第1話 フェンリル転生
俺はもう、限界だった。
朝の四時に起床し、自宅から車で一時間かけて会社へ行く。
そこで終電が終わる頃まで働かされて、そこからまた一時間かけて自宅へ帰る。
ここ一年、一日の平均睡眠時間はすでに三時間を切っていた。
さらに上司からのパワハラ。顧客からの理不尽な要求。訳の分からない手当てが引かれた安い給料。休みは滅多にもらえない。
運転する車が峠道へ差し掛かると、辺りには鬱蒼とした木々が通り過ぎていった。
五十七連勤目を終えた俺の目には、その木々の一本一本が怒声を上げる上司に見える。
そうしてこっくりこっくりと頭が傾き、意識を失いそうになると、俺は慌ててハンドルを掴みなおした。
「まずい……。めちゃくちゃ眠い……。このままだとマジで事故る……。どこかで休んだ方がいいか……」
速度を落とし、改めて暗い峠道に視線を向けると、ちょうど東屋があったので、そのわきに車を止めてベンチに腰かけた。
車の中に置いていたぬるくなった缶コーヒーを一口飲み、峠から見下ろせる街の明かりに目を向ける。
この明かりの中にも、俺みたいにブラック企業で馬車馬のように働かされている人がいるんだろうか……。
そんなことをぼんやりと考えていると、林の方からガサゴソと草木が擦れるような音がして、びくりとそちらへ注意を向けた。
な、なんだ? まさか変質者か? けど、こんな深夜の山中に人なんて……。
そう言えばこの峠道って、事故で死んだ女の幽霊がヒッチハイクしてるとかいう噂がなかったか?
ま、まさかな……。はは……。
不気味な予感を覚えつつも、林の方をじっと見つめていると、そこからぬうっと音の正体が姿を現した。
そのあまりに鋭い目つきと大きな体格に、一瞬猪か何かだと思ってぞっとしたが、よくよく見ればそれは犬に相違なかった。
「な、なんだ……。犬か……」
にしてもでかい犬だな……。それに、やけに目つきが悪いし……。
幽霊とか猪じゃなかったのはよかったけど、あの犬に噛まれるのもごめんだぞ。
向こうがこっちに来る前に、さっさと車の中に戻ろう。
中身が半分ほど残っている缶コーヒーを握り直し、犬を横目にとぼとぼと駐車している車へと戻る。
犬はこちらには一瞥もくれず、そのまま道路の方へ歩き出した。
すると、視界の奥、犬の向こうに見える急な曲がり角から、ゴォォォ、と鈍いエンジン音が聞こえてきた。
その直後、パッと視界いっぱいに光が差し込んだ。
トラックのヘッドライトだ。
犬の姿が、まっくろなシルエットとなって浮かび上がる。
あ、轢かれる……。
カコン、と持っていた缶コーヒーが地面にぶつかる音がして、自分が犬に向かって走り出していることを自覚した。
あれ? 俺、何してんだ?
頭の整理もつかないまま、俺は犬を抱きかかえ、道路のわきへ放り投げた。
直後、猛スピードで迫ってきたトラックが突っ込んできて、俺の体はまるでボロ雑巾のように宙を舞った。
やば……。
これ、普通に死んだだろ……。
つーか、死んだら明日の仕事行けないし……。
……はは。死ぬ間際まで仕事の心配とか、俺マジで根っからの社畜だな……。
あー……。
死にたくないなぁ……。
薄れゆく視界の中で、さっき助けた犬が俺を心配そうに見下ろしていた。
……ま、いいか。
これでもう…………仕事しなくていいし…………。
……あぁ、眠いなぁ……。
…………。
…………。
◇ ◇ ◇
「――う、うーん……」
「あっ! タロウくん、起きた!?」
溌剌とした少女の声で目を覚ますと、目の前に、クルリと巻いたツインテールを揺らし、こちらを見つめている一人の少女がいた。
十歳前後の少女で、フリルのついたピンク色のかわいらしいドレスを着ている。
周囲を見渡すと、さっきまでいた峠道ではなく、クマやら猫やらのぬいぐるみが大量に敷き詰められている部屋の中だった。
どこだ、ここ? 俺、死んだんじゃないのか……?
というかこの子、なんで俺の名前を知ってるんだ……?
