表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ドSの美学、教えます。

作者: A5

 人生は不平等だ。

 平凡な容姿、平凡な頭脳でやっとこさ入った大学はやっぱり平凡で、格好付けてはじめたバーのアルバイトも未だに慣れないことばかり。

 果ては疲れて帰る途中酔っ払いに絡まれるし、暴力まで振るわれそうになるし、それをメチャクチャ美形なホストに助けられるし…

 本当に惨めだ。

 特に美形に助けられたくだりが、コンプレックスを目一杯刺激して涙を誘う。

 そして今、1週間連続でやって来ている客に頼まれて話し相手をしているのだが…


「確かお前、ここに勤めだしてもう1年だろ? なのにそのトーク力…はっきり言って接客の才能ねぇよ」


 歯に衣を着せない物言い。


「大体その顔からして、夜の仕事は向いてねぇんだよ。辞めちまえ、不細工」


 しかし悔しいかな、声は低く掠れていてセクシーだ。

 引き攣った笑みを貼付けている俺相手に、黙っていても噛み付いても延々と繰り返される悪態の嵐。

 仕立ての良いブランド物のスーツを嫌味なくらいに着こなし、腕に光るのはそれだけで車が買えそうなほどの高級腕時計。

 甘い香りを漂わせている男は焦げ茶色の髪を後ろへと撫で付け、軽薄そうな薄い唇の端を楽しげに持ち上げている。

 他の客から熱のこもった視線を浴びせられているにも関わらず、俺だけをいたぶるように見詰める切れ長の瞳はまさに猛禽類のそれだ。


「おいおい、図星すぎてだんまりか? これくらいで顔が引き攣るんじゃ、バーテンなんてやってらんねぇぜ。不細工なら不細工なりに、せめて気合い入れて笑えよ」


 あの日、酔っ払いから助けてくれた救世主が、まさかこんなドSだなんて誰が想像しただろう。

 ちなみに先程から不細工だと連呼されているが、俺は平凡顔なのであって決して不細工ではない。

 …多分。


「トキさん、そろそろお店の時間なんじゃないですか? 俺なんか構ってないで、早く行った方がいいですよ」


 いけ好かないこの男はやっぱり夜の仕事をしているそうで、源氏名を『トキ』というらしい。

 堅気じゃないのは明らかだけど、どうせ可哀相な女にわんさか貢がせているに違いない。


「…うるせぇな、お前は俺の女房か。彼女面するなら整形でもして出直してこい」


 夜の世界はルックスさえ良ければどうにでもなる異空間だ。

 無駄に整っている顔と逞しい身体を持ってすれば、少々の性格破綻でさえも魅力を引き立てるスパイスに変えてしまうんだろう。

 一方俺ときたら、目立つ容姿でもないし髪だって真っ黒のままだ。

 身長も平均的だし、お客様を楽しませるような軽快なトークも出来やしない。

 本当に世の中は不公平極まりない。


 カウンターの中で距離を取りながら、こちらを伺っている店長や同僚も助けてくれる気なんかさらさらないらしく、別の客相手に楽しそうに話の花を咲かせている。

 俺だってどうせなら女の子のお相手をしたいよ…切実に。


「それはスミマセンね、出過ぎたことを言いました。…トキさん、何か頼まれます?」


 あれだけ喋れば喉が渇くのも当然で、ウイスキーの最後の一口を飲み下したトキさんを確認すると、あくまで営業スマイルを貼付けて問い掛ける。


「ここの品揃えも悪かねぇけどよ、これ、俺のキープとして置いとけよ」


 そう言って持っていた鞄から無造作に取り出されたボトルを見て、俺どころか店中が一瞬にして凍り付いた。

 カウンターに置かれた、シルバーに光を反射している独特なデザインのボトル。


「こっ、ここ、これってまさか…ルイ13世ブラックパール・マグナム!」


 日本には30本しか入ってきていない、1本で四百万はくだらない高級ブランデー…

 まさかこの目で拝める日が来ようとは!


「何だ、一々うるさい奴だな。なんだったら、お前も一緒に飲めば良いだろうが。この貧乏人」


 ブランデーには目がない俺を知ってか知らずか、煩わしそうに眉をひそめながら言われた提案。

 俺といえば、そりゃもう簡単に飛び付いた。

 例えいけ好かない男でも、今なら盛大に尻尾を振ってやるし悪態だって甘んじて受けてやる。

 心底呆れたような顔のトキさんと、羨ましそうにこちらを見ている店長達なんか物ともせず、クリスタルの美しいデキャントに見惚れながらいそいそとグラスを準備していく。

 やっぱり辛く苦しいことが続けば、いずれは良いことも起こるものだと俺は単純に喜んでいた。

 それが、罠に嵌めるための餌だとも知らずに。




 ***




「…で、飲んじゃったわけだ。一杯20万のブランデー」

「…………余すことなく堪能しました」


 講義も終わり人が疎らになった大学の教室。

 窓側の席に隣り合うようにして座っている俺の親友・村田は、机に頬杖をついたまま呆れたような眼差しを向けてくる。

 昨日の一件を包み隠さず全てを吐露した俺は、がっくりとうなだれて返す言葉も見付からない。


「飲んだものは仕様がないんだから、その人の言うこと聞くしかないだろ」


 人事だと思ってあっさりと正論を口にする村田を、心の底から恨めしげに横目で見上げた。

 言うことを聞きたくないからこうやって相談しているというのに、目の前の男ときたら呑気にジュースなんか飲んでいる。


「アイツなんかと買い物に行ったら、それだけでハゲるわ!」


 最高級ブランデーの代償は、トキさんの1日付き人という衝撃的なものだった。

 この1週間俺をイジメにイジメ抜いてきた男が、今更タダで酒を飲ませるわけがない。

 普通ならすぐにでも気付きそうなものなのに、あの時の俺は目の前にぶら下がった餌に夢中で冷静な判断が取れなかった。

 香しいブランデーに口を付けた瞬間、勝ち誇ったようにニヤリと歪んだアイツの顔は死ぬまで忘れないだろう。

 そしてその顔が俺の脳を我が物顔で闊歩してくれたおかげで、全くと言っていいほど授業が手に付かなかった。


「買い物といっても、荷物持ちとかだろ? 悠人はよっぽどその人が怖いんだな」

「怖いんじゃなくて、嫌いなんだよ。ストレスで今にも胃に穴が空きそうだっつーの。大体トキさんと休日を過ごしたい奴なんて、それこそ掃いて捨てるくらいいるだろ。何でよりによって俺なんだっつーの」

「……はぁ!? その男ってのは、まさかあのトキさんなのかっ?」


 いきなりジュースを机に叩き付けて、村田が信じられないとばかりに目を見開いている。

 その常にはない剣幕に驚いて、反射的にがくがくと頷いた。

 すると今度は絶望したように変な唸り声を上げながら、机に額をグリグリと擦り付けはじめる村田。

 親友の不可解な行動に俺は首を傾げたが、どうやらトキさんが物凄く有名な人だということは何となくわかった。

 いかにもモテそうだし、きっと何処ぞのナンバー1ホストとかそんなのに違いない。


「おいおい村田くんよ…ホストくらいで大袈裟だって」

「おまっ、…ただのホストだったらこんなリアクション取らないよ!」


 笑い飛ばしてやろうとする言葉に噛み付くような勢いで顔を上げた村田は、俺の肩を両手でがっちりと掴み真剣な面持ちで詰め寄ってくる。

 そのただならぬ雰囲気に、こっちまで段々と顔が強張ってきた。


「悠人、その人には絶対に逆らうな。付き人くらい黙ってやれ、いいな?」

「いや、良くないだろ! 何なんだよ一体…そんなに有名なのかよ、トキさんって」


 肩にかかる手を退けさせようと軽く身体を捻るが、更に押さえ込むようにして強くなった腕の力が不快で次第に眉が寄っていく。

 要点の掴めない村田の言葉に苛立ちを隠し切れず睨み付けると、意を決したかのように開かれた口から飛び出したのは信じられない事実だった。


「いいか、良く聞け。トキさんはホストなんて甘いもんじゃない…裏の世界では知る人ぞ知るSM界の神。伝説の調教師様だ!」


 ……………は?

