生克五霊獣 19話
先祖代々、受け継がれてきた立派な松の木が傾いた。
活気ある街に繋がる道にある、大きくも小さくもない武家屋敷での出来事だった。
それを見た松兵衛の全身から、血の気が引いた。松を傾かせた犯人は、頭をぽりぽり掻きながらも木刀を手に平然としていた。
「どうも、松兵衛が相手だと手加減ができぬ。避けずに受け止めてくれねば、今後もこのような事件がおきてしまうぞ」
「蜃様、松兵衛が死んでも構わぬと?」
「それは、困るが松兵衛なら大丈夫であろう?」
大丈夫なものかと、松兵衛は懐から手拭いを出すと、冷や汗を拭った。
「さて、この松をどうするかが問題だな。この年で尻を叩かれるのも嫌だし」
「元に戻すしかござらん」
「元に戻すったって」
松兵衛が印を結ぶと、なにやら呪文を唱えた。松の木に旋風のようなものがおき、松は元の角度に戻った。
「おおお! 流石、松兵衛」
「感心しとる場合ではござりません」
松兵衛は、蜃の首根っこを掴むと脇に抱えて尻を叩いた。
「痛い! 痛いぞ!!」
「事の重大さがわからん若には、まだまだお仕置きが必要です」
蜃が顔を真っ赤にしながら暴れていると、縁側に弟が現れた。
「兄上、松兵衛と何を遊んでいるのですか」
「これが、遊んでるように見えるか! どんな遊びだ!!」
「そんな事より、ちょっとこっちに来てください」
「松兵衛に言ってくれ。というか、早く助けろ!!」
弟は、いつもの事かと顔色一つ変えず、無視して部屋に戻った。その間の松兵衛のお仕置きは尚も続く。
ようやくお仕置きが終わったところで、尻を押さえながら蜃は弟の部屋へと向かった。
「今日は、長かったですねえ。兄上は松兵衛とああしてじゃれ合うのがお好きでおられる」
本気で言ってるのかと、蜃は顔をしかめた。
「松兵衛は、何故だか俺にだけ厳しい。お前も1度、お前の言うじゃれ合いをしてみるといいよ」
「あ、オレはそういう趣味ないんで。それより……」
さらっと流された返事の中に、妙な違和感を覚えた。趣味?
益々しかめっ面になった蜃の前に、1冊の薄い本を出した。今で言う、雑誌。弟は、ページをぱらぱら捲ると、ある場所を開いてみせた。
「兄上、ここ! 読んでみてください」
言われた通り、蜃が読んでみる。
「なんじゃこれは」
「ね、面白いでしょ。行ってみましょうよ」
そこにあったのは、街一番の美女、看板娘お蝶が働く定食屋の紹介だった。
「兄上も街一番の美女とは、どの程度のものか気になりませんか?」
「いやらしい奴だな」
言いながらも、そのページに載せられたお蝶の似顔絵に魅入っていた。
「本当に、こんなに美人なのかのお」
「ね! 気になるでしょ!! 近いし、早速行きましょうよ」
今しがた叩かれたばかりの、未だひりひり痛む尻を擦りながら蜃は言った。
「うーむ、憂さ晴らしにでも行くか」
半刻程も歩いていないと思う。
活気のある街の外れに、その店はあった。思えば、来たことの無い通りか、若しくは来ても気付いていなかったのか。
雑誌のお陰か、行列が出来ていたので、面倒だが2人はそこに並んだ。
またもや半刻程並ぶと、ようやく店内に案内された。客席は少なく、狭く、普通の店だった。
「何にしましょうか?」
お目当ての美女ではなく、女将がオーダーを聞いてきた。
「この女将が、看板娘かの?」
弟が蜃に、ぼそぼそと耳打ちした。
「だとしたら、俺はここを破壊する」
「なるほど」
「何になさいます?」
「酒と、あと適当に肴を何品か頼むよ」
「まいど」
女将は慣れたように、調理場へと入っていった。
暫くしてから、酒を運んできた娘を見て、蜃と弟はたまげた。確かに、看板娘と言われて納得出来る娘だった。
顔は、美人過ぎる程ではないが、程よく整えられ、何より町娘に勿体無い色気がある。その程よいバランスが、人気の秘密なのだろうと。
「エロいな」
思わず呟いた弟の頭を叩いた。
「ずばり言うな! はしたない」
しかし、お蝶は嫌な顔ひとつせず、くすくすと笑った。
