きのあまり尻もちをついて湖面を見つめるしか出来なかった。口を開けたまま。
期待はしていたものの、目の前の水面から死んだはずの母親が、本当に出てきたのだから。
「あんた、よくも私を殺したね」
ずぶ濡れの母親は、男を睨みつけた。
「それにしても、ずいぶん動きやすい。体が軽いね。この湖は治癒の類の力があるのか? それなら、この水を売って金儲けでもすればいいのに」
スラスラと喋る母親を男は半笑いで指さした。
「いや、若返ってるんだよ」
確実に若返っている。30代、いや20代の若い女性の姿をしている。
母親は自分手の甲の皮膚は張りがあり、瑞々しく、シミ一つない。男の乗ってきた車に駆け寄り、サイドミラーで自分を確認すると、甲高い歓声を上げた。
「ほんとだ!」
跳ね上がって喜ぶ母親は男に振り返る。
「この湖で一儲けできるんじゃない?」
嬉々とした表情は自分を殺した相手に向けるものとは思えないほど純粋無垢ではつらつとしている。いくら実の息子といえど、危ういほど屈託がない。
「生き返り、もしくは若返りの湖って言って、高額で売り出しましょう」
「誰も信じないよ」
「動画に撮ろう。この湖にこんな効果があるって」
男は賛同することもできず、ただ狼狽えるだけだった。
「情けないねぇ」
母親が吐き出した。
「それにしてもお父さんったらなんで黙っていたのかしら。こんな奇跡の湖があるなんて」
背筋を伸ばし、空を見上げる。
「まずは若い頃できなかったことをしてからね」
そして、意味ありげに男へ笑みを投げかけた。
「殺してくれてありがとう」
そう残して、母親は車に乗り込んだ。止める間もなかった。エンジンをかけ、車はあっという間に山を下っていってしまった。若さを楽しむために母親は息子から車を奪って逃走したわけだった。
★
歩いて帰る羽目になり、男は長い時間をかけてようやく家へとたどり着いた。
まだ6月とはいえ、ジメジメとした暑さがまとわりつく。疲れのせいか時折首が締まるように苦しくなり、更に道のりが遠く感じて疲労困憊だった。
台所で水を飲み、うんざりとした気持ちでこたつのそばで座っているところに父親が話しかけてきた。
「母さんはどこいった?」
「知らねぇ」
不機嫌に返事をする男を普段なら怒りも笑いもせずに通り過ぎる父親が、立ち止まったまま男を見つめていた。
「お前、首どうした?」
「えっ?」
男は思わず首を手で触れてみる。感触はいつも通り、特に何もない。
しかし、父親は深くため息をついて男を見下ろした。
「呪われたな」
「呪われた?」
男は笑ってやろうと思った。しかし、父親の表情は見たこともないほど険しく、冷たく、眼の色は黒く澱んでいく。
「湖に行ったんだろ?」
男は頷く。わかっていたからだ。どんな言い訳も効かない、逃れられない。
「あの湖は何でも捨てられる。でも、あの山以外のものを捨てたら呪われるんだよ」
「でも、シロを捨ててたじゃないか」
「確かに捨てた。そして、シロは一度生き返った」
おもむろに父親はズボンの裾をたくし上げる。老人になった父の細い脚に、白い包帯が巻かれていた。
生々しく鮮やかな血が滲んでいる。
「蘇生後1時間ほどで死んだ。死んだシロは呪いになった。夜になるとずっと俺の右太腿を噛みを続けるんだ。あの日からずっと」
父親は貫くように男を見つめた。
「お前は何を捨てたんだ?」
★
その後、母親が死んでいたということを警察によって知らされた。近所の農道の電信柱に衝突したところを発見されたらしい。
まるで長い旅行をするような荷物を持って、ずいぶん若作りの格好をして、運転席で幸せそうに死んでいたという。
母親の死はそのまま交通事故で処理された。
罪から逃れた男は不思議な湖の力を使って金儲けなどせず、今もバイトをしながら細々と暮らしている。
あの日以来すっかり痩せてしまい、人相が変わってしまった。もともと薄暗いの印象だったのに、以前よりもっと陰鬱な姿は人を寄せ付けない。
それは、男の首には赤い手の跡が今でも残って、夜な夜な絞められるように苦しくなり、眠れぬ夜を過ごしているからだった。