プロローグ
眩い光が視界を埋め尽くす。
身体に広がる強烈な熱……いや、痛みか。
──『さあ起きなさい。もう朝ですよ』
声が響く。聞いたことがあるような無いような、そんな声。心做しか緊張しているようにも思える。
その声に反応するように、既に形のなくなった……言うなれば私の‘’魂’’が、どこかへ導かれるようにして引き寄せられる。
ぐんぐんと。勢いよく。
この身体になっても重力加速度を感じられるのかと、既に無くなった顔にあった、既に無くなっている口の端が少し上がる。光を感じ、刺激を感じ、声の響きを感じている時点で何らかの感覚は生きている──この場合’’生きている’’という表現が適切かどうか興味はないが──というのにそう考えるのは今更である。
少し経ち、時間にして五秒ばかりが過ぎたとき、
いずれまた会いましょう。
先程の声とはまた別の無機質な声が響く。しかしこれはこの場で発せられている声ではなく、私の記憶の中の声ではないのかとも思える。しかし記憶というのもまた、既に死んでしまった脳の機能なのでその可能性は無い……無いはずなのだ……
そもそも、私の魂の何処で今の状況を把握し、何処で感情を持つことが出来ているのか。
──嗚呼、もうめんどくさい……
良いではないか、既にこの身はもう終わっている。後はどうなろうと、私が生まれ、育ったあの世界に帰ることなど叶わないのだから。
『頼みましたよ』
その声とほぼ同時に、つい数秒前まで加速により体感できていた重力の感覚がなくなる。
止まったのだ。
目的地に着いたのかまたは別の要因か。
そして自分は一体何を頼まれたのか。実体のないこの身で何ができるというのか。
考える間もなく、眩い光が再び私の視界を覆う。
たとえ、どんなに眩しくても目は閉じられない。瞼が無いのだから……目すら無いが。ならなぜ光を感じることができるのか。わからない。しかし私の疑問を他所に、始まろうとしている。
何が。とは放棄した思考を持ってしても察することが出来てしまう。
この光からは逃げられない。
逃げてはいけない。
──新しい命の始まりなのだから──
…………………
……………
………
……
…
目が覚める。
見知らぬ天井……
「──?」
否、この天井、知っている。
見慣れた……親の顔より見た天井。
つまり、彼女の自宅の天井。彼女の部屋の天井。彼女のベットに寝そべった時に視界に入る天井。
「夢……だった……?」
あの夢……とも思えないような体験をしたことから察するに、自分は所謂"転生"したのだと思っていた。それも前世の記憶を引き継いで。
しかしそれは何かの間違いだったのではと、見慣れた天井……幼い頃にベットに飛び跳ね、頭をぶつけた時に出来た天井の凹みがその考えを肯定するかのように主張している。
「でも私は……」
そう、死んだのだ。決して悪い夢ではなく、彼女自身が、彼女の魂がそのことを覚えている。
「これ……は?」
自分の死の記憶に頭を抱えていた時、ふと視界に入ったものが再び彼女の思考を現在に戻した。
「──ッ!? な、ッんだこれ……!」
目に入ったのは、自分が着用している服。おそらく寝巻きであろうそれは、淡い水色ベースの生地に可愛らしい小さな羊が幾つも散りばめられた、上下セットの寝巻き。
世間一般的に女の子らしいと言えるそれは、彼女を驚嘆させるには充分な働きをした。
「私の部屋……だよな」
辺りを見回す。今腰を掛けているベットの位置、その先にはデスクと加えてPC、モニター。その横に本棚。それらとベットに挟まれるように位置するのは丸型のミニテーブル。
特に変わったものは置かれていないこの部屋の配置は"前世"と間違いなく同じ……配置は。
「は……ぁ?」
ベットシーツは寝巻きと同じデザインの物が。デスクの上には小さなぬいぐるみが数体、隅にはぷかぷか浮かぶ雲のような形をしたオブジェクトが淡く発光している。PCやモニター、その周辺機器はパステルカラーで統一され、本棚には恋愛モノの小説が豊富に並べられている。ミニテーブルには小説が一冊置かれ、頁と頁の間から覗く押し花の栞がそれが読みかけであることを教えてくれる。
呆然とする彼女の視界には、普段の自分とかけ離れた"かわいい"が広がっていた。
彼女にとってこの光景は異常であった。確実に自分の部屋であるにもかかわらず、当たり前のように存在する"異物"は、転生した(はず)ばかりの彼女に激しい混乱と不快感をもたらした。
「おかしい、おかしいおかしいおかしい……ッ!!」
コレは……この身体は果たして本当に自分なのか。鏡を見て確かめたいが、漠然とした恐怖からそれが躊躇われる。
現実を受け入れられない彼女は、逃げるような足取りで部屋の扉へ向かう。拍子にどこかに足の指をぶつけるが気にしない。早くここから出たい……逃げ出したい。
「はぁ……はぁ……」
