30 ミセバヤ
「お邪魔します」
俺は久々に自宅に戻った。
美桜さんの意向で玄関にはいつも花が飾られていた。
今は玄関脇の棚の上に鉢植え2つほど置かれていた。鉢植えの中から外に茎が伸びて、その茎に丸っこい少し厚い葉をつけて一番先に花の外側は薄い桃色、中心は濃い桃色の小さな花がたくさん咲いていた。
俺が花に目がいったことを美桜さんも察して、「…つい見入ってしまう花ですよね。この花はミセバヤという花です。この前、花屋さんでみつけたのでついつい購入してしまいました」と説明してくれた。
「美桜さんは花をお好きですよね、素敵だと思います」
俺は声をかけた。
美桜さんは微笑んで言いながらスリッパを出してくれた。
「……祖母の入院中に花を病室に飾っていたので…それから興味を持ちました。海斗さん、上着もこちらにかけておきますので、いただいていいですか」
花を飾っているのはそういうことかと俺は納得しながら、薄いトレンチコートを脱いで美桜さんに預けた。
「はい、お願いします」
そして俺は出されたスリッパを履いて、美桜さんとリビングに向かった。
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美桜さんは外が少し寒かったこともあってか、温かいお茶を用意してくれた。
俺と美桜さんはテーブルを挟んで真向いの椅子に座った。
一口、お茶を飲んで俺は言った。
「田辺さんの件、先ほどもお礼言いましたがほんとにありがとうございました」
「…私、先ほども言いましたけど、海斗さんのお役に立てて嬉しく思っています…よ?」
美桜さんは俺を見て、少し微笑んでそう言った。
今から離婚しようとしているのに、なぜこうも美桜さんは落ち着いて穏やかにいられるんだろう。
そんな空気は微塵も感じなかったけれども、…彼女も離婚したかったんだろうか?
俺は前から思っていたが、ますます不思議に感じた。
「…会社で何かありました?」
美桜さんから聞かれた。
先ほど田辺さんが話していた水戸さんが流した噂の件を指しているようだ。
終わったと思っていたが…美桜さんも気にしているようで俺は少し困った。
「…美桜さんには隠せませんね。」
そう言って俺は一息ついて息を整えた。
「…会社で噂が流れてちょっとした問題になったんです。その発端が部下で…私は噂に振り回されたくなくて、なかったことにしました。田辺さんにはわかってしまったようですが…」
美桜さんに…嘘をつきたくなくて、俺は正直に事情を話した。
「…そう、だったんですね。…話してくださってありがとうございます」
美桜さんは頷きながら言った。
俺も美桜さんに不思議に感じたことを言い、そして聞いた。
「美桜さんも、田辺さんへの意見…お子さんの気持ちを大事にしてほしいと話していましたよね、…田辺さんに対してですけど、意見している姿を見て、少し驚きました。…今まで…私との離婚の話では…そんな素振りを見せなかったから。…だから聞いていいですか……離婚の話をした時、なぜ私の気持ちを尊重してくれたんですか?」
美桜さんは俺を見て微笑んだ。
そして聞こえるか聞こえないかぐらい小さな声で言った。
「……それは…海斗さんが初めて私にご自身の意見を伝えてくれたから、です」
俺は聞こえた言葉を頭の中の反芻して、固まった。
「え?」
俺が美桜さんに意見を言ったのは、これが初めて!?
そうだっただろうか?
「…海斗さんは結婚してからずっと私に意見を聞いてくれて…例えば結婚式や仕事、家のこと全て、私の思った通りにしてもらっていましたよ。海斗さん、積極的に家事も手伝ってくださっていましたよね?…だから海斗さんがもし何かを希望することがあったら…その意見はどんな話であっても受け入れようと思ってました」
美桜さんは少し寂しそうに俺に言った。
出張に行く前の自分を俺は思い出した。
確かに俺は何も主張してこなかったかもしれない。
それは…俺が何もかもやる気がなかったからだ。恒星がいないこの世で何をしても何を見ても何とも感じなかったから。
自分に意見もなく、ただ生きている、そんな日々。
まさかその俺の態度を見て、美桜さんがそんな風に思っていたとは…全くわからなかった。
「…そう、でしたか…」
俺は立ち上がって美桜さんの座っている場所まで動いた。
この2年間を悔いている。もっと早く自分の意思を持って行動できたら美桜さんにこんなに気を遣わせることなんてなかったはずだ。…でももう悔いても時間は戻ってこない。
俺は膝を床について、手を膝において美桜さんに頭を下げた。
「美桜さん……結婚してくれてありがとう。こんな俺をずっと…見守ってくれて…」
俺の言葉を聞いて、美桜さんも思いを伝えてくれた。
「私こそ、…結婚してくれてありがとうございました、ですよ。…私、家同士で結婚した、なんて思っていないです。…できれば私が海斗さんの支えになりたかった。でも…私と離婚することで…もっと海斗さんらしく感じたまま、進んでいけるなら…それでいいと思ってます」
俺はそれを聞いて、立ち上がり、座っている美桜さんを抱きしめようとした。
だが、美桜さんは手でそっと拒否を示した。
「…ごめんなさい、私に対する感謝はいらない、です」
そう美桜さんにはっきりと言われた。
俺は美桜さんのその様子に両腕を戻し、ギュッとひじを掴んだ。
「…いや、俺も…ごめん……お茶、ありがとう。帰るよ…」
美桜さんは力なく返事をした。
「…はい」
俺はリビングから玄関に向かう扉を開けて玄関に向かった。
上着を取ろうとした時、こんな終わり方で帰っていいのか、と俺は振り返り、リビングの扉をゆっくりと開けた。そこには、テーブル脇で泣き崩れている美桜さんがいた。