 一瞬にして頭が真っ白になる。

 村田の顔からして冗談や揶揄いではないことは明白だけど、俺の脳みそが理解することを頑なに拒んでいる。

 あれ、SMって何だっけ……調教師って美味しいの?

 なんて使い古されたボケさえ、今なら自然と口から零れ落ちてしまいそうだ。


「正確には元・調教師なんだけど、1年前に引退して今はSMクラブのオーナーを勤めているらしい。これでわかっただろ? 悠人が相手しているのはただのムカつくドSじゃない。Sの中のS。Sからも神と崇められるゴッド・オブ・ドS、それがトキさんだ!」

「……どうしよう、村田…。本気で行きたくなくなってきたんだけど…バックレていいかな、俺」

「バカッ、そんなことしてみろ! 亀甲縛りに蝋燭に鞭に三角木馬のフルコースだっ! もう元の世界には戻ってこれなくなるぞ!」


 大袈裟に俺を揺さぶっている村田だが、その瞳に憐憫が滲んでいるのを見て一気に不安が込み上げてくる。

 確かにトキさんは他の人よりも意地が悪いし、俺にだけ集中的に攻撃してきていたけど、それは全て口先だけの言葉だった。

 それはバーという環境だったからこそ、甘んじてそこで留めていただけかもしれない。

 もしかしたら約束の日、何かしら痛いことを仕掛けてくるのではないだろうか…

 もしそうだったとしたら、俺はとんでもない罠に引っ掛かったということになる。

 約束の日まで後3日…

 俺はただただ天変地異に見舞われて、待ち合わせの場所が崩壊しないものかと祈るばかりだった。




 そして、そう都合の良い異常気象が起こるはずもなく、約束の日はいっそ清々しいほどの晴天に恵まれた。




 午後1時、駅前の噴水に集合。

 何ともベタな待ち合わせ場所のため、平日の真っ昼間だというのに恋人や友達を待つ若者が結構いる。

 その中でもジーパンにパーカーという地味な服装の俺は、はっきり言ってメチャクチャ馴染んでいた。

 目を逸らせば3秒で忘れてしまいそうな存在感は、自分で言うのも何だが他に類を見ないほどの平凡っぷりだろう。

 この3日間はアルバイトもなかったから、トキさんと会うのはあの一件以来ということになる。

 トキさんの正体を図らずも知ってしまった俺は、昨日の夜からお腹が痛くて仕様がなかった。

 いわゆる、学校に行きたくない小学生がなるアレだ。

 何故だか緊張してしまって夜も眠れないし、今日もお昼ご飯があまり進まなかった。

 今日は一体何処に付き合わされてしまうんだろう…


 噴水の縁に座って行き交う人々を何の気無しに眺めていると、約束の時間を僅かに過ぎたところでやたらと人目を引く男がこちらに向かって歩いて来るのが見えた。

 黒いパンツに黒いサマーセーターと特出していない服装にも関わらず、スラリと高い身長に見合った長い足で颯爽と歩く姿は、女性ばかりか同じ男の目さえも引いている。

 この男と連れ立って歩くのだと想像しただけで、すでに吐きそうだ。

 黙って帰ってもいいだろうか。

 トキさんがドSの神だとしても、むざむざ自分から餌食になりに行くことはない。

 そうだ、待ち合わせ場所を間違えたということにしよう。

 そうすれば村田が言っていたお仕置きフルコースとやらも回避できるに違いない。

 三十六計逃げるに如かず!

 まだ見付かってないのを良いことに、俺は持ち前の影の薄さを活かし回れ右をして歩き出した。

 もう少しで手近な建物に入れると気が緩んだ瞬間、不意に肩を掴まれて反射的にビクッと身体を跳ねさせてしまった。


「おい、不細工。テメェ何処に行くつもりだ」


 甘く掠れた美声。

 しかし今の俺には地獄からの呼び声にしか聞こえない。

 その余りの恐ろしさに硬直して振り返ることも出来ない俺に苛立ったのか、肩に置かれた手が力を増してくる。

 早く!

 一刻でも早く言い訳を考えなければ!

 焦っていた俺は目の前の建物が映画館を併設してビルだと気付き、壁面に貼ってあった新作の映画らしいポスターを指差した。


「…いっ、いや、ちょっと…あのポスターを近くで見たくなりまして…」

「へぇ…お前、あんなのが趣味なのか」


 何とか誤魔化せただろうか…

 首を軋ませて振り返ると、実に楽しそうな笑みを浮かべているトキさんの顔が見えて、俺はもう逃げられないことをようやく悟った。

 ここは開き直って、付き人に徹するしかない。

 咄嗟の言い訳も信じているようだし、ここはさっさと用事を済まして帰宅を促そう。


 ……と、高を括ったのだけど…


『ギャアアアァァッ!』


 何故俺は映画館にいるんだ…?

 そして何故、よりにもよってサイコでスプラッタなホラーを観ているんだ?

 隣では狭そうに長い足を組んで座っているトキさんの姿。

 誤魔化すために指を差したポスターが、まさかR指定まで受けている怖いと話題の映画だったなんて思っても見なかった…

 ビルの前で俺が逃げないように腕を掴んだかと思えば、あれよあれよと言う間に映画館に引き擦り込まれてしまった。

 俺の手にはポップコーンが持たされているが、こんな肉片が飛び散るものを見せられて食べられるはずがない。

 時折伸びてくるトキさん手が、俺の膝からポップコーンを摘んで口へと運んでいく。

 よくこんなものを眺めながら食が進むものだ。

 多分このポップコーンも荷物持ちの一環なのだろうとは思うものの…


『ぐあぁあああーっ!』


 ―――ビクゥッ!


 響き渡る断末魔の悲鳴に無意識の内に身体が跳ねてしまい、少しポップコーンを零してしまった。

 物語も佳境に入り、激しさを増した惨殺シーンが繰り広げられているスクリーンを、チキンな俺は見ることが出来ない。

 そう、何を隠そう俺は大のホラー嫌いなのだ。

 さっきから曲が盛り上がったり、効果音が鳴る度にビクビクと首を竦めてしまう。

 今スクリーンではヒロインに犯人らしき影が迫っている。

 閉じた瞼を薄く開き、緊迫したシーンに息を潜めて見入っていると…


 ガシッ!


 突然腕を掴まれた。


「―――ッ!!」


 辛うじて声は押し殺せたけど、余りの驚きに心臓が止まるかと思った。

 そして言うまでもないが、例に漏れず身体をビクつかせてしまった俺は、手に持っていたポップコーンを派手に床へとぶちまけてしまった。

 しかし、それさえ気にする余裕などない俺は、未だに腕を掴んでいる物体に恐る恐る視線を落とす。

 そこには血に塗れた傷だらけの腕が…あるはずもなく、トキさんの長い指が手首をしっかりと掴んでいた。


「悪ぃ、ポップコーンと間違えた」


 露骨な嘘をついて離れていく手に、今更ポップコーンをばら撒いた恥ずかしさと驚かされた悔しさが込み上げてきて、涼しげな顔をしているトキさんを横目でこっそり睨み付ける。

 俺の恨めしげな眼差しを知ってか知らずか、口の端を持ち上げてスクリーンを見ている横顔が堪らなく憎らしい。

 トキさんは俺がポスターを指差した理由について、薄々気が付いているに違いない。

 それを逆手に取って揶揄うために、わざわざ映画を観ることにしたんだ。

 なんて恐ろしい男…

 その後、映画が終わるや否や慌ててポップコーンを片付けたことは言うまでもない。




 足を踏み入れたこともない名前だけは知っている高級ブランドショップをハシゴして、両手でやっと持てるくらいまで極限に買い込んだ荷物によろけながらもトキさんの後を追う。