「どうぞ、ごゆっくり」
お蝶の後ろ姿、揺れる尻を見て、蜃は生唾を飲み込んだ。それに気付いた弟が、茶化した。
「兄上の方が、オレの数百倍はしたないかと」
「うるさい!」
2人は、お蝶から目が離せないまま酒が進んだ。
蜃にとってみれば、一目惚れだった。
その日は、2人で気付かぬうちに散々飲んだくれた挙句、吐きながら帰った。
次の日、案の定酷い二日酔いに悩まされた。
「若! 若いからと言って、ハメを外し過ぎるのはおやめ下さい」
松兵衛の怒鳴り声が、二日酔いの脳味噌に響く。
「わかった。頭が割れそうに痛いのだ。静かにしてくれ。で、アイツは?」
「若と同じように、布団に包まって唸ってますよ」
「よかった」
「何がよかったのですか?」
「……だって、1人じゃ悔しいもん」
松兵衛は呆れながら、蜃の介抱を続けた。
「あーあ、こんな老いぼれた爺ではなくて、美人に世話されたいのお」
「では、早いとこ一人前になって、美人の嫁でも娶ってくだされ」
「そうしよう」
布団に包まりながら、思い出すのはお蝶の姿。愛おしい、今すぐにでも会いたい娘。あの娘が嫁であればと、心底思う。
「蜃、入りますよ。具合は、どうですか?」
母だった。
「最悪です」
「やはり、そうですか。お蝶とか言う娘が来ているのですが、今日のところはお帰り頂きますね」
お蝶の名を聞いた瞬間、蜃の目がカッと見開いた。
「治った! 今行く!! お茶と茶菓子を出して、待ってて貰ってくれ」
「はあ、しかし今最悪だと」
「だから、今しがた治ったのだ!」
「若?」
「いいか、高級なやつで頼むよ」
母は、首を傾げながら部屋を出た。
直後、蜃は手桶に2、3回吐くと、準備を始めた。
「若、嘘はおやめ下さい。また、改めて来て頂いたらよいではないですか」
「そういう訳にはいかんのでな」
松兵衛の中で、そういうことかと納得があった。
「まあ、精々消沈せぬように。期待も程々に」
「何を言うか!」
と言う、蜃の怒鳴りを無視して、松兵衛は溜息交じりに部屋を出た。
身支度を終えると、蜃は客間の前で冷静になるための咳払いをした。
「すまない、待たせた」
出来る限り冷静に、貫禄ある風を装って部屋に入る。その場には母上と松兵衛がおり、蜃の態度がおかしかったのか必死に笑いをかみ殺そうとしていた。
「昨日は、ありがとうございました」
お蝶は蜃に向かって、深々と頭を下げた。
求愛にでも訪れたのだろうか、だとしたらどうしよう。1度は断るべきだろうかと考えていると、お蝶が懐から包を取り出した。それをそっと開けると、中にばらばらになった数珠が包まれていた。
「落とされたようでしたから」
「あ」
見せられて、初めて気づいた。物心付いた時には、既に手首に巻いていた数珠だった。蜃はまだ知らないが、これは葛葉と晴明が持たせたお守りだった。松兵衛からは、大切にするよう口酸っぱく言われていた物だった。知らない間に落とした挙句、その事に気付きもしなかった。自然と、蜃の顔色が悪くなる。ちらっと松兵衛に目配せすると、その目は笑っていなかった。
「あ、ありがとう。わざわざ、これを? また、行った時でもよかったのに……」
寧ろ、そうしてくれた方が助かったのにと心底思う。
「大切な物かと思いましたので」
「よく、俺の物だとわかったな?」
「はい、お店で貴方様が着けておられるのを拝見しておりましたから」
「そ、そうか。何か、礼を考えねば。お蝶でよかったかな? 何か欲しいものは?」
「いえ、とんでもございませんよ。またお店に来てくださいね」
それでは、とお蝶が立ち去ろうとするので、蜃も立ち上がった。
「送ろう、女子1人では心配だ。何なら街でもぶらりと」
松兵衛の殺気が辛い。その場から逃げたかった。
蜃は、お蝶の返事も聞かず、礼を礼をと言いながら、お蝶とともに外に飛び出した。
「逃げられましたな」
松兵衛の呟きに、母はくすくすと笑った。
「あの怯えよう、蜃もまだまだお尻の青い子供ですこと。松兵衛、今日の所は許ししあげて。私に免じて」