解放者
山羊のような頭部に鋭い瞳と空に向かって禍々しく伸びた2本の角を持つ悪魔は、その燃え滾るような紅く獰猛な体躯を屈し、地面に膝を付ける。
その獰猛な表情は無念の表情を映し始めていた。
「…ベリアルス」
悪魔を『ベリアルス』と呼ぶのは人間の女性の声だ。
ベリアルスがその鋭い瞳に浮かぶ黄色の瞳孔を向けるのは、白銀の髪を持つ乙女であった。
乙女の手には、緑の半透明な刀身の剣が握られており、その剣先はベリアルスへとしっかりと向けられている。乙女の全身は、彼女の髪の色とは正反対の漆黒の鎧に包まれており、鎧の胸の中心には赤い宝珠が備わっている。
「…見事だ」
ベリアルスは息を軽く吐いてから、対峙している白銀と漆黒の乙女へ賞賛を送る。
そして…
「…殺せ」
ベリアルスは白銀の乙女へそう告げると、そっと目を閉じ、今際の時を待つ。
辺りを沈黙が支配する。
しかし、一向に、その時が訪れないことで、ベリアルスは目を開き、目の前の白銀の乙女の表情を窺う。
「…」
白銀の乙女の表情には”迷い“がある。
まるで自分を殺すことに躊躇している彼女に対して、ベリアルスは疑念を抱く。
彼女が敗者を貶めるような人物ではないことをベリアルスは理解していた。そして、自分は人間の達の敵であり、白銀の乙女は人間の味方だ。
白銀の乙女がベリアルスを殺す理由はあるが、殺さない理由は存在しない。であれば、迷いがどこから生じるのか。
考えても理解などできないなら、当の本人へ尋ねるのが道理だろうか。答えてくれるかどうかは別として。
「勇者プラチナよ…なぜ我を殺すことに迷うのか?」
ベリアルスは問う。
白銀の乙女へ、武人としての敬意をもって問う。
人間と魔族の垣根を越えて、ベリアルスは白銀の乙女に武人としての敬意を持って接していた。
「あなたの命をここで奪うことが…果たして正しいのか…それを迷っているの」
プラチナと呼ばれた白銀の乙女は、悲しそうな表情でベリアルスの問いに答え始める。しかし、ベリアルスの抱いている疑問への明確な答えにはなっていない。
「何を迷う?」
「…本当の敵…それが別にあると…そう思うの」
「本当の…敵だと?」
「ええ」
「…我はお前の仲間を大勢殺してきた。そして、お前も、我らの仲間を大勢殺してきた。我はお前の敵であり、お前も我の敵であるはずだ。お前に別の敵がいるかどうかは、我らが敵同士であることに影響しない」
すでに負の連鎖は成立している。
互いに互いを、妬み、怒り、恨み、憎しみ、そして殺しあう。
その連鎖が完成している以上、もはや話し合いで解決する段階はすでに通り過ぎてしまっている。
どちらかが滅びるまで、この負の連鎖は永遠に終わらない。
しかし…
「…違う」
プラチナは目元を潤わせながら、ベリアルスの言葉を否定する。
「何が違う」
「あなたも、私も…殺したくて…殺したわけじゃない。そうでしょ?」
「…」
ベリアルスはプラチナの問いに答えることができないでいた。
「こんなの…虚しすぎるわ」
「…」
「私達は殺し合いを続けるしかないの?」
「そうだ」
「いつまで?」
「互いが滅ぶまでになるだろう」
「貴方は…いいえ、みんなはそれを望んでいるのかしら」
「…」
「私は見てきた。世界を、人々を…もう戦いなんて終わりにしたい。そんな人々で溢れていたわ」
「だが、もはや引き返せないところまで我々は来てしまった」
ベリアルスも戦いは本意でないようだ。辛そうな表情でプラチナへと告げる。
「いいえ!引き返そうとしないだけよ!」
「言葉遊びだ。気持ちがあれば、それでどうにかなるわけではない」
「そうね。その通りよ」
「ならば、議論の余地はないだろう」
「いいえ、あるわ!私達に必要なのは、意思と力よ!」
「意思は…分かるが、力とは具体的に何だ?」
「本当に解決しなければならない問題と向き合うために、私達は協力するべきよ」
「本当に解決しなければならない問題だと?」
「定められた運命、それが問題よ」
「っ!?」
ベリアルスは、プラチナから発せられた言葉に驚愕の表情を示す。
「…まるで何者かによって定められたように私たちは争っている」
「まさか、それに気付いていながら、逆らおうと言うのか?」
「ええ、私達は戦わされている。運命によって戦乱へと導かれている」
「…」
「私達が戦わなければならない相手は…別にいるわ」
そう言ってプラチナは剣を下す。
「なぜ、剣を下す」
「戦う相手に剣は向けるものだからよ」
「…」
「ベリアルス…私もあなたも沢山失ってきた。奪ってきた」
「…」