 なんとトキさんは噂に聞くブラックカードなる物を持っていて、現金は一円も持っていないことが判明した。

 確かにバーでも、お会計の時に渡されるカードが黒いなぁとは思っていたけど、まさかあれが伝家の宝刀・ブラックカード様だとはビックリだ。

 文字通り荷物持ちとしてこき使われている内に外はすっかり暗くなり、そろそろお腹が空いてきたとは思っていた。

 腕に食い込む荷物も下ろしたいし、とにかく休憩がしたい。


 だがしかし、一体誰が予想しただろう。

 そびえ立つ有名ホテルの三ツ星フレンチレストラン。

 夜景を一望できる一角は広い個室になっていて、テーブルに並んでいるカトラリーもグラスも見るからに高そうだ。

 そんなセレブご用達のような店に連れて来られるなんて、普通の大学生が想像できる訳がない。

 開いたメニューも辛うじて日本語で書かれてはいるが、聞いたこともない料理名や聞いたことしかない高級食材の名前がただただ羅列している。

 最早目眩がしそうな状況に、俺は全てをトキさんに任せることにしてとっととメニューを閉じた。

 このレストランの常連らしいトキさんの隣には、傅くようにしてソムリエのお兄さんが立っている。

 どうやら食前酒から順番に数種類のワインをセレクトしているらしいけど、はっきり言って俺はそれどころじゃない。

 頭の中では随分昔に習ったテーブルマナーが嵐の如く荒れ狂い、何本も並べられているナイフとフォークにパニック寸前だ。


「じゃあ、1945年のシャトーマルゴーを頼む」

「1945年!?」


 不意に耳を掠めた単語に驚き、勢いのまま立ち上がってしまった。


「1945年って言ったら、今世紀最大の当たり年じゃないですか! …ってことは、一本50万はする高級品ですよ…っ」


 場所も忘れて興奮を抑え切れず前のめりで目を輝かせていた俺が相当可笑しかったのか、一瞬驚いたような表情をしていたトキさんがすぐに噴き出した。


「…ククッ、ホントにお前は笑わせてくれる」


 隣に立っていた真面目そうなソムリエのお兄さんも、辛うじて笑いを堪えてはいるが明らかに肩が震えている。

 そこでようやくこの恥ずかし過ぎる状況に気が付き、俺は顔を熱くさせながら椅子へと座り直した。


「す、…スミマセン…」

「流石バーで働いているだけあって、知識だけは一人前みたいだな。腐っても鯛ってことか」

「…腐ってもは余計です!」


 当たっているだけに反論出来ないのが悔しいが、膝に乗せたナプキンを両手で握り締めて懸命に心を落ち着ける。

 とにかく恥ずかしさをやり過ごすことが先決だ。

 ソムリエのお兄さんが出て行くと、すぐに食前酒が運ばれてきた。

 琥珀色に満たされた細身のシャンパングラスを傾けているトキさんは余りにも様になっていて、横の夜景も相俟って壮絶なフェロモンを垂れ流している。

 しかし、この部屋にはトキさんの他に俺しかいない訳だから、そのフェロモンも無駄遣いな気がしてならない。

 それにしても、いくらトキさんの同伴だからドレスコードがないに等しいとはいっても、ジーパンにパーカーの俺は実に居心地が悪い。


「トキさん、俺…メチャクチャ浮いてるんですけど…」

「知るかよ。俺はメシが食いたいだけだ」


 俺様もここまでくると、いっそ清々しいと思う。

 思えばここは個室な訳だし、テーブルマナーもトキさんの見よう見真似で構わないはずだ。

 自分ばかりが周りの目を気にしているのが段々バカらしくなってきた俺は、開き直るように普段なら口に出来ない高級な料理や酒に舌鼓を打ち、存分にシャトーマルゴーを堪能した。

 食事の間は揶揄われたりすることもなく、俺は目の前の男が伝説の調教師だということも忘れてデザートまできっちりと楽しんだ。

 ここにきて俺は、昨日まで悩んでいたことなんか全て忘れて、純粋に様々な経験をさせてくれるトキさんに感謝していたし、この空間を楽しいと感じはじめていた。




「本当にご馳走様でした。こんな美味しい料理もお酒も口にしたことがなかったから、凄く新鮮だったし勉強になりました」


 腹も満たされ程よくアルコールが回った身体は心地良く、普段では言わないような素直な感謝の言葉を口にすると、トキさんは何故か機嫌が悪そうに俺から目を逸らした。

 もしかしたら、お会計が思ったよりも高かったのだろうか。


「あの、本当にご馳走になっても良かったんですか? って言っても、俺の給料じゃ払えませんけど」

「当たり前だ。この俺が貧民から金を取るわけがないだろ」


 少し先を歩き出したトキさんは素っ気なく言うけど、何処となくいつもより言葉に刺がないような気がして胸がほんわりと暖かくなる。


「ちんたら歩いてんじゃねぇ、この鈍亀」


 口では悪態をつきながらもエレベーターに入って扉を開けてくれている姿に足を速め、中に入ると同時に閉まった扉に酔って熱くなった息を吐き出す。


「トキさん、帰りはこの荷物自分で持って帰るんですか?」


 両手に握っている大量の紙袋を僅かに揺らして見せると、トキさんは何故か1階じゃなくて最上階のボタンを押した。


「…あれ、帰るんじゃないんですか?」

「飲み足りねぇんだよ。ラウンジに付き合え」

「いやいや、終電なくなっちゃいますって」

「俺はここに部屋を取ってるから構わねぇよ」


 俺の都合はどうでもいいわけですね…

 トキさんの気が赴くままに上っていくエレベーターが、軽い振動と電子音と共に止まる。

 扉が開くとそこはすでにラウンジの中で、程よく落とされた照明の効果で大きな窓に広がる夜景の明かりが更に際立っていた。

 重厚そうな高級感漂う内装に、大荷物で冴えない俺はレストランの時と同様にまた気後れしてしまう。

 雰囲気の良い店内を見渡せば恋人達が適度な距離を保ってグラスを煽り会話を楽しんでいたが、やはりここでもトキさんの容姿は際立って目立つようでチラチラと視線が向けられている。

 そんなことには慣れているのか、周りには一切目もくれずさっさと中へ入っていくトキさんを慌てて追い掛けた。


「あれ、トキさんじゃないですか! ご無沙汰しています」


 不意に上がった声にトキさんの足が止まる。

 それにつられるようにして俺も立ち止まると、カウンターから一人の男が歩み寄ってきた。


「…ミコトか」


 トキさんにミコトと呼ばれた彼は、トキさんほどじゃないけど背が高く何処となく柔らかな物腰のメチャクチャ綺麗な人だった。

 サラサラの栗色の髪に白いサマーセーターが良く似合っている。

 大人の色気漂う二人が並んでいる姿はまるでドラマのワンシーンのようで、周囲からもうっとりとした溜息が聞こえる。


「この子はトキさんの連れ? ねぇ、僕のこと彼に紹介してよ」

「んな必要ねぇだろ」


 俺に気付いたらしいミコトさんがニコニコと愛想の良い笑顔で近付いてくるが、片手でそれを制したトキさんがこちらを見もせずに突っぱねる。

 それに懲りることなく笑みを絶やさないまま、ミコトさんが形の良い唇を開いた。


「僕はトキさんが最後に調教した犬だよ、よろしくね」

「………は、い…犬?」


 余りにもあっさりと言われた言葉が理解出来ずに目をしばたかせていると、傍らで重々しく息を吐き出しながらトキさんがミコトさんを睨み付けている。

 本当に調教師だったんだな…

 意地悪は山ほどされたけど、変態的なことや痛いことは余りされたことがないから実感がなかった。

 だけど、こうやってお相手が目前にいると嫌でも理解せざるを得なくなる。


「あの、犬って…」

「僕の全てをトキさんは知ってるってことだよ」

「ミコト、いい加減にしろ」


 静かに窘めているトキさんの様子から見て、どうやらミコトさんの言葉は嘘ではないらしい。

 確かにこれだけ綺麗な人なら傍に置いておきたいと思うのもわかる。

 きっとトキさんはミコトさんのような人がタイプなんだろう、例え男同士だとしても並んでいる二人は誰が見てもお似合いで…

 途端、胸がズキリと痛んだ。

 気のせいかと思ったけど、その痛みはどんどんと強くなってくる。


「……俺、明日朝一で講義があるの忘れてました、もう帰りますね。今日は色々とありがとうございました。あ、荷物はここに置いておきますから忘れないでくださいよ。それじゃ、俺はこれで」

