第1話 別れと始まり
高校の廊下で、俺の彼女である宮崎美咲に呼び止められた。
美咲はいつもとは違う、何かを決意したような表情で立っていた。彼女の瞳にはいつもの輝きがなく、少し遠くを見ているようだった。彼女の唇は固く結ばれ、言葉を選ぶかのように少し間を開けて話し始めた。
「優矢、ちょっと話があるの」
美咲が切り出した。彼女の声にはいつもの明るさがない。何か嫌な予感がした。
俺は静かにうなずいた。
「実はね、もう別れた方がいいと思うの」
彼女は言った。彼女の言葉が重く俺の心にのしかかる。別れ?なんで?
彼女が「別れたい」と言った瞬間、その声は震えていた。彼女の目は悲しみを秘めており、言葉を発する度に、彼女の眉間にはわずかなしわが寄っていた。彼女は何度か口を開いては閉じ、言葉を選ぶのに苦労しているようだった。
「どうして?」
俺は尋ねた。
美咲は少し間を置いてから、ため息をついた。
「優矢はいい人だし、楽しい時間もたくさんあったけど、私たち、考え方が違いすぎるのよね。あなたって、いつもサッカーのことばかりで、他のことには無頓着だし……」
俺は彼女の言葉に反論しようとしたが、言葉が出てこない。
彼女は続けた。
「それに、あんたってちょっと……暑苦しいのよ! うざいっていうか……」
その言葉にはちょっとショックを受けた。暑苦しい? うざい? 俺が?
俺は黙ってうつむいた。何を言っても、彼女の気持ちは変わらないだろう。
美咲の言葉が耳に入っても、すぐには意味が理解できなかった。まるで冷水を浴びせられたような衝撃が、全身を駆け巡る。心臓の鼓動が耳の奥で響き、一瞬、時間が止まったように感じた。
「別れたい」
――その一言が、何度も頭の中で反響する。俺たちの時間、笑った日々、共有した秘密…それらが、一瞬にして色褪せていくようだった。
彼女の声は遠く霞んで聞こえる。なんで?どうして?自問自答が頭を駆け巡るが、答えは見つからない。ただ、彼女の言葉の一つ一つが、胸に深く突き刺さる。
彼女の目を見ようとしたが、できなかった。見たくなかった。その目に映るのは、もう俺の居場所がないという現実。信じたくなかったけれど、彼女の目には確かな決意があった。
「ごめんね」
彼女のその言葉が、最後の一撃だった。何も言えず、ただ立ち尽くす。言葉を失い、感情も乱れる。心の中は混乱と失望でいっぱいだ。
彼女は去っていく。俺はその背中を見送るしかなかった。何か言わなければと思いつつ、言葉は出てこない。ただ、胸の奥がじわじわと痛む。
一人残された俺は、しばらく呆然と立っていた。でも、悩んでいても仕方ない。俺は深呼吸をして、気持ちを切り替えた。
彼女が去った後、俺はしばらくその場に立ち尽くした。周りのざわめきが徐々に戻ってきても、全てが遠く感じられた。失ったものの大きさが、徐々に現実として重くのしかかってきた。
気がつけば、足を動かし、無意識のうちにサッカー場に向かっていた。ボールを蹴ることで、この感情の混乱から逃れようとした。走りながら、自分を奮い立たせようとしても、心の中はまだ彼女の言葉でいっぱいだった。
グラウンドでボールを蹴る足は重く、いつものような軽やかさはなかった。でも、ボールを追いかけるうちに、少しずつ心の中の痛みが和らいでいくのを感じた。サッカーだけが、この時の俺には唯一の救いだった。
「まあ、確かに汗くさいのは俺の悪い癖かもしれないな! サッカーの練習でもしようか」
自分に言い聞かせる。
サッカーボールを蹴りながら、失恋の痛みを癒やそうとした。少しでも前を向こうと思った。
別れた後、ぼんやりとした頭でグラウンドに向かった。サッカーの練習をするしかなかった。ボールを蹴りながら、何とかこの痛みを忘れようとした。少しでも前を向くために。
でも、俺の目に飛び込んできた光景に、心が凍りついた。美咲が、他の男と一緒に歩いているところだった。その男は、なんと同じサッカー部の先輩。彼らは楽しそうに笑いながら、話していた。
その瞬間、俺の中で何かが弾けた。ただの嫉妬ではない、深い裏切り感が湧き上がってきた。俺たちが付き合っていた間、美咲はあんな風に俺と笑ったことがあっただろうか。
「ちくしょう……そういうことか!」