「奪われたもの、失ったものの多くは戻らない。戻せない」
「…その通りだ」
「お互いに恨みはあると思う」
「…ああ」
「でも、これ以上失わないためにも、私たちは協力するべきだと思うの」
「魔族の勇者と人間の勇者が手を組むというのか?」
「ええ、どう?相手は神様かもしれないし、悪い話ではないでしょ?」
「悪い話ではない?」
「ええ、そもそも、人間と魔族って、意外と利害は一致しているわ。仲良くできる未来はあるはずよ」
プラチナの言葉に、ベリアルスは苦笑を浮かべる。
「利害か…人間らしい考え方だが…そうだな、我らには力が必要だ」
「でしょ」
「時間はかかるぞ。苦難もある。非難もされる。それでも共に進むと言うのか?」
「私が持ちかけた話よ。貴方こそ、覚悟はちゃんとあるのかしら?」
「我は敗者だ。勝者の言うことには従う」
「そういうことじゃなく…いいえ、私に従うなら、本音を話しなさい」
「…戦いを終わりにしたい」
「そう…」
プラチナはスッと右手を伸ばす。その華奢な右手をベリアルスはジッと見つめると、すぐに自分の右手を伸ばし、その手を握り返す。
「交渉成立ね」
「うむ」
プラチナとベリアルスが握手している時だ。2人のいる部屋の扉が開かれる。
2人が視線を部屋の入口へと向けると、そこには緑のローブを纏った老齢の男性、白い衣に身を包むメガネの男性、そして、真っ赤な髪に、真紅の鎧に身を包む女性騎士がいた。
「…やはり、魔族と通じていたのですね…プラチナ様」
真っ赤な髪の女性は、鞘から赤く透明な刀身の剣を抜くと、その剣先をプラチナへと向ける。
「ノエル!?」
「ほっほっほ…様子がおかしいと思っておればのう…よもやよもや」
老齢の男性はニヤニヤと笑いながらも、その手にある杖に魔力を込め始めているのか、その杖が淡い光を帯び始める。
「…残念です」
白いローブの男性は、メガネを指でクイっとさせると、鋭い目つきでプラチナを睨む。
「ノエル嬢…相手はプラチナ、そして、ベリアルス…これはなかなかに厄介な組み合わせですぞ」
「だからと言って、放ってはおけん!!」
「ええ、それに、ベリアルスはかなり弱っている様子、この好機を逃すわけには参りません」
「ほっほっほ!覚悟は十分のご様子じゃな…では、いざいざ」
戦いは避けられなさそうな雰囲気の中、プラチナは剣を抜かずに、3人へ対話を試みる。
「待って!!話を聞いてほしいの!」
「プラチナ様!!弁明の余地などありません!」
「ほっほっほ…我らは一部始終を聴いておりましたからのう」
「神の意に逆らうなど…勇者としてあるまじき行為です」
3人の反応を前に、プラチナは何と言葉を紡いでよいのか分からずに、そのまま口を閉ざしてしまう。
そんな時だ。
「…プラチナ、貴殿は逃げろ」
「ベリアルス!?」
「今の消耗している我らでは、あの3人に敵わない。殺されるだけだ」
「でも!?」
「貴殿は逃げろ」
ベリアルスはそう告げると同時に、ノエル達と自分達との間に、灼熱の炎の壁を生じさせる。
「このようなもので!!我らを阻めると思っているのか!?」
「ほっほっほ!時間稼ぎにしかならんぞ!」
炎の向こう側からノエル達の声が響くのだが、ベリアルスは彼女達の存在を無視してプラチナへの話を続ける。
「これを託す」
そう言ってプラチナへ強引に水晶を手渡すベリアルス
その透明な水晶には「System 」の文字が浮かんでいた。
「これは?何?」
強引に水晶を手渡されたことでさらに困惑しているプラチナへ、ベリアルスはさらに言葉を重ねる。
「運命に逆らうための力になるかもしれない」
「っ!?」
「その適正者を探せ。魔族にはいない。だから、人間にいるはずだ」
「待って!こんなもの!どうやって!?」
自分の言葉に疑問を叫ぶプラチナへ右の手の平を向ける。
「え!?待って!」
彼の手の平から感じた魔力から、何の魔法が自分に放たれるのか察したプラチナは目を見開く。
「やめな…」
ベリアルスの魔法を止めようと腕を突き出すプラチナだが、その腕が彼へ届かぬ内に、パッとベリアルスの目の前からプラチナの姿が消え去る。
ベリアルスはプラチナへ、仲間を別の場所へ転移させる魔法を放ったのだ。
相手が敵対者であれば、強制的に転移させるには大きな力の差が必要だ。ベリアルスとプラチナの間であれば、彼がプラチナを強制的に転移させるのは不可能だろう。しかし、敵意のない相手、それも仲間と認識できる相手であれば、多少の魔力で転移させられる。
そして、ベリアルスはプラチナのいなくなった虚空を見つめながら呟く。
「後は頼んだ…救世主を必ず見つけてくれ」