生克五霊獣 56話
だらしなく床に突っ伏しながら、葛葉は酒を呑み、空の徳利を弄ぶように転がしていた。葛葉のはしたない姿を初めて見て、驚く反面少し安心もした。母であっても、人の女なのだと。晴明が死んだ時ですら、こんな姿を見せはしなかったのに。
「母上、ヤケ酒ですか?」
葛葉は、頼りない滑舌で笑いながら言った。
「ヤケ酒というのは初めてだが、悪くは無い……悪くは無い……このまま、迎えが来ればなお良い」
「何を訳の分からんことを」
「晴明殿が止めろと言うなら、止める」
「父上は、もうおりませんよ」
「何故おらんのだ? 私は、沢山の幽霊を見てきたぞ。覚えておらんのか? お前も怯えて小便を漏らしておったではないか」
「いらんことは、さっさと忘れてください! そういう問題じゃないだろー」
「逢いたいのー。幽霊でもいいから」
葛葉の転がした徳利が、ころころと転がり、障子に当たった。麒麟はそれを拾うと、他に置かれた数本の徳利も片付け始めた。
「ヤケ酒は、今晩限りにしてくださいよ」
「何故じゃ。酒はいいぞ。昔の楽しいことを思い出させてくれる。お前が最後に寝小便したのはー……」
「面白くないだろ!」
葛葉は、麒麟をからかっていた。葛葉の元から、かつて家族だと幸せを噛み締めていた人々が、また1人、また1人と消えていたから。ここに来て、その事に気付かされた。晴明や夢路が亡くなった事と同じくらいに、悲しかった。
「……なあ、麒麟。お前は、何があっても自害はするな。生きて、生きておくれ。こんな時代じゃ、何があるかはわからん。恥と知って母は言うのだ」
「…………」
「晴明も夢路も、恐らく肉体から完全に成仏する事は出来ぬであろう。夢路の魂は、この世に縛り付けられる。晴明殿に至っては、魂すら残っておるかもわからん。自害した魂は、自力では成仏出来ぬのだ。いずれ、我々に因果が巡る。その時、救ってやれるかどうか……私にはわからん」
「……わかった。約束するから、俺の恥ずかしい話は全部忘れてよ」
「それは、出来ぬな」
「…………」
それから数日して、甲蔵が落ち着いたのを確信してから麒麟達は里に戻った。
*****
それから数年して、竜子と華炎から知らせが届いた。
腹に子が授かったという。
それまで、穏やかに流れていた里の時が急に騒がしくなった。
跡取りが出来るかもしれない。今や血の繋がりを持たないこの土地であれ、葛葉にとっても喜ばしいことでしかなかった。勿論、朱雀領も青龍領もお祭り騒ぎである。と、なると他にも期待の目が向けられる。白虎と薫風に至っては、元々のんびりした性格ゆえ、それ程気にもしていなかったが、思いの外影響を受けたのが黄龍であった。
忘れていた訳では無い。自分は、元気な男の子を産むと決めて麒麟の妻になった。誰よりも互いの時間が長く、そして気持ちはそこに向けていたつもりだった。が、これまで授かることすらなかった。
今まではよかった。周りにも子がいなかったから。知らせを聞いた黄龍は、喜びよりも青ざめた。
反対に、麒麟はそれに対して気にすら止めていない。何故なら、自分自身が葛葉の実の子ではないことをこの時は既に知ったいたから。
その日から、黄龍の雰囲気が変わった。暗く、少々荒れているような気さえした。
「黄龍、もしかしてアイツらに子ができた事を気にしているのか?」
「私は、未だにお前の子を儲けてやれんのだなと思ってな」
毎日の食事ですら変わっていた。普段のバランスの考えられたような和食ではなく、精がつくと言われるものが多い。正直、食べづらい内容が増えた。そして、夜共にする時間も増えた気がする。それはいいが、そこに感じる愛情がなんだか感じられない気がするのだ。勤めのような。