混乱していると、少女は小さな両手でクマのぬいぐるみを抱きしめながら、にっこりと笑顔で俺を見つめた。
「やっほー。元気?」
「……えっと……いろいろ聞きたいことがあるけど……とりあえず、ここはどこだ?」
「ここはねー、『転生の間』って言ってねー。現実世界で死んじゃった人を異世界に転生させてあげる場所だよっ。リリーの場合はねー、よい行いをして死んだ人を転生させるのっ!」
「死んじゃった人……? よい行い……?」
「うんうん。そうだよね。謙遜しちゃうよね。タロウくんは狼さんを助けて、代わりにトラックにはねられて死んじゃうくらいいい人だもんね」
「狼? 犬じゃなくて?」
「あはは! もしかして犬だと思って助けたの? あなたずいぶんうっかりさんだねっ!」
「あれ狼だったのか……。そう言えば目つきとか体格とか微妙に犬とは違ったような……。つーか、まだ日本に狼なんていたのかよ……」
何気なく腕を組もうとすると、何故だか両手が動かなかった。おかしいな、そう思って視線を下に向けて腕を見ると、俺は愕然とした。
「な、なんだこれは! おい! どうなってるんだ! 俺の腕が……体がないじゃないか!」
目は見える。
言葉も喋れる。
けれど、自分の体だけがどこにも見当たらず、俺の全身は小さな光の球体に変わってしまっていた。
慌てふためく俺を他所に、少女はあっけらかんと答える。
「残念ながらねー。タロウくんが前使っていた体は、トラックに轢かれてぐちゃぐちゃになっちゃったの」
「ぐちゃぐちゃ!?」
「うんっ! そうだよー。ぐちゃぐちゃのめちゃめちゃ!」
「ぐちゃぐちゃのめちゃめちゃ……」
「けど安心して! 体は新しいのをあげるから全然大丈夫だよっ。それよりも、ほら、この子見て! かっわいいでしょー!」
そう言って少女は、抱えていたクマのぬいぐるみをぐいっと見せつけてきた。
「今はそれどころじゃない! お、俺の体! 俺の体が!」
「むー! かわいいって言って!」
「いや、だから……」
「かわいいって言ってくれないともう説明してあげないよ! ぷんぷん!」
ほんと、なんなんだいったい……。
「……か、かわいい」
「そんなおざなりなやつでなく! もっと心をこめて言って!」
「かわいいです! とてもとてもかわいいです! ……で、俺の体はどうなってる? そもそもお前は誰なんだ?」
「むー……。やっぱりなんかおざなりー。ま、いっか。さっきも言ったけど、体は新しいのをあげるから心配しないで。それと、リリーは女神様だよ! だからもっと敬ってくれてもいいからね!」
リリーと名乗った少女の背中から、荘厳な白い翼が二枚、ぱっと開くように左右へ伸びた。
女神とか本当に存在するのかよ……。
……思ってたより威厳ないな。
「あー! 今失礼なこと考えたでしょー! そういうの感心しないなぁー! 芋虫に転生させちゃうよ!」
「それはマジで勘弁してくれ……。洒落になってないから……」
「うふふ。うそうそ。冗談冗談。タロウくんはねー、特別推薦枠だから安心していいよっ」
「特別推薦枠?」
「そうっ。えっとねー……」
リリーはクマの背中のチャックを開けると、そこからスマホを取り出し、器用に指でタップした。
さすがスマホ。今や女神も愛用してるのか。
「あったあった、これだ。タロウくんが助けた狼のお仲間の……ふぇ……ふぇんりる? っていう神様からのメッセージ。読むよー? ……『我が同胞を守るため、命を賭した彼には我の力を継承する資格がある。よって彼を、次の唯一神候補として推薦する』、だってさー」
「同胞って、あの狼のことか? それに、唯一神候補ってのはどういう意味だ?」
「唯一神っていうのはねー、まー、簡単に言っちゃうと、神様の中の神様。つまり、超偉い人のことだよ。世界を救うも滅ぼすも、思うがまま。それで、その唯一神になれるかもしれない神様たちのことを、唯一神候補って呼んでるんだよー」
「神様の中の神様……? ちょっと待て、それじゃあまるで――」
俺の言葉を遮り、リリーはどこか楽しそうに頷いた。
「うんっ! そうだよ! タロウくんには今から、ふぇんりるっていう神様に転生してもらうの!」
………………は?