「お…おい、ちょ…待て!」


 巻くし立てるように言うとそのまま荷物を床へと下ろし、顔を上げることなく踵を返すと止まったままのエレベーターへと飛び乗った。

 後ろからトキさんの声が聞こえたけど、振り切るように扉を閉めて1階のボタンを押す。

 僅かな振動と共にゆっくりと下降しはじめたエレベーターを確認して、ようやく強張った身体から力を抜き壁へと寄り掛かった。

 余りに衝撃的な事実と、そして何より感じたことのない痛みが身体を蝕むせいで頭が酷く混乱する。

 モヤモヤとした得体の知れない感情に、また胸が苦しくなったような気がした。

 訳がわからない黒い気持ちから逃げるように、俺はホテルを出て一目散に駅へと向かう。

 何処をどう通って帰ってきたかは覚えていないけど、布団に入ってからも脳裏にチラつくトキさんとミコトさんの姿に苦しめられて、俺はその日空が明るくなっても眠ることが出来なかった。




 ***




 目の下にくっきりと浮かび上がっている隈が、平凡顔を不幸顔へと変貌させていた。

 今日もアルバイトがあるというのに、なんて酷い顔をしているんだ…

 今朝鏡で見た自分に軽く目眩がしたが、それは昼を過ぎても変わることはなかったようで、いつものように隣に座っている村田が心配そうにチラチラと俺の顔を伺っている。

 今は講義が終わっているから話しても問題ないだろうに、村田は何度か口を開いては閉じてを繰り返し一向に言葉になる気配はない。

 黙っていれば爽やか好青年といった風貌にも関わらず、おろおろとしている村田が可笑しく堪え切れなくなった俺は小さく噴き出してしまった。


「…ふはっ、何だよ。言いたいことあるならさっさと言えよ」

「悠人…それはこっちの台詞だって」


 心配そうに顔を曇らせている村田に、今の自分の心境をどう言ったらいいものかと視線を泳がせる。

 一晩中俺の思考を掻き乱した人物達と、何故そんなことくらいで胸がざわめくのか自分自身でさえ理解できなかったことを、どうやって説明すればいいのかわからないのだ。

 一向に口を開こうとしない俺を辛抱強く待っていてくれる村田は、やっぱり掛け替えのない親友だと痛感する。


「…俺さ、昨日トキさんに1日付き人させられたじゃん?」

「あぁ。…もしかして、トキさんって人に何か酷いことされたのか?」

「それがさ、ちょっと楽しいとか思っちゃったわけよ」


 昨日の待ち合わせからレストランで食事したところまでを思い出せば、以前では考えられないほどトキさんと自然体で向き合えていた気がする。

 それは思っていたよりも楽しかったし、揶揄れるのはムッとするけど不思議と嫌ではなかった。


「ならいいじゃん」

「いやぁ、その後が問題で…トキさんが前に調教したっていう人に偶然会っちゃってさ」


 ミコトさんの柔らかな笑顔を思い出して、途端にズキリと胸が痛む。

 苦しさに眉を寄せながらも、理解できないもどかしさに困り果てて小さく息を吐いた。

 トキさんがSMクラブのオーナーでも、元調教師なんて怪しい職業でも、ミコトさんがMだってことも、男同士だってことも…多分俺に偏見の気持ちはないと思う。

 そりゃ怖いし、未知の領域だから理解は出来ないけど、気持ち悪いだなんて思っていない。

 ただ、二人が親密な仲だと考えると吐き気さえ込み上げてきそうになる。


「それはまた…何と言うか、ヘヴィな話しだな」


 コメントがしづらいのか変なことを想像しているのか、村田は顎に手を当てて考え込むように眉を潜めている。


「俺はSでもないしMでもないんだけど、少し…本のちょこっとだけ、その人が羨ましくなってさ。何でだろうって考えてたら眠れなくて…」


 あの時、俺は羨ましかったんだ。

 俺はトキさんのことを全然知らない。

 だけどミコトさんは、俺が知らないトキさんをたくさん知っている。

 それこそ、普段じゃ考えられないけどトキさんに優しくされたりしたのかもしれない。


「…悠人さ、自覚ないんだ?」


 しばらく黙り込んでいた村田が顔を上げるのに合わせて、俺も背もたれから身体を離してその不可解な言葉に首を傾げる。

 何の脈絡もない村田の言動を、どう多方面から考えても理解できない。


「よし、わかった。今日は悠人のトコに飲みに行くから、その時ゆっくりと話し聞いてやるよ」

「え、マジ? それじゃ、1杯だけ奢ってやるよ」

「1杯だけかよ」


 持つべき者は友達だ。

 よくわからないことを言う奴だけど、それは今夜じっくり聞き出せばいい。

 もしかして今日もトキさんが来るかもしれないと憂鬱だった出勤が、村田のおかげで少しだけ楽しみになった。

 僅かばかりだが食欲が沸いて来た俺は、昼食用にと買っておいた焼きそばパンに勢いよく歯を立てた。




 ***




 カウンターしかない小さなバー。

 今日のシフトは俺と店長の他には、ベテランの先輩が一人入っているだけ。

 この店で働きだしてもう1年近くなるけど、続けていけるのは気の良い同僚と優しい常連客のおかげだ。

 そんな彼等の最近の話題は専らトキさんのことだったりするのを、俺は今日まで知らなかった。

 どうやら俺がトキさんの正体を知らずに接客していたのが面白かったらしく、常連の中ではひそかにいつ気付くか賭けまでしていたらしい。

 出勤した時に控室から店長達の話し声が聞こえて発覚したのだけど、はっきり言って余りいい気持ちはしない。

 俺の機嫌を取ってくる店長や先輩を尻目に、いつものようにシャツにベストを重ね蝶ネクタイを締めていく。

 平凡顔の俺だけど、きちんと制服を着ればそれなりにバーテンダーっぽく見えるから不思議だ。

 カウンターへと出ると開店の少し前だということもあって、台を拭いたり氷のストックを確認したりと比較的のんびりと作業していく。

 あらかた整ったところでタイミング良くカランッという鐘の音が響きドアが開いた。

 開いたドアの隙間から顔だけを覗かせた男は明らかに見たことがある男で、人好きのする笑みを浮かべている。


「ちょっと早いみたいだけど、いいかな?」


 シックなブラウンのスーツを身に纏った美しい男の登場に、店内にいた従業員はもちろん俺も一瞬にして硬直した。

 少ししか会っていないというのに、何度忘れようとしても忘れられない顔。

 トキさんの犬だったと自ら名乗ったミコトさんが、ドアの前に忽然と姿を現したのだ。

 どうしてこの店を知っているのかと疑問を抱かないわけではないが、それでもお客をいつまでも入口に立たせている訳にはいかないと奥のカウンター席へと促す。

 足の長いスツールへと腰をかける仕種もどこか洗練されていて、店長達もミコトさんに視線を向けずにはいられないようだ。

 わざわざ俺の目の前に座ったミコトさんが、カウンターの上で両肘をつき組んだ手の上に顎を乗せて上目使いに見上げてくる。

 普通の人ならそれだけで彼に陥落してしまいそうなほど魅力的な眼差しだろうけど、今の俺にはぐちゃぐちゃに掻き乱れている心まで見透かされてしまいそうでどうにも落ち着かない。