「焦って出来るものでもなかろうが。それに、俺は子が出来んでもいいと思っているぞ。時期が来たら、拾ってきたらよかろう」
「そういう、問題ではない!」
黄龍は声を上げた。
「女は、女にはそれしかないのだ」
言うと黄龍は、麒麟の前から走り去った。
これには、麒麟も酷く困った。跡取りを産み、育てる。この時代の女の姿として、確かに間違ってはいないのだろう。だが、それは外の世界であり、武家の世界である。それに、例えそんな世界であっても跡取りが出来ず養子をとる話など山のようにある。そんなことより、麒麟は黄龍と暮らしていく方が重要だった。里になど拘ってはいない、他にも仲間はいる。もし、黄龍に子が授からず麒麟領がなくなっても気にはならなかった。
「なんとか、ならんもんかな」
相談する相手もおらず、頼みたくはないが黄龍の事にとっては頼みの蜃も未だに帰らず。
*****
蜃が里に帰ってきたのは、旅立ちから10年近くの年月が流れた後の事だった。
「長いようで、あっという間だったな」
旅立ったあの日より、ずっと里が栄えて見えた。
「愚弟共は元気にしとるかな」
愛情たっぷりにぽつりと呟く。
最初に戻ったのは、懐かしい我が家だった。
「ただいま」
との声に、軒先に現れた葛葉が足を止めた。
「蜃……か……」
「母上は、変わりませんね。元気そうでなにより」
「お前は、本当に逞しくなったな。背も伸びたようだ」
「と思って、こっそり父上の着物を拝借していたんですけどね。残念ながら、あそこまで大きくなれなかった事が口惜しい」
葛葉は笑いながら、涙を浮かべた。
そして、気になったことを蜃が尋ねた。
「それにしても、屋敷が随分小さくなりましたね。ここは、離れだった屋敷でしょう? 母屋はどうしたんです?」
「ああ、5年くらい前に最後に残っておった甲蔵も玄武領に移ってな、独りで住むには持て余すので、屋敷を小さくしたのだ」
「そうでしたか」
「ああ、お前はこれからどうする? 帰ってきた時の為に、お前の部屋は用意してある」
「そうですね、母上と余生を過ごすのも悪くは無いでしょう」
「やはり、変わらず嫁は取らんつもりか?」
「はい」
葛葉は、少し寂しそうな顔をした。
「これは、俺が選んだ生き方ですから。母上が、気にする事はありません」
「しかしなあ」
「これはこれで、楽しいのですよ? それに、俺は案外モテるので」
「バカを言うな」
「では帰って早々ですが、愚弟の様子でも見に行こうかと」
「あれから、奴等も大きく変わった。家族を持ち、親になった。それに……」
「?」
「あれから夢路が亡くなってな。甲蔵は玄武として玄武領におるが、まだ嫁はおらん。先に見に行ってやってくれぬか?」
「そうでしたか。理由は、またゆっくり聞きましょう」
「ああ。私だけじゃない。積もる話はそれぞれ多い。ゆっくりしてこい」
言うと、蜃は足早に屋敷を飛び出した。
流れる景色は、どれもこれも平和そのものである。独特の文化さえ生まれるように、そこには緩やかでありながら目まぐるしい時が流れている。外とは違い、飢えた人間はいない。職を失った乞食や酒に溺れた浪人もいない。誰もが眩しいほどに輝きながら、農作業や産業に励んでいる。
「蜃様で、ないか?」
「蜃様が、お帰りだ!」
と、時折村人が声を掛けてくれた。
玄武領に着いたのは、日が暮れる前だった。
「甲蔵! 久しぶりだな」
たまたま雨戸を閉め始めていた玄武の姿を見つけ、蜃は庭からまわって声を上げた。
「あ! 兄上?!」
驚いた声が帰ってきた。
「ああ、そうじゃ。大きくなったな!」
「え? いつ帰ってきたの?」
「今だよ。悪いが、今日は停めてくれぬか?」
玄武は慌てて蜃を屋敷に入れると、風呂の用意をした。と言っても、自分が入るつもりで予め用意をしてあったので、着替えなどを用意して、風呂場へ蜃を案内した。