精霊の花嫁
妹という存在は厄介なものである。
特に顔だけがうり二つな双子の妹というものは。
「メリアンヌ、絶対にバレてはいけないよ」
「もちろんよ、お父様。こんなのバレたらお家取り潰しは免れませんわ。だから早くティターシャを連れ戻して」
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
「顔を上げてお母様。悪いのは全部あの子なんだから。でもなんで今更……」
両親の顔からはすっかり血が抜けてしまっている。カタカタと小さく震えて、罪に問われることに怯えている。私だって両親を落ち着かせるために平静を保っているが、出来ることなら逃げ出したい。けれどそれは許されない。
明日、妹のティターシャは精霊王の妻となる予定だった。
ハイデレンス家に魔眼を持つ女児が産まれた場合は精霊王に嫁に出すーーこれはあの子が生まれるよりもずっと前からハイデレンス家と精霊王が交わした約束だった。そしてティターシャは実に七代ぶりに産まれた魔眼持ちの女児だった。『魔眼持ち』と呼ばれる存在は魔法の流れを目視することが出来る他、契約していない精霊や召喚獣達と対話が出来る極めて稀な存在だ。きっと大陸中を探しても十人といないだろう。その中でも妹は強い力を持ち、琥珀色の瞳は彼女の誇りだった。
ティターシャは選ばれし存在なのだ。
双子でありながら、魔眼どころか魔力すら持たずに産まれてきた私を見下していたのも知っている。闇のような瞳を色持ちと嘲笑う姿は何度となく目にしてきた。取り巻きの令嬢達もティターシャに気に入られようといつだって彼女を持ち上げて、色違いの私を下げてきた。
「あんな色、みたこともない」
「祝福と共に生まれてきたのろいに違いない」
「きっとティターシャ様の力が強すぎたのでしょう」
本心かどうかまでは分からない。長年クスクスと笑われても我慢し続けたのは、私自身、どう思われていても構わないと思っていたから。だって似ているのは顔だけで、性格も髪型もまるで違う別人なのだから。そりゃあ劣っているところの一つや二つあったって不思議でも何でもない。むしろ少し似ているところがあるからこそ、ティターシャは私が気に入らなかったのだろう。だからといって影で悪く言われる程度で、それ以上は何もなかった。
優越感に浸りたいのならば好きなだけ浸っていればいい。
どうせティターシャは十六になれば精霊界へと旅立って、年に一度しか人間界には帰ってこられなくなる。そうすればあの眼を、毎日見ないで済むのだ。彼女は度々私の目を見て眉間をしかめたが、人と違う色をしているのは妹も同じなのだ。祝福だ、のろいだと言い方を変えたところで、二人揃って『普通』から離れていることには違いない。
婚約者すら出来なかった私と、人ならざる者との結婚が約束された妹。
どちらが幸せかなんて誰にも分かりはしない。どちらも不幸せかもしれないけれど悩むだけ無駄というものである。
私はずっと精霊王がティターシャを迎えに来る日を、あの子から逃れられる日を待った。
なのにあの子は直前になって逃げ出した。
『探さないでください』なんて一枚の紙切れを残して。
ティターシャだって貴族の娘だ。
この婚姻がハイデレンス家、ひいてはクシャトリア帝国にとってどれだけ重要なものであるかを理解していないはずがない。精霊王の機嫌を損ねれば、よくてハイデレンス家の取りつぶし、最悪の場合は魔法や精霊に依存しきったこの国が崩壊してしまうことも十分あり得る話なのだ。
いや、理解していたから逃げたのかもしれない。
ある意味、彼女は生け贄のようなものだから。
力関係は圧倒的に精霊王が上で、ティターシャを見つけるまで待ってくれなんて言える訳もない。困り果てたお父様が立てた計画が、顔だけはうり二つである私をティターシャの代役として据えること。