「…何に致しましょう」

「仕事前だからね、烏龍茶をお願いするよ」

「かしこまりました」


 ギクリ、と肩が揺れた。

 バーまで来て烏龍茶を頼むということは、目的は俺以外考えられない。

 ミコトさんはわざわざ俺と話をしにここまで来たんだ…

 背の高いグラスに氷を入れ、隅に設置されている冷蔵庫を開けてペットボトルの烏龍茶を取り出す。

 見なくてもわかるほど突き刺さるミコトさんの視線に震えそうになる指先を叱咤して、あくまでも自然に見えるようにグラスにお茶を注いでいく。

 店長の趣味で流されているジャズ以外何の音もしない。

 俺とミコトさんの痛いほどの沈黙に耐え切れなくなった店長達が、視線を逸らしてバックヤードへと消えていった。

 俺だっていっそ引っ込んでしまいたい…

 ペットボトルの蓋を閉めると、コースターと共にミコトさんの前にグラスを置いた。


「烏龍茶でございます」

「ありがと」


 グラスへと目を向けて一口飲む姿に、やっと外れたあの痛いほどの視線から解放されたと肩から力が抜けていく。

 しかし安心したのも束の間、グラスをコースターに戻したミコトさんはまたニッコリと笑顔を俺に向けてくる。


「僕はミコト」

「……松田悠人と申します」


 一体何なんだ。

 昨夜あれほど気まずい出会い方をしたにも関わらず、今更自己紹介し合う奇妙な展開に居心地が悪く僅かに間が空いてしまった。


「悠人くんって言うんだ? トキさんに聞いてもアイツとか、アレとか言って名前教えてくれないんだもん」


 名前―――…恐らくトキさんは俺の名前を知らない。

 名乗った記憶もないし、トキさんが呼んでくれた覚えももちろんない。

 その事実は気付いていたし、特に気にしたことなんかなかったのに、今は何故か胸が痛む。


「トキさんは、多分私の名前をご存知ないのかと」

「はぁ?」


 俺の言葉がそんなに意外だったのか、口をぽっかりと開いているミコトさんだがそんな顔でさえ整って見えるほどの美形が憎い。

 二人だけだという空気に耐え切れず、ペットボトルを冷蔵庫に戻したり意味もなく手元に置いてあるシェイカーの場所を弄ったりと落ち着きなく手を動かしていたが、不意に再び笑みを浮かべたミコトさんが顔を覗き込んできた。

 知らずビクついてしまう俺を見て更に笑みを深めると、前のめりの体勢のままゆっくりと猫のように目を細めていく。


「ねぇ、悠人くんはトキさんが調教師だってことは知ってるよね?」

「……はい、有名な方だという程度には…」

「トキさんに躾られない犬はいなかったんだよ。ほら、トキさんって普段から鬼畜でしょ? 足を革靴の踵で踏みにじってきたり、路地裏に引き擦り込んでお仕置きしてきたり…僕も当時は大変だったよ」

「いえ、私にはそのようなことは何も…」


 聞きたくない。

 ミコトさんの口から聞かされるトキさんと、俺が知っているトキさんとでは別人かと思うほど違っていた。

 彼にとって愛情は痛みを伴う行為のことで、俺に対する意地悪な言葉や態度はただ単に普通の会話だったんだろう。

 酔っ払いから助けてくれたのもきっと気まぐれで、1週間この店に通い詰めていたのも昨日の買い物も、ただの暇潰しに過ぎないんだ。

 いつの間にか俺は、自分がトキさんにとってちょっとでも気に入られている存在なのかもと思い上がっていたのかもしれない。

 そんなこと、あるわけがないのに。


「悠人くんは、トキさんに躾られたことないんだ…?」


 意味ありげに見上げてくるミコトさんが、何故かとても憎らしく見えて仕方がない。

 込み上げてくる劣等感やら焦燥感に唇を噛み締めて俯くけど、ミコトさんは俺を逃がしてはくれない。

 頬杖をついたまま、満面の笑顔で口にされた言葉が刃となって俺の胸を貫いていく。


「トキさんにとって、悠人くんはプレイ対象外なんだろうね」


 気付いてしまった。

 ミコトさんの口からトキさんの名前が出る度に、黒くドロドロした気持ちが胸を渦巻く理由。

 昨日のことを楽しいと感じた理由。

 トキさんのことを想うと息が出来ないほど苦しくなる理由。

 俺は知らない間に、トキさんのことを…


「…あ、そろそろ仕事の時間だ。ゴメンね、悠人くん。また今度ゆっくり話しをしよう」


 高そうな腕時計で時間を確認したかと思えば、言いたいことだけ言ってミコトさんはさっさとジャケットからブランド物の財布を取り出す。

 カウンターに少し多いお金を置いて席を立つミコトさんに店員として声をかけることさえできず、入ってきた時と同じように鐘を鳴らしてドアから出ていく後ろ姿を俺はただ呆然と見詰めていた。

 ドアの音に気付いたのかカウンターに店長達も戻って来て、またいつものようなのんびりとした雰囲気が流れはじめる。

 常連の女性客や、店長の友人達が次々と来店する中、俺は村田がやって来るまでただ機械的に腕を動かすことしかできなかった。




 爽やかスマイルと共にドアを開けた村田が、俺の顔を見るや否や店長に断りを入れて店外に引っ張り出した。

 多分、店長も俺の様子がおかしいことに気付いていたんだろう、あっさりと休憩にしていいと許可してくれた。

 だけど、そんな優しさに感謝する余裕さえない俺は、手を引かれるまま路地裏まで連れて来られたことにも気付かずにずっと頑なに俯いていた。

 ミコトさんの言葉で、トキさんにとって俺がどれだけ取るに足らない存在なのかを痛感させられ、最早歩く気力さえ沸かない。


「どうした、悠人。今朝よりも酷い顔になってる」

「……俺は、いつも通り平凡顔だ」


 悪態をついても声が震えてしまえば目も当てられない。

 不意に糸が切れたように地面に屈み込むと、一緒になって膝を折った村田が宥めるように肩に腕を回してくる。

 その労るような仕種に気が緩んで、ついには堪えに堪えていた涙まで溢れ出してきた。


「お、…俺、トキ、さんのこと…好きみたい、なんだ…っ」


 自分の気持ちに気付いた瞬間、それが余りにも分不相応なことだと思い知らされた。

 平凡な俺がトキさんみたいな人と釣り合いが取れる訳がない。

 それ以前に、トキさんが俺のことを意識してくれることさえ有り得ない。


「そっか、気付いちゃったんだ」


 村田は俺の想いに気が付いていたのか、寂しそうな笑顔で見詰めてくる。

 痛む胸に手を当てて、制服であるベストを力いっぱいに握り締めた。


「トキさん、なんて…嫌いだった、のに…、いっつも、意地悪で…ムカつく、嫌な奴…ッ」


 止め度なく落ちていく涙がアスファルトを濃く濡らしていき、嗚咽の度に途切れる言葉を黙って聞いてくれる村田を見ることさえ出来ない。


「でも、本当は…わかってた…っ、高いブランデーも、ワインも…料理も、映画も、俺のためだって…」


 口も態度も悪い人だけど、酔っ払いから助けてくれたのも希少価値の高いボトルを用意してくれたのも、トキさんなりの優しさだったと心の何処かではわかっていた。

 わかっていたから、惹かれずにはいられなかったんだ…

 トキさんが意地の悪い顔をして笑う姿に、本当はいつも胸をざわつかせていた。


「気付けて良かったじゃん。悠人は鈍いところがあるから、ずっと自覚がないままかと思ったよ」

「…うるせぇよ…っ」


 自覚した途端に失恋だなんてあんまりだ。

 それを良かっただなんて、今の俺にはとてもじゃないけど思えない。

 だけど、いつかは素敵な恋だったと笑って話せる日が来るのだろうか。

 いつかはこの痛みも薄れていって、新しい恋へと踏み出せる日が来るかもしれない。

 肩に手を回したまま子供にするように頭を撫でてくる村田が可笑しく、その胸に頭突きをしてやる。


「うわっ!」


 そのまま尻餅を付きそうになった村田が、縋るようにして俺の背中に腕を回してきた。

 一緒になって転げそうになるのを何とか踏ん張って体勢を立て直すと、何だか少しずつ涙が引っ込んできた。


「……俺…さ、まだ気持ちの整理はついてないけど、頑張って忘れる…」

「……悠人…」

「そんで…メッチャ可愛い彼女作って、トキさんに見せびらかしてやる」


 望みを抱き続けられるほど俺は強くない。

 こんな辛いだけの想いは、今ここで弔った方がいい。

 そしてまた、トキさんが店に来た時にはいつも通りの顔をして迎え入れられるように。

 今はまだ痛む身体を、優しい親友の腕の中で癒させてもらう。

 慰めるように抱き寄せてくる村田の腕に感謝しながらもそろそろ離れようと身体を揺らした矢先、肩に手がかかった。

 余りに突然のことで、涙を拭う間もなく反射的に顔を上げると、そこにはまだ会いたくないと思っていた男が立っていた。

 外灯の逆光で良く顔は見えなかったけど、肩に食い込むほど力を込められた手にまた涙が滲みそうになる。


「…何してんだ」


 俺に腕を回していた村田も、突然現れた存在感のある男に呆然としている。

 二人して固まっていた俺達に焦れたのか、トキさんは強引に俺の腕を掴んで力付くで立ち上がらせた。


「ちょ、トキさんっ!?」


 未だに目を真ん丸にして屈んでいる村田を置き去りに、抵抗しようにも振り解くことが出来ないほど強く手首を掴んだ状態で歩きはじめるトキさんに、不本意だが俺はついていくしかないようだ。