自分の家である筈なのに、やけに広く感じ、息が上がる。
二階にある部屋から一階へ降りただけでこの体たらくだ。
「くそっ、なんだよこれぇ……」
自分である筈なのに自分ではない……激しい違和感に酷く気分が悪くなる。自分であろうが無かろうが、どちらにしても最底な気分だ。そう内心でボヤく彼女の耳に、
「あの子遅いわねぇ、お姉ちゃんちょっと起こしてきてくれない?」
「嫌よ母さん、あの子ももう立派な高校生なんだから……甘やかしたらだめなんだから」
「まだぎりぎり中学生だよ、だから僕が甘やかせる今のうちに起こしてあげようかな」
「はっはっは! 姉は厳しく兄は甘く、いいバランスじゃないか! ……それにしても、まだ寝てるとはあいつにしては珍しいな」
すぐ先の部屋……ダイニングから声がする。
聞き慣れた声。懐かしい声。もう聞くことの叶うはずがなかった愛おしい存在。
「みんな……!」
駆ける。長く美しいブロンドの髪をなびかせ、目と鼻の先の距離を全力で。早く確かめたい。幻聴ではないと、現実であると。
足を縺れさせながら駆ける彼女の頭からは、先程まで苦悩していた変わり果てた自分の現状など、遥か彼方へ追いやっていた。
「ッ! はぁ…… はぁ……! 母さん、親父、姉貴、兄貴……!」
勢いよく扉が開く。
「あら、おはよう。ちょうどお兄ちゃんがあなたの事を起こしに行くところだったわ」
そう微笑むのは母の菜摘。自慢の明るく輝く翡翠の瞳は菜摘から受け継いだ。
「遅いのよ。遅刻しても知らないんだから。でもご飯は食べないとだめなんだからね」
妹に甘い兄の代わりに厳しく接しようと努める姉の七葉だが、その口調には隠しきれない柔らかさがある。
「やあお寝坊さん。昨日は緊張で寝付けなかったのかい? どうやらまだ寝惚けているみたいだし、顔でも洗ってきたらどうかな……必要であれば僕の魔法ですぐに万全な体調にしてあげよう」
片目を閉じて言う兄の春彦。妹に甘く、彼女は家族で唯一、春彦からは一度も怒られた記憶がない。
「ようやっと起きたか! パパは寂しかったぞ~! だが、これで家族揃ったなぁ!」
明るく豪快な父の正義は、相変わらず娘にパパ呼びを懇願している。
変わらない家族……求めていたあたたかい光景にようやく顔がほころびかける……だが
「おはようございます、芽依様。朝食はこちらに」
長方形型のテーブルに向かい合うようにして座る父と母。サイドには姉が座り、向かい合うのは兄。彼女……芽依が座る位置は決まって姉の横。
……そう決まっている。それが定位置で家族団欒の形。崩されてはいけない安寧の光景。
そのはずだった。
「お前は……だれだ」
身勝手に姉の横……芽依の定位置に我が物顔で居座り、自分の名を呼ぶ新たな"異物"を睨みつける。
「芽依……寝惚けてないで早く目を覚まさないとだめなんだから」
「うむ! それにさっきから言葉遣いがいつもとだいぶ違うが……まさか反抗期かァ!?」
姉と父が何を言っているのかわからないが、芽依は目の前の"異物"から目をそらさない。
「現在この屋敷、笹野葉家に仕えさせて頂いております、サラ=ドメインと申します」
立ち上がり、毅然とした態度で仕えると言った"異物"は、女の姿をしていた。丸眼鏡越しにこちらの内心を無遠慮に覗き込むような深紫の瞳と無機質な顔は、人間らしさが窺えない。
「一体なんなんだよおめェは……!」
怒りなのか恐れなのか、振り絞るように語気を荒らげる芽依に女は終始無表情な顔で沈黙している。
「こぉら芽依、そんな酷いこと言っちゃだめよ。サラさんの料理あなた大好きだったじゃない」
「本当に大丈夫かい? やはり僕の魔法を使っておくべきか……」
皆は一体さっきから何を言っているのか。状況が何一つわからない。これも全てあの女のせいだ。何もかもあいつが変えたのだ。その考えに至る芽依の内心を読み解いたのか、女……サラは瞑目し、再び瞳を芽依へ向ける。
「ッ! お、おい……」
サラが芽依に向かって歩き出す。
黒が基調のワンピースと、それに合わせられた汚れ一つ無い純白のエプロンが僅かに揺れている。乱れのない姿勢と無駄のない足運び、コツコツとメリージェーンが微かに響かせる音に思わず心を奪われそうになるが、反抗的に睨むことで跳ね返す。
芽依の少し前で立ち止まったサラは一礼をする。そこで芽依は漸く、自己紹介の時にこの女はこの家の仕えるべき人間に頭を下げていなかったことに気づいた。
だが、その一礼は美しかった。
芽依は屈しない。自分だけは変わるまいと、この女に反抗すべく言葉を紡ごうとするが、サラの上体を起こす動作によって一瞬怯む。
その動揺も何もかもを見透かしたような瞳で、サラは自分より頭一つ分背の低い芽依を見下ろすように、見下すように、芽依の怯みの隙にねじ込み……言った。
「メイドでございます」
と。