精霊王が花嫁を迎えに来てから一ヶ月ほど花嫁は精霊王の膨大な魔力に身体をならすために帝国が用意した宮殿に住まうことになっている。そして人間界を旅立つ日の前日に初夜を迎える。
出会ってから最低十日間は魔眼を隠して生活する。
魔眼持ちにとって一番多くの魔力を取り込むものが『魔眼』であるためだ。しばらくは精霊王に直接会うことすらない。彼と同じ屋敷で暮らすことでまず身体をならし、通常通りの生活が出来ることを確認した上で、目隠しを外す。その際、魔力酔いを起こす花嫁も多いらしく、さらになれるまで時間をかける。精霊王と対面出来るまで、大体三週間ほどかかるそうだ。
つまり身代わりのタイムリミットは三週間。
私がティターシャの代わりになって時間を稼いでいる間、お父様とお母様がティターシャを探すという。妹が見つかるまでの間、世話役達にもこの瞳を見られてはならない。なんとも大ざっぱで頭の悪い計画だが、そうする他はないのである。
すべては家のため、国のため。
精霊王に色違いの瞳を見られてしまう前に私は宮殿を抜け出さねばならない。
ーーなんて、私は悠長に考えていた。
けれど現実は思い通りには進まないものである。
「ティターシャ、ティターシャっ……。ずっとこの日を、君を抱ける日を待っていた」
目隠しをして宮殿へ入った私を迎えてくれたのは精霊王だった。
周りの制止などお構いなしに、私を横抱きにしたまま宮殿の廊下を闊歩する。しばらく歩いた後でどこかの部屋のドアを開け、柔らかな場所へと私を降ろした。ベッドかソファか。ギィギィと音を立てたそれを確認する事すらできない。
目を隠された私は状況を理解出来ぬまま、伸ばされた手を拒絶することすら許されない。
「ティターシャ、ティターシャ」
何度と妹の名前を呼び、髪を梳く。
けれど彼はそこにいるのがティターシャではないことには気付く様子がない。
幼い頃からずっと大切に伸ばしてきた桃色の髪はティターシャを真似て、肩に揃えて切った。色まで染めた甲斐があったというものだろう。ドレスも精霊王からティターシャに贈られたものを身につけている。ふんわりとしたデザインは普段の私なら絶対に着ない。可愛らしい妹に似合うために作られたもの。
これらは全て世話役達の目をだますためのものではあったが、精霊王相手にもだませるとは思わなかった。
声も出さずに固まっていれば精霊王は髪を梳く手を止めた。かと思えば私の目隠しに指を這わせ、恐ろしいことを呟く。
「魔力酔いした様子はないな。このまま精霊界に連れて行っても……」
冗談じゃない!
頭の中で逃げ出した妹への毒を吐きながら、タイムリミットが短くならない方法を思考する。
けれど抗議の声を出せば、声色が違うことを指摘されてしまうかもしれない。
目の前の彼がどこまで騙されてくれるかは想像出来ないのだ。一歩でも間違えれば家族全員地獄行きだ。
家族のため。
そして国のため。
私は失敗する訳にはいかなかった。
精霊王に手を伸ばし、声も出さずに頬を撫でてから緩く胸を押す。
『あなたに好意はあるが、まだ受け入れられない』
そんな意味に受け取ってくれるといいと願いながら、申し訳なさそうに肩を落とす。すると精霊王はううっと低い声で唸ってから、私の手を撫でた。
「そうだな。強引に連れて行って体調を崩したら困るものな。俺も苦しむ姿は見たくない。なに、十六年の我慢に比べれば一ヶ月なんて短いものだ」
私の気持ちをくんでくれたようだ。
精霊王は私の頭にキスを落とすとゆっくりと離れていった。足音が遠ざかり、ドアが閉められる。それからしばらく経った後に複数の足音がやって来る。
「今日から一ヶ月間、ティターシャ様のお世話をさせて頂きます。トゥーリアです」