 路地裏から出てネオンが煌めく夜の街を、持ち前の長い足でガンガン歩いていくトキさん。

 高そうなスーツ姿の派手な男に引っ張られるバーテン風の平凡男…という異様な光景に、擦れ違う人々が好奇の目を向けてくる。

 中には知り合いもいたらしく、挨拶の言葉をかけてくる男女をトキさんは完全に無視したまま足を止める気配すらない。

 手首に食い込むほどきつく掴んでいるのがトキさんの手だというだけで、俺の鼓動は簡単に跳ね上がってしまう。

 混乱した頭ではトキさんがこれから何処に行こうとしているのかも、何を考えているのかも全くわからない。

 俺はただ前を歩く広い背中を見上げ、置いて行かれないようによろける足を必死に動かすことしかできなかった。




 ***




 薄暗い部屋。

 壁には大きな棚が取り付けてあって、まるでインテリアのように卑猥な玩具が並べられている。

 天井からは滑車伝いに鎖が垂れ下がり、座り方さえわからないような椅子が隅の方に置いてある。

 部屋の中央には存在を誇示している、黒いシーツに覆われた大きなベッドが鎮座していた。

 無理矢理連れて来られた場所は、どうやらトキさんが経営しているというSMクラブの一室らしい。

 禍々しい部屋の作りに呆然と立ち尽くしていた俺だったが、背後のドアが閉まる音に我に返った。


「……何を、していたんだ…」


 地を這うような低く掠れたトキさんの声に、俺の身体は簡単に動けなくなってしまう。


「…痛っ!」


 肩を掴まれたと思った次の瞬間、背中に衝撃が走った。

 目の前には、見たこともないほど怒りをあらわにしているトキさんの顔が迫る。

 背中には冷たい壁の感触。

 どうやら一向に振り返らない俺を、トキさんが力任せに壁に押さえ付けたらしい。

 片手を俺の顔近くの壁につき、もう片手で肩を痛いくらいに掴んでいる。


「あの男は誰だ」


 息が触れ合うほどに顔を寄せ、再度トキさんが問い掛けてくる。

 その目は怒りに燃え、睨み付けるように俺の顔を見下ろす。

 何故俺がこんな仕打ちを受けなくちゃならないんだ…


「その顔、泣いてたんだろうがっ」


 涙を拭う暇さえ与えられなかった俺の顔は、きっとぐしゃぐしゃでさぞかし酷い有様だろう。

 誰のせいで泣いていたと思ってるんだ。

 誰のせいで村田に慰められたと思ってるんだ。

 明日からは普通に話せると、話さなきゃいけないと決心した途端、なんでこんなことをするんだ…

 握り締めた拳が震え出す。


「昨日だって勝手に帰りやがって、お前何様のつもりだ!」


 途端、目の前が真っ白になった。


『…ミコトか』


 昨日のラウンジで、トキさんはミコトさんの名前を口にした。

 俺なんか一度だって呼ばれたことはない。


「……アンタ、こそ…」

「…あ?」

「アンタこそ何様なんだよ!」


 弔ったはずの想いが込み上げてくる。

 厳重に蓋を閉めたはずの棺が音を立てて崩れ、自覚したばかりの醜い激情が溢れ出す。

 一旦口を開いてしまえば、後は止めることが出来なかった。


「アンタにはミコトさんの他にも、たくさんのお相手がいるんだろ!? 何で俺が責められなきゃいけないんだ!」


 突然言葉を荒げはじめた俺に驚いたのか、トキさんは目を見開いて動きを止めている。


「まだ俺は仕事中だったんだぞっ、なのにこんな怪しいところまで連れて来やがって…!」


 脳裏にミコトさんの顔がチラつく。


「…アンタ、俺まで調教する気かよ? こんな平凡相手にするなんて、ドSの上に変態だな、……ッ!」


 引き攣った頬で無理矢理嘲るように口の端を持ち上げた瞬間、大きな掌で顎が軋むほど掴まれた。

 鈍い痛みに顔を歪ませる間もなく、荷物のように抱え上げられそのままベッドに放り投げられる。

 その余りに唐突過ぎる行動に、咄嗟に身体を動かすことも適わない。

 足と腕を押さえ付けながら覆い被さってくるトキさんの重みが、俺の混乱に拍車をかける。

 衝撃に閉じていた瞼を押し上げると、先程とは打って変わって何の表情も浮かべていないトキさんがいた。


「…調教、してやろうじゃねぇか」


 底冷えするような目で見下ろされ、そこで俺は初めて自分の失言に気が付いた。

 慣れた手つきで俺の手首を革の枷で拘束し、あっという間にベッドヘッドに括り付けてしまった。

 慌てて抵抗しようとしても腕は上げた状態から動かすことは出来ず、足にはトキさんが跨がっているためびくともしない。

 ゆっくりとトキさんの手が伸びてくる。

 両手が俺のカッターシャツに触れた矢先、そのまま強い力で左右に引っ張られボタンが弾け飛んだ。

 布を裂く高い音に、俺は未だ現実を受け止められずにいた。

 ベストも無惨に引き裂かれると、あらわになった俺の胸をトキさんの指が上から下へとなぞる。

 思いの外熱い指の感触にぞくりと背筋を震わせる俺の様子を、何の感情も示さない冷めた目が見下ろしている。

 トキさんの上半身が動き、壁に掛けられていた何かを手に取った。


「―――ッ!」


 すんなりと細いそれは、恐らく鞭と呼ばれるものだろう。

 途端に顔色を無くした俺を気にすることもなく、トキさんは手に持った鞭の先端で嬲るように剥き出しの脇腹を撫でてくる。

 怖い…

 いつ振り下ろされるかわからない鞭が怖いんじゃない。

 いつも意地が悪そうに笑っていたトキさんの、余りに冷めたその眼差しが何よりも怖い。

 恐怖で声を上げることさえ出来ない。

 指先から冷たくなっていくような感覚に、知らず身体が震えはじめる。

 不意に音を立てて鞭が振り上げられた。

 次に来るだろう衝撃に息を止めて目を閉じる。


「……っ、ヒッ!」


 耳のすぐ近くで鈍い衝撃を感じた。

 何が起こったかわからない俺は、そろそろと目を開く。

 顔のすぐ横、鞭を持った拳が枕に減り込んでいた。

 俺の胸元には、何故かトキさんの顔が埋められている。


「……トキ、さん…?」

「出来る訳がないだろ…っ」


 噛み締めた歯の隙間から呻くように呟かれる声。


「お前相手に、プレイなんか出来る訳がない…」


 その言葉を聞いて、胸がギシリと音を立てる。


『トキさんにとって、悠人くんはプレイ対象外なんだろうね』


 怒りに任せて煽ってはみたけれど、俺には無理だった。

 きっとそれは、トキさんにとっても同じだったんだろう。

 最後の抵抗とばかりに無駄に足掻いてみたものの、結果はこの有様だ。

 首にかかるトキさんの髪がくすぐったい。


 今はそれさえも愛しく感じてしまうけど、これで本当に諦めることが出来る気がする。


「…トキさん、俺…」


 せめて最後に想いを告げたい。

 だけどそんな言葉を押し止めるように、トキさんの腕が痛いほどに俺を抱き締める。

 背中に回る力強い腕の感触と、鎖骨にかかる吐息に思考が完全に停止してしまった。


「…え、あ…、あの…」

「……好きなヤツ相手に、SMなんか出来る訳ねぇだろ!」


 ………え?

