29 必死の懇願
「田辺さん、こちら、どうぞ」
美桜さんは自分のバックからハンカチを取り出し、田辺さんに渡した。
「ありがとうございます…」
田辺さんは眼鏡を取って目の周りの涙を拭いた。
眼鏡は眼鏡ケースを取り出して、その中にある眼鏡拭きで拭いた。
「…どうですか、お願いすることは可能…でしょうか」
田辺さんは美桜さんに聞いた。
でも、美桜さんは田辺さんの言葉を考えこんでいるようだった。
「…」
俺は田辺さんに聞いた。
「あの…あんまりよくわかってなくて、聞きますけど、親権が奥さんに渡ってしまうかもしれないと思う要因、あるんですか?」
「…そうですね。基本的に虐待でもしない限り、日本では母親が親権を持つ有利な立場にあります。その前提を基本として今、妻と子供は別の場所に住んでいることが大きいのです。子供の面倒を見れる状態であると証明しているようなものなので」
田辺さんは眼鏡を手に持ったまま、説明してくれた。
美桜さんが口を開いた。
「…お子さんは…何歳で、性別、教えていただいても…よろしいですか…」
「…7歳の女の子です」
美桜さんはまた下を向いて、考えこんでいた。
「…難しい年齢ですね」
どういうことだろう?
「15歳以上であれば、本人の意思を確認して進めることができるのですが、年齢が低ければ低いと母親の必要性が高くなっていくんです」
美桜さんは説明してくれた。
「はい…そうなんです」
「…田辺さんの気持ちは重々承知なのですが…私は今、少し考えあぐねています。」
俺は美桜さんの珍しい姿をじっと見た。
今まで肯定的な言葉ばかり聞いていたので、"考えあぐね"ている点が何を指しているのか…神経を集中させて聞いた。
「確かに…親権を得られなければ何も始まらないのですが、…お子さんにとって母親と父親とどちらといるのがいいのか、それが一番、私は…大事だと思っています」
美桜さんはどうも田辺さんの子供の親権がほしいということより、子供にとってどちらがいいのか、それが大事だと言っているようだ。
それに対して田辺さんは大きな声を出して主張した。
「妻は不倫相手と結婚する予定で…その相手に娘は蔑ろにされるかもしれません。…娘は僕にとって大事な血を分けた子供なんです!!」
美桜さんは少し怯んだ。
「…田辺さん、お子さんを愛していらっしゃるのですね。それはすごく感じます。…ただ」
「ただ?」
田辺さんが強く聞き返した。
「……お子さんにとっては、お母さんとお父さんがどんな人であっても大事な親なのです」
美桜さんはゆっくりとはっきりと田辺さんに伝えた。
「……西園寺さん」
急に田辺さんは俺の方を向いて、声をかけてきた。
「はい?」
俺は返事をした。
田辺さんは厳しい表情のまま、俺に向かって懇願してきた。
「…どうしても僕には子供が必要なんです!親権を得ることができるのであれば何だってします!!…この手は使いたくなかったんですけどね、私、先日の噂の出処に気が付いてしまったんですよ」
「!?」
水戸が書いた社内掲示板の件をどうも田辺さんは知っているようで、俺は驚愕した。
田辺さんは俺に鋭い視線を向けて、「どうします?あの問題の話を元に戻すか、弁護士を紹介するか」と言った。
美桜さんも大きく目を開いて、俺を見た。
俺は少し焦ったがその気持ちを隠して、そして田辺さんが指摘した噂には触れずに話を元に戻した。
「…田辺さんはどうしてもお子さんの親権を得たいという気持ちはわかりました。…美桜さんも思う所はあるのはわかりました」
俺は努めて冷静に今の状況を振り返りながら、どうこの話を進めるのか考えた。
俺は息を少し吸ってはきだした。
「田辺さん…少し、美桜さんに話を聞いてもいいですか?」
田辺さんは目線を下に向けて返事をくれた。
「……はい」
「美桜さん…離婚するに際して両親のどちらかがお子さんの親権を得るわけだから、弁護士事務所の紹介自体は問題ないと思っているのですが、どうですか?…きっと美桜さんが気にしているの…それではないですよね?」
美桜さんに俺は確認した。
これは事務所の紹介に関わらず、美桜さんの個人的な意見なのかもしれない。
「…はい、田辺さんのお気持ちは痛いほどわかります。…私が事務所を紹介する前に、お話したいことはご自身の気持ちと同じくらいお子さんの気持ちも大事にしてほしい、ということです。出過ぎたことをお伝えしていることはわかっています。離婚裁判で勝ち取った親権をその後、変える方もいらっしゃいまして…お子さんの気持ちを思うと居たたまれなくて…」
美桜さんは田辺さんに申し訳なさそうに気持ちを説明した。
田辺さんは美桜さんの言葉を聞いて、「…少し感情的になりました。…奥さんのおっしゃる通り…ですね。離婚裁判はスタートであって、ゴールじゃない、ですよね…」と声を落として話した。
「いえ、うまく伝えられなくて申し訳なかったです。そちらを理解いただければ、私としては紹介することに何も問題ありません」
美桜さんは少し口元を上げて田辺さんに言った。
その言葉に美桜さんの真正面に座っていた田辺さんは美桜さんの手を握り、「え、ほんとですか?…ありがとうございます」と言い、また涙を流し始めた。
それで美桜さんと田辺さんはアポの調整と連絡先を交換し、この飲み会はお開きとなった。
帰り道に田辺さんが俺に「あ…すみません。噂の話」と言ってきた。
「…」
俺は何も言わずに田辺さんをちらっと見た。
情報システム部門のログに残っているかもしれないが、社内掲示板自体には存在しない。
落ち着け、と俺は言い聞かせて田辺さんに言った。
「…何の話、でしたっけ?」
俺は知らない振りをした。
田辺さんは俺のその態度を見て、「…え?あ…いや……何でもない…です」と小さく言った。
ログは多分、あと少しで消えるだろう。そうしたら証拠はもうなくなる。
わざわざバックアップから戻しても情報システム部門にとってあの噂は何の価値もない。
結局、システム対応によって問題を起こしたのは情報システム部門なのだから。
むしろ、薬事部からまた責められるだけでそんなことに時間をかけて対応するとは思えなかった。
俺は少し斜め後ろを歩いていた美桜さんに声をかけた。
「美桜さん、今日はどうもありがとうございました」
「いえいえ、お役に立てたならよかったです」
美桜さんは会釈した。
それをみて、田辺さんは少し慌てて「せっかくの金曜日を潰してしまってすみません」と言った。
「全然、お気になさらず。」
美桜さんは笑顔で田辺さんに答えた。
田辺さんは俺と美桜さんの自宅近くの駅まで一緒だった。
皆で同じ電車に乗った。そのため、全く別行動できずに、俺は結局、美桜さんと一緒に二人の自宅の最寄り駅で降りた。
駅を出てすぐ、俺は聞いた。
「美桜さん、少し家で休んで行っても…いいですか?」
先ほどのお礼も言いたかったし、ここで踵を返して帰るのはちょっと違うと思った。
そうやっていろいろ理由を考えたが…単純に、少し…美桜さんと話がしたかった。
美桜さんはしばらく俺を見た。
何を言おうか考えているようだった。そして微笑んで「…はい、あの家は海斗さんの家でもありますから…」と言った。