「同じくお世話係のキュアラです。どうぞよろしくお願い致します」
「よろしく」
精霊王との対話が先になってしまったが、二人の世話係と対面したことでようやく宮殿の来客として認められたという実感が沸く。高い声の二人は私と同年代の女性だろうか。声だけではなんとも判断しがたい。年齢や容姿はもちろん、私への感情も。社交界に何年も在籍し続けていたが、声だけでは感情を把握することすら難しい。
彼女達に嫌われでもしたら、ティターシャが見つかったとして、入れ替わりが失敗する可能性が高くなる。
精霊王の執着も予想外だったが、これ以上イレギュラーが発生すればただの男爵令嬢でしかない私だけで対処するのは難しくなる。
早く見つかりますように。
目隠しで遮られたまま、何日も何日もそればかりを祈り続けた。
ーーけれど想定外の事態が起きた。
「何、これ……」
十日ぶりに鏡を通して見た自分の姿に思わず目を疑った。
けれど何度瞬きしたところで、見えているものは何も変わらない。夢じゃないかと軽く頬をつねってみたが、痛みはしっかりとある。現実だと分かっても、私は自分の身体に起きた変化を受け入れることが出来なかった。
「ティターシャ様、どうかなさいましたか?」
「い、いえ。何でもないわ」
初めて姿を目にする世話役二人は心配そうに首を傾げていた。
数日間耳にした声で判断すれば、髪の緑の方がトゥーリアで、青い方がキュアラだろう。
くりくりとした瞳で覗き込む彼女達の目に悪意は感じない。けれどここで騒いで精霊王に異変を報告されても困る。軽く笑って「久しぶりに自分の姿を見たから驚いてしまったの」と何でもないように取り繕う。
けれど頭はまだパニック状態だった。
なにせ、私の瞳は琥珀色に変わっていたのだから。
まるで隠している間に色を盗まれてしまったかのよう。
途中で瞳の色が変わるなんてあり得るのか。
思考を巡らせて、そういえば一つだけ例外があったと気付く。
魔術師が精霊との契約を成立させると瞳の色が精霊の髪と同じ色に変わるのだ。色が変わってこそ、一人前と認められるのだとか。ティターシャの取り巻きの一人が以前、琥珀色の瞳は精霊王に愛された証だと言っていた気がする。だが私は精霊王はもちろんのこと、他の精霊との契約も結んだ記憶はない。そもそも私は魔力を持たないので精霊を視認することすら出来ない。そう、声は聞こえるし、触れられれば感覚は残る。けれど私には精霊王の姿すら確認することが出来ないのだ。
「お食事はいかがなさいましょう? 目が慣れてからにいたしますか?」
「そうね。食事はいいわ。飲み物だけ用意してもらえるかしら?」
「かしこまりました。紅茶でよろしいですか?」
「ええ」
「では私は精霊王にご報告しなければ~」
トゥーリアは紅茶を用意するために、そしてキュアラは精霊王の元へ行くために部屋を後にした。
ドアが閉じられ、足音が遠ざかった後でホッと胸を撫で降ろす。光を取り込むことが久しぶりすぎて、まだ目の前がチカチカする。開いたり閉じたりを繰り返しながら、鏡の前を目指す。
「瞳の色はなんで変わっちゃったのかは分からないけれど、とりあえずバレなくて良かった……。髪の色もまだ落ちていないし」
目はもちろん、つむじの辺りの髪色までしっかりと確認する。
ティターシャがいなくなったのは直前だったため、髪染めを手に入れるのも大変で、質や持ちを確認する時間はなかった。妹の桃色の髪は少し色が特殊で、何種類かの粉を混ぜ合わせているのだ。途中で色が浮いたり、落ちたりしないかと心配だったが、どうやら自然と馴染んでくれたらしい。この様子だとタイムリミットまでは持ってくれそうだ。
目隠しが外れたことと、瞳の色が変わったことをお父様に連絡しないと。
レターセットは確か引き出しに入っているって言ってたっけ?