 今度こそ本当に頭が真っ白になった。

 胸元で怒鳴られては聞き間違えるはずもないが、それは余りにも想像だにしていなかった言葉で…


「な、何言ってるんですか! だって…トキさんはドSで、しかも調教師でしょ? 好きな人だったら余計にイジメたいんじゃないんですか!?」


 酷い混乱のせいで何故か喧嘩腰になってしまった俺の言葉を聞くと、突然ガバリとトキさんの上半身が離れた。

 俺の腹を跨ぐようにして座っているトキさんの顔が険しく歪められていく。


「おい、もしかしてお前…SMのこと、わかってないんじゃねぇのか?」

「それくらい知ってます! Sはイジメるのが好きな人で、Mはイジメられるのが好きな人です!」


 馬鹿にしたようなトキさんの物言いにカチンときて、俺は声も高らかに答えてやった。

 それなのに、トキさんの顔が更に険しさを増していき、仕舞いには大きな溜息までつきはじめた。


「やっぱりわかってねぇ…」

「なっ、何が違うっていうんですか!」

「何もかもだ。いいか、そもそもSMに本番行為は存在しない」


『本番行為』がわからないほど俺は子供じゃないつもりだけど、トキさんが言いたいことがいまいち良くわからない。

 露骨に顔をしかめる俺に気付くと、トキさんはまたひとつ息を吐き出した。


「Mはどんな命令でも喜んで従わなきゃならねぇし、拒否権もない。だけど、SはそんなMに奉仕している存在だ。常に怪我をしないよう、窒息しないよう、Mの身体を気遣って飽きがこないように様々な趣向を用意しなきゃいけねぇ。元が貴族の遊びだから、教養がねぇ奴には出来ないプレイなんだよ」