俺は小さく呟いた。喉の奥が熱くなり、怒りが込み上げてきた。サッカー部の先輩と美咲が一緒にいるなんて、考えたくもなかった。
俺は無意識にボールを激しく蹴り飛ばした。ボールは力強く空を切り、遠くに飛んでいった。その一撃ごとに、心の中の怒りが爆発していくようだった。
美咲と先輩の姿が目に焼き付いて離れない。その光景が、失恋の痛みを一層強くした。サッカーに集中しようとしても、その思いは消えなかった。
サッカー場の隅で一人、俺は怒りと失望でいっぱいになりながら、ボールを蹴り続けた。それが、今の俺にできる唯一の逃避だった。
◆◆◆
中学2年生の頃、美咲は俺に告白してきた。その時、俺はサッカー部のキャプテンとして、チームを全国大会まで引っ張っていた。ゴールキーパーとしての俺は、チームの要だった。サッカーに対する情熱は誰にも負けないと自負していたし、実際、その情熱が結果につながっていた。
全国大会での活躍は、俺を学校での人気者に変えた。まるで映画の主人公みたいに、注目の的だった。そんな中で美咲が近づいてきたんだ。彼女は俺のサッカーに対する姿勢や、リーダーシップを見て、惹かれたみたいだった。
彼女との出会いは、俺にとっても特別なものだった。美咲はいつも俺のサッカーの話を真剣に聞いてくれたし、試合の日はいつも応援に来てくれた。彼女は俺のサッカーへの熱意を理解し、支えてくれる存在だった。
しかし、時間が経つにつれて、俺たちの間には少しずつズレが生じてきた。サッカーへの情熱が高じて、他のことに目を向ける余裕がなくなっていた。美咲と過ごす時間よりも、サッカーの練習や試合の方が優先になっていた。
美咲が「別れたい」と言った時、俺はそのズレを痛感した。サッカーに全てを捧げた日々が、いつの間にか俺たちの関係を薄れさせていたのかもしれない。彼女が告白してきた当時の俺とは、もう違う何かになっていたんだ。
あの日、美咲が俺に告白した時のことは、今でも鮮明に覚えている。サッカー場の隅で、夕日が地面に長い影を落としていた。
「優矢、ちょっといい?」
美咲の声に振り返ると、彼女は緊張しているように見えた。俺は何かを感じ取りながらも、ただ黙って彼女を見ていた。
彼女は少しの間を置いてから、勇気を振り絞るように言葉を紡いだ。
「優矢のこと、ずっと好きだったの! サッカーに一生懸命なところが、とても魅力的だと思うの」
俺はその言葉に、どう反応していいのか分からなかった。サッカーしかしてこなかった自分、サッカーのことしか考えてこなかった自分。それ以外のことはあまり分からない俺が、彼女に何をしてあげられるのだろうか。
「本当に俺でいいのか?」
俺は照れくさくて、そう尋ねた。不安が顔に出ていたかもしれない。
美咲は優しく微笑む。
「うん、一つのことに情熱をかけるあなたが好きなの」
その言葉には、俺に対する深い理解と愛情が込められていた。
その時の美咲の表情は、本当に暖かくて、俺はその優しさに心を打たれた。彼女の純粋な気持ちに応えたいと思った。俺たちの関係が始まった瞬間だった。
◆◆◆
それでこの仕打ちか。グラウンドに一人、俺は空に向かって「ちくしょう」と叫んだ。声には、失望と怒りが混じり合っていた。サッカーに全てを注いだ俺に、美咲は何を望んでいたのだろうか。
「一つの情熱かける俺が好きじゃなかったのか?」
俺はひとりごちた。俺の情熱が、いつの間にか彼女との間に溝を作っていたのかもしれない。その思いが胸を締め付けた。
「くそやろう……やっぱり俺にはサッカーしかない!」
やけくそになって叫んだ。サッカーボールが、俺にはもう友達であり恋人だ。そう自分に言い聞かせながら、俺はボールを激しく蹴った。
ボールが空を切り裂くたびに、俺の心の中のもやもやが少しずつ晴れていくようだった。ボールはいつも通り俺の足元に戻ってくる。ボールだけが俺を裏切らない。その事実が、どこか心を落ち着かせた。
けれど、心のどこかで、美咲への未練がまだ残っている。サッカーに没頭しても、彼女の言葉が頭から離れない。そんな自分に腹立たしくなった。
やけくそになりながらも、俺はボールを蹴り続けた。サッカーが、この痛みを少しでも癒やしてくれることを願いながら。