実家から持ち込めるものは最低限になっており、その中でも申請が通ったもののみが運び込まれた。リストを書いて提出したのはティターシャなので、何があるのかまではちゃんと把握していない。だがレターセットはあったはず。ベッドの近くに用意してあった机の引き出しを順番に開けていけば、二段目に妹が愛用していた便せんと万年筆があった。柄の部分には小さな花が彫られており、複数の色まで入れられている。普段ならティターシャは自分のものが人に触れることすら許さない。私だって愛用している木の柄のものが手にしっくりと馴染むため、使おうとは思ったことがない。
「ペンくらい自分のものを持ち込めば良かったわ……」
呟きながら、仕方ないと自分を納得させる。
後で文句を言われるかもしれないが、逃げ出したあの子が悪い。それに万年筆くらい精霊王に新しいものをねだれば良い。飲み物を持ってきてもらって、目が十分になれたら書き始めよう。便せんの枚数だけ確認して、仕舞われた場所に戻した時だった。
「手紙を書くのか?」
「ええ。実家に……って精霊王!?」
ドアの開く音はなかったが、背後からは確かに精霊王の声がする。
恐る恐る振り返ってはみたものの、やはり私には彼の姿は見えなかった。
「精霊王、お待ちください。先ほど目隠しを取られたばかりでまだ完全に身体が慣れておられませんので……」
「瞳の色だけ確認したらすぐ戻る。ティターシャ、こっちに顔を見せろ」
見せろと言われても、彼がどこにいるのか分からない。
今だって声のする方向に顔を向けているつもりなのだが、一体どこにいるのか。迷っていれば両方の頬に手が辺り、そして軽く右側に捻られた。
「なぜ変わっていない。屋敷には俺の魔力が充満しているはずだろう? ティターシャ本人の力が強すぎるのか? だがここまで色が抜けているなら、すぐに入るはず……」
色が抜けている、って何のことだろう?
目が泳いでいては疑われてしまうかもしれないと視線は真っ直ぐと、奥に置かれた花瓶に固定する。本当は何かそれらしい理由を伝えた方がいいのかもしれないが、私には言い訳をするだけの知識がない。精霊についての勉強はティターシャのみが施されており、私にはてんで分からない。本当は一緒に受ける予定だったのだが、あの子が嫌がったのだ。そのため、私の知識は他の貴族令嬢よりも浅いかもしれない。本当に基礎中の基礎。幼児が聞かされるレベルしかない。もう少し前に入れ替わりが確定していたら即席でも知識を詰め込んだのだが、時間がなかった。
私の瞳の色が変わったのにも、私が知らない何かがあるのかもしれない。分からないことだらけだ。私が手紙を送ったタイミングであちらからも近況報告がくるが、そこでティターシャが見つかっていれば……。
早く本物に戻らないといつかバレてしまいそうだ。
特に目の前にいるらしい精霊王はティターシャを気に入っているように思う。目隠しを外したからと度々部屋を訪問されたらたまったものではない。早く帰ってくれないと強く願えば、その気持ちが伝わってしまったのだろう。精霊王は何かに気付いたように手を小さく揺らした。
「まさか……ティターシャ。俺の姿が見えていない、なんてことはないよな?」
「えっと……」
まさにその通りです、なんて言える訳がない。
視線を動かさずににっこりと微笑んでみせれば、私の頬からは熱が消えた。かと思えば、ドアはきいっと音を立てて空き、パタリと閉じた。
「精霊王、どちらへ?」
「ティターシャの魔力が抜けた理由を突き止める。お前達も手伝え」
「かしこまりました。ティターシャ様、何かご用がありましたらベルをならしてお呼びください」
「え、ええ」
お茶と軽食を置いてくれたトゥーリアはそう伝えると、頭を下げて立ち去っていった。