 トキさんの口から飛び出すSとMの説明は、俺の先入観とは掛け離れていた。


「調教師の仕事はMに犬だという自覚を持たせて、尚且つ飼い主達の要望通りに身体を仕上げることだ。俺達にとって、Mは愛玩動物なんだよ。わかったか?」


 トキさんが前にしていた仕事についてもぼんやりと理解できたし、俺の知識が間違っていたこともわかったけど…


「それと本番行為と、何の関係が…」

「……犬相手に本番したら獣姦になんだろうが。だからだ」


 SMは奥深い…

 そこまで人間を犬だと思えるトキさんが、俺には同じ人間だと思えない。

 頬を引き攣らせている俺を見下ろしたまま、トキさんが口の端をゆっくりと持ち上げた。


「わかったか? SとMはあくまでも飼い主と犬だ。そこに恋愛感情なんて端から存在しねぇ。だから、好きな奴に調教なんて出来る訳がねぇんだよ」


 そう言って笑ったトキさんに、俺の鼓動は簡単に跳ね上がる。

 また…好きって、言った。

 やっぱり聞き間違いでも勘違いでもない。

 トキさんは俺が好きなんだ。

 途端に込み上げる安堵や喜びや戸惑いに、言葉の前に涙が出てしまった。

 縛られたままの腕ではそれを拭えず、こめかみを伝っていく雫を止められない。


「何泣いてんだ。…やっぱりお前は、あの男が好きなのかよ…」


 両手で俺の頬を包み込みながら、トキさんの表情が目に見えて曇っていく。

 俺は唐突に出たあの男という人物が思い当たらず、困り果ててしまった。

 それをトキさんがどう受け取ったのか、一瞬唇を噛んだかと思えばまた睨むように視線を鋭くして俺を見下ろしてきた。


「あんな男、やめろ。俺の方が顔も良いし背も高いし金も持ってる。お前が望むなら酒だって家だって何だって買ってやるし、身体だって満足させてやる」

「いや、そうじゃなくて…」

「そんなにあの男がいいのかよ…っ、俺より…そいつを選ぶのか…?」


 何で今日のトキさんはこんなにも余裕がないんだろう。

 そして、何でこんなにも俺の心を激しく揺さ振るんだ…

 諦めようとしていただけに、トキさんの言葉が嬉しくて仕方がない。

 後から後から流れてくる涙を丁寧に拭ってくれるトキさんの掌に頬を擦り付けて、俺は今出来る精一杯の笑顔で不安に揺れている切れ長な瞳を見上げた。


「好きです、トキさんが」


 あれだけ躊躇われていた言葉が、すんなりと口を突いて出てきた。

 余程俺の告白が予想外だったのか、トキさんの目が丸くなっている。

 その姿がちょっと可愛いと思ってしまった俺はきっと重症だ。

 やっと驚きから我に返ったらしいトキさんが、また俺の背中に腕を回して力いっぱい抱き締めてきた。


「…っ…馬鹿がっ、そういうことは早く言え…!」


 いつものように悪態をついているトキさんだけど、そのきつい抱擁が愛情の大きさを物語っているような気がして。

 俺もその背に腕を回して思い切り抱き締めたい。

 未だに手首を戒めている枷を外してもらおうと口を開いた瞬間、熱い掌で脇腹をなぞられ同時に首筋を舐め上げられてしまい、ビクッと身体が硬直する。


「ぅっ、わ…ッ、ちょっと、トキさん!」

「……もう我慢できねぇ…んなそそる格好してる、お前が悪い」

「アンタがしたんでしょうが! うわっ、ど、どこ触ってんですか!」


 上擦った声で囁いてきたかと思えば、俺を片手で抱き締めたままいきなりスラックスの上から股間をなぞりはじめる。

 あぁ、これはヤバイ…

 首筋を這う舌は時折肌を吸い上げながら、今はいやらしい水音を立てて耳朶を弄っている。


「やめて、ください…! くっ…嫌、だ…」


 まだキスどころか俺の名前すら呼んでいない段階で、この先の展開に進むのはいくらなんでも早過ぎる。

 必死に抵抗しようと身体をよじるけど、体格差のせいかものともせずに行為を続けようとするトキさんは、いつの間にかすでに俺のベルトを外していた。

 性急に下着ごとズボンを下ろされて、まだ反応を示していない俺のペニスがあらわになる。

 その余りの恥ずかしさに足を曲げて隠そうとするけど、トキさんの身体が足の間に割り込んできてそれを阻む。


「なんで萎えてんだよ」

「この状況で勃つわけないでしょ!」


 何故か不服そうなトキさんを睨むように見上げるが、俺は見てはいけないものを見てしまった。

 上半身を起こしベッドの上で膝立ちになっているトキさんの股間は、すでにテントを張っていた。

 しかも、まだ服を着たままだというのにその状態でもわかるほどかなり、その、デカイ…


「……何、勃たせてんですか…」

「今まで何回お前で抜いてきたと思ってんだ。目の前に生身の身体があって、勃たないわけねぇだろ」


 あぁ、どうしてこの人はこんなにもズルイんだろう。

 好きな人に強く求められて、嬉しくない人なんていない。

 それまで暴れさせていた身体から力を抜き、俺は諦めたように眉尻を下げて溜息をついた。


「…わかりました。俺も男です、潔く覚悟します」

「じゃあ、早速…」

「その代わり!」


 今にも股間に伸びそうになるトキさんの手を窘めるように、殊更言葉尻を強めた。

 どうしてもこれだけは譲れない。


「俺の名前、呼んでください」


 トキさんの顔が強張っていく。

 今更名前を知らないくらいで怒ったりしない。

 ここで名前を聞いてくれて、それを口にしてくれれば俺はもう満足だ。

 男同士は初めてだけど、名前を呼んでくれさえすれば決心が付く。


「…トキさん」


 促すように名前を呼ぶと、弾かれたようにトキさんは覆い被さって俺の顎を掴みそのまま噛み付くように唇を合わせてきた。

 咄嗟のことで開いたままの唇の隙間から、熱い舌が滑り込み口腔を舐め上げていく。


「…んっ、は…トキ、さ…ンッ」


 はぐらかされた。

 そんなに名前を呼ぶのが嫌だったのか…

 舌を吸われ唇を噛まれる度に肌が粟立つほど甘い痺れが走るけど、俺はその強引な行動に涙が出そうなくらい悔しかった。

 最初にしたキスが俺を黙らせるためのものだなんて、あんまりだ。

 角度を変え呼吸すら飲み込もうとするような激しい口付けに、段々と頭が朦朧としてくる。

 しばらくしてからやっと唇が離されて、また抱き締められた。

 荒くなった呼吸を整えるように空気を貪る俺の耳元で、トキさんが押し殺した声で呟く。


「…んな、可愛いお強請り…反則だろ…っ」


 ギュウッと抱き締めてくる腕の強さに骨が軋みそうになるが、それよりもトキさんの切羽詰まった声が気になって俺は黙って続きを待った。


「………悠人、愛してんぜ」


 甘い声に鼓膜が震えた。


「…名前、知ってたんですか…」

「当然だろ」

「だって、今まで一度も…」

「…うっせぇな。これからはいくらでも呼んでやるから、もうそれでいいだろ」


 背中に回した腕をゆっくりと解きながら、トキさんが突き放すように乱暴な言葉を使う。

 だけど、身体を起こしたトキさんの耳が赤くなっているのを俺は見てしまった。

 嬉しい。

 名前を知っていてくれたのも、知っていたのに照れて呼んでくれなかったのも、トキさんの想いが伝わってくるようでメチャクチャ嬉しい。

 それが顔に出ていたのかヘラヘラと笑う俺を見て、トキさんが仕返しとばかりに強く抱き締めてきた。


「ぅわっ、トキさん、いきなり…」

「時史。本名は藤沢時史だ」

「とき、ふみ…さん」

「さんはいらねぇ」


 一方的に名前を口にしたかと思えば、背中に回していた手がいつの間にか尻を揉みはじめている。


「ちょっ、俺は素人なんだから…その、優しくして、下さい…っ」


 俺が話してるっていうのに、時史さんは俺の耳に舌を這わせることに夢中だ。

 この分だと聞こえていない可能性がが大きいだろうか。


「悠人、スゲェ可愛い…」


 そして案の定立て続けに攻め立てられた俺は、翌日歩くどころか起き上がることすら出来なかった。

 好きな人にはSになれないんじゃなかったのか!?


 この嘘つきドS野郎!!




 ***




「…え? 悠人くんは僕が意地悪言ったと思ってたの?」


 グラスに氷を入れて烏龍茶を注いでいると、カウンターに座っていたミコトさんが不満げな声を上げた。

 まさか時史と付き合うことになるなんて思ってもみなかった俺は、まだ実感としては薄かったけど店に入ってきた瞬間ミコトさんに見抜かれてしまった。

 どうやら幸せオーラなるものが出ていたらしい。

 ミコトさんの言葉には散々傷付けられたけど、時史への想いを自覚出来たのは彼のおかげだ。

 そう思って打ち明けたのだが…


「酷いよ、悠人くん。僕は二人が両想いだって気付いたから、悠人くんはトキさんにとって特別な存在なんだよって教えに来たのに…っ」


 コースターと共にグラスを置くと、まるでやけ酒を煽るようにミコトさんはグラスを空けていく。

 そう、あれだけ憎く思っていたミコトさんは、実はとてもいい人だったのだ。


「スミマセン…俺はてっきり、釘を刺されたのかと思って…」

「釘…? あぁ…元犬だなんて言ったから、僕がトキさんに想いを寄せてるって勘違いしちゃってたんだね」


 俺が勝手に思い違いしていたのに、ミコトさんはちょっと拗ねたように言うだけで怒ったりはしなかった。

 本当に純粋な気持ちで俺を心配してくれていたのだと思うと、何度謝っても謝りきれないくらいなのに…ミコトさんはメチャクチャいい人だ。

 空になったグラスにまた烏龍茶を注ぐと、その手をすんなりとした長い指に包まれる。

 顔を上げると、何故かミコトさんが嬉しそうに笑っていた。


「トキさんが調教師を辞めちゃったのは、僕のせいなんだ」


 また、笑顔でとんでもなく俺を傷付けてくる。

 だけど、慰めるように包まれた手のおかげで、今回は冷静に話を聞けそうだ。


「犬として預けられたはずの僕が、トキさんに心酔する余りSに目覚めちゃってね」

「……は?」

「おかげで初めて依頼を失敗してしまったトキさんはやけ酒。で、急性アルコール中毒になりかけた時、助けてくれたのが悠人くんだったんだよ」


 あれ?

 確か酔っ払いに絡まれてた俺を、時史が助けてくれたのが二人の出会いじゃなかったっけ?


「1年も前の話だし、悠人くんは覚えていないかもね。だけどその時、トキさんは君に一目惚れしちゃって調教師を辞めたんだ。あ、これじゃ僕じゃなくて悠人くんのせいで辞めたことになっちゃうね」


 ミコトさんの話では、調教師を辞めた時史はオーナーという自由が利く立場を生かし、隙さえあれば俺を探して街中を徘徊していたらしい。

 知らなかった…

 あの時史がそんなに前から俺のことを想ってくれていたなんて。

 嬉しさが顔に滲んでしまっていたのか、ミコトさんの顔も柔らかく綻んでいる。


「だから、僕になんかヤキモチを妬く必要はないよ。こう見えても、今は敏腕調教師で通ってるからね」


 ウインクして見せるミコトさんが何だか物凄く男前に見えて、俺達は二人して笑い合った。


 ―――カランッ


 鐘の音を響かせて現れた噂の男は、俺達を見た瞬間一気に機嫌が悪くなったようだ。

 よくよく考えると、手を握られた状態でニコニコと笑い合っていたらあらぬ誤解を招いても仕方がないかもしれない…

 慌てて手を離そうとするけど、ミコトさんの手が強さを増してそれを許そうとしない。


「あ、噂をすれば色男の登場だね」

「何してんだ、ミコト。そいつは俺だけのもんだ」


 つかつかと歩み寄ってきたかと思えば、俺の手に重ねられていたミコトさんの腕を引き剥がした。

 どうやら俺の恋人は偉そうなだけじゃ飽きたらず、とんでもなく嫉妬深いらしい。

 困ったようにミコトさんを見ると、実に楽しそうな笑顔で返してくれる。

 この人は本当にSなんだろうな…いかにもいじめっ子な顔をしている。


「おい、悠人」

「なに…っ…んぅ!」


 呼ばれるままに振り向くと、後頭部を押さえ付けられて唇を塞がれた。

 ここは職場で、まだ客はいないし店長達も控室にいるけど、ミコトさんがばっちり見ている。

 当たり前のように時史の舌が俺の舌を絡め取り、零れ落ちそうになる唾液を啜っていく。

 引き剥がそうと時史の胸を押すけど、そんな抵抗さえも後頭部を掴む腕に阻まれてしまう。

 互いの間にあるカウンターが腹に食い込んでかなり苦しい。

 身体を支えるようにカウンターについた腕から力が抜けそうになった頃ようやく離れた唇が、今度は耳元へと寄せられた。


「俺以外に笑いかけんじゃねぇ」


 甘い声にドキドキと胸が高鳴る。

 いつの間にか時史はカウンターの上に腰掛けて、俺の身体を両手で抱き締めていた。

 鼻孔を擽る甘い匂い。

 時史の肩越しには呆れたように笑うミコトさんが見えるけど、今はまだもう少しこのままで…




 ドSで元調教師で、人間を平気で犬扱い出来てしまう鬼畜な人だけど、俺の前でだけは独占欲剥き出しの可愛い人。

 SMは恋人としないと言っていたけど、あの様子だと道具くらい使ってきそうな予感はする。

 だけど、それはまぁその時に考えればいいだろう。

 今はとにかく、この気持ちを伝えるのが先決だ。


「時史、大好き」

「当然だ。何せ俺がこんなに愛してやってんだからな。もう逃がさねぇぜ、悠人…」


 一先ず俺は幸せだ。




【end】

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