31 兄
結局、美桜さんに声をかけずに家を出て、一人暮らしのマンションに戻った。
寝る前に泣き崩れた美桜さんの姿を思い出して…申し訳なくて…情けなくて、胸が苦しくなった。
先日の水戸が俺に見せた姿のように…思いっきり、謝りたかった。
でも謝まって満足するのは、きっと自分だけ…それは単なる自己満足すぎない。
俺は自分の意思を通すと決めたんだ。
そう思ったけれども、俺はその日、なかなか眠りにつくことができなかった。
****
よく晴れた土曜日。
離婚をすることを報告する、そして今後の計画に必要な情報収集のため、10歳年上の兄、一斗が病院長を務める、そして中学時代に強制入院させられた病院に向かった。
受付で名前を言い、アポイントメントを確認し、院長室の扉を叩いた。
「どうぞ」と部屋の中から声がした。
俺と美桜さんの結婚式以来の対面だから…二年ぶり。
「失礼します」と言い、俺は扉を開けた。
まず一歩入って、俺は兄を見て挨拶した。
「今日はお時間をいただき、ありがとうございます、よろしくお願いします」
兄はスーツの上着を脱いでおり、ワイシャツにネクタイの姿で部屋の中にある応接用の大きなソファの真ん中に座っていた。
「久しぶりだな、座れよ」と向かいのソファを手のひらで指して座ることを勧められた。
俺はソファ横で軽く会釈して、ソファに座った。
「…お前のその立ち居振る舞い…森下に似てきてるぞ」
森下は政治家である父親の側近で秘書だ。
俺は反応せず、何も言わずに兄を見た。
「相変わらず、だな…お前がここに…私に会いに来るなんて…何か理由があるんだろう?いいのか、そういう態度で」
兄は腕を組んで俺に言った。
俺は淡々と言った。
「報告事項を伝えるためにきただけなので」
兄は「報告事項?」と訝しげに俺に聞いた。
「報告は2つあります。1つは妻の美桜と別れることにしました」
兄に全く関係のないことだから、正直、報告しなくてもいいが…我が家の古い慣習で冠婚葬祭にまつわる報告はできる限り、顔を突き合わせて報告するというルールに則って俺は伝えた。
兄は頷いて終わるだけだろう…と思っていたが、その予想に反して…兄は手で口を覆い、考え込むような表情をした。
「…理由はなんだ?」
兄は聞いたが、俺は即答した。
「兄さんに説明する必要ありますか?」
俺の姿に兄はため息をついた。
「…美桜さんが自分から言い出すとは思えない。お前…結婚式終わった直後に衰弱して病院への入院を勧めたのに拒否したの覚えてるよな」
「…」
俺は覚えていたが、何も答えなかった。
美桜さんが自分から言い出すとは思えない?兄が美桜さんの何を知っていると言うんだ、研修医時代に俺を閉じ込めて、医者にどんな方法を使ってでも静かになればそれでいいと許可を与えたのはあなたじゃないか…。
「あの時…病院に美桜さんが来て、入院させないように懇願したのにな…あの様子だと…父の所にも行ったはずだよ」
確かに俺は一度、入院を断った。美桜さんにもその話は伝えた。
美桜さんには『大事な友人が亡くなったから、しばらく一人にしてほしい』と説明した記憶がある。
その裏で美桜さんは頼みに父と兄に話を通していたのか…知らなかった。
でも…俺はだからといって兄に媚びたりしたくなかった。
「だから何だと言うんですか。病院に入院して治せると思ったんですか?私の体を薬でボロボロにしたあなたに…私の選択したことに対する理由を述べる必要はないと思っています」
兄は呟いた。
「…そうだよな、だからこそ、美桜さんならお前を受け入れられると思ったのだがな」
「どういう意味ですか」
その言いっぷりに俺は聞いた。
「へぇ…お前…知らないのか。…まぁ、まともに話せないやつに私も話すつもりはないよ」
兄は少し薄ら笑いしながら、言った。
「兄さん、最近、全く父の所に行ってないと聞きましたよ、理由を当てましょうか」
当初、俺は秘書に日程を確認した際、兄が父の所にいく時にあわせて報告すればいいと思っていた。
だが秘書から帰っていた答えは、この2年間、兄が父の所に訪れることはなく、今後もなさそうだと聞いたのだ。
さらに数年前に遡っても兄は一人で短時間しか訪れることはなかったということだ。
美桜さんと俺は父の希望で半年に一度ほど、父と会食の機会を持っていることもあり、俺はそのことに驚いた。
父が何一つ言わないということは…何か理由がある。
そう俺は思って、兄にカマをかけて言った。
案の定、兄は動揺した。
「海斗…お前…」
俺は続けて言った。
「森下に似てきている…それはそうでしょう。あの家に戻ってこの家のルール、やり方を私に叩き込んだのは森下なのですから」
森下には”政治家の家に生まれたのですから、その時々の状況に応じて言葉を使い分けて生きてください、嘘つきは困りますが、嘘をつかなくても誘導はできますよ”と言われ続けた。
あれから俺はずっとあの家の中で嘘はついていないが、本当のことは何一つ言っていない。
苦々しい顔をしている兄に俺は言った。
「さて、答えてください。どういう意味で美桜さんなら私を受け入れられると思ったのか」
兄は渋々と俺に言った。
「…お前が入院中…、美桜さんもこの病院に来ていたんだ」
「?」
俺は何を言っているのかわからなかった。
入院中とは…俺が12歳ごろの話か…?
「美桜さんの祖母がこの病院に入院していて見舞いで祖母の病室に入り浸っていたんだよ。あのお前が閉じ込められた部屋の近くにな…」
そう言って、兄はため息をついた。
「つまり…私の過去を知っていると…」
俺は首を若干、上向きにして窮屈なワイシャツの襟元を触り、気持ち広げた。
「さぁな、そこまでは知らない。ただ病院でお前と同じくらい噂があったよ。家に帰りたくないから祖母の病室に入り浸る小学生ってな。だからその後、お前と美桜さんの婚約の話を聞いて、理解した上なのかと思っていた。」
だから兄は『美桜さんなら私を受け入れられると思った』わけだ。
俺は美桜さんが言った言葉を思い出していた。
-学生時代に通っていたんですが、ここ毎日、メニューが変わるんですけど、どのメニューも美味しいですよ。
-……祖母の入院中に花を病室に飾っていたので…それから興味を持ちました。
あれは…この病院に通っていた時の話だったのか…。
つまり、美桜さんはあの頃の俺を知っていて結婚した、ということなのか…。
俺はこの病院でほとんど付き合いがなかったからそんな噂があったことすら知らなかった。
そして美桜さんからそんなこと、一切聞いたことがない。どういうことだ…?
俺は疑問を持ったが、ここで俺はもう一つ、兄から情報を得なければならない。
さっと意識を切り替えて、その話題を切り出した。
「…奇遇なこともあるものですね。まぁ、いずれにせよ、兄さんには全く関係のない話ですよ。あともう一つ、報告したいことがあるんです」