なんだか大事になってしまったようだ。お父様へ送る手紙に書く内容が増えてしまった。ふうっと小さく息を吐いて、早速ペンを手に取る。まだ目は完全に慣れていないが、早いほうがいいだろう。少し文字がいびつになっている自覚はありながらも、カリカリとペンを進め、封を閉じる。世話役のどちらかが次に来た時に運んでいってくれれれば、と思って避けたのだが、視線を逸らした途端、手紙がふよふよと浮き出した。
「え?」
「あ……」
「な、なに?」
「王の花嫁、いえ、変わり玉さん。こちら精霊王にお見せ致しますね」
初めて聞く声に自分の失態を自覚した。
まさか見張りがいたなんて……。
もしかしたらずっと、それこそ私がこの宮殿にやってきた時からいたのかもしれない。精霊の姿が見えないのは、先ほどの精霊王とのやりとりでバレてしまっている。だからこそ見えない見張り役としてずっと手紙を書く姿を見られていたのだろう。力を持たぬ私を嘲笑うかのように、手紙を回収した精霊は窓の外へと出て行ってしまう。
回収する暇なんてなかった。
「終わった……」
一人になった部屋で頭を抱える。
家も、国も。
下手をすれば、この瞬間に人類の未来は閉ざされた。
だがどうすれば良かったというのか。
目隠しを取る日を引き延ばせれば良かったの?
毎日健康に異変がないかの確認をされ、精霊王からの手紙を朗読され、抵抗する手段なんてなかったのだ。
開けられた窓から風が吹き込む。
そよそよと花の甘い香りを乗せたそれは私の桃色の髪をくすぐった。
ティターシャと同じ色の髪。
窓にうっすらと映る姿は妹にしか見えない。
今着ている新緑色のドレスだって精霊王が用意したものだ。
「死ぬ時くらい自分のままでいたかったなぁ」
呟いて、そうだと気付いた。
どうせ国が滅ぶなら。
どうせ死から逃れられないのなら。
私がこの部屋に残る理由などない。
まだ部屋に見張り役が残っている可能性はあるが、知ったものか。バレた時点で私がティターシャのふりをする理由はなくなったのだ。椅子から立ち上がり、クローゼットに手を伸ばす。中には一枚だけ、私のドレスがある。ティターシャと入れ替わる際に着ていく予定だったものだ。ベージュのエプロンドレスはティターシャが散々馬鹿にしたもの。けれど他の誰かの物ではなく、この部屋で唯一私のために繕われたものなのだ。借り物のそれを強引に脱ぎ捨て、慣れた服に腕を通せば、久々に『自分』に戻れたような気がした。
少しだけ開いていた窓を大きく開け放つ。
すると目の前には大きな木があった。ギリギリ手が届く場所まで枝が伸びている。木登りはしたことがない。けれどカーテンを破って、繋げたそれを地上まで伸ばすよりも木に飛び移る方が手っ取り早い。いつ精霊王の手のものがやってくるかは分からないのだ。
「ここで足を滑らせても、殺されるよりマシ」
誰かに私の命を託してなるものか。
スウッと大きく息を吸い込むと、窓枠に足をかけ、思い切り踏み出した。ほんの少し空を飛び、枝に着地する。不安定で、今にも落ちてしまいそうなほどゆらゆらと上体が揺れる。まるで今の私のよう。ここで落ちてしまえば、きっと二度と私は目を開くことはない。それがおかしくてふふふと笑いを零して、根元の方まで足を進める。迷いのない私の足取りは意外と安定してきて、枝の根元まで到達するのにさほど時間はかからなかった。ここからスーっと降りられたらいいのだが、どうやって降りれば良いのか。ぴょんっと落ちるべきなのか、木にへばりついて落下を待つべきなのか。ほんの数秒ほど迷ったが、せっかくここまで移動してきたのだ。木を支えに落下する方式を取ることにした。
「よし」
私の命を託すからよろしくね、と合図を送るように木をペシペシと叩く。そして左足を木に巻き付けた時だった。
「よし、じゃない」
「え?」
何かが私の腰を支えた。大きな手だ。私はこの少し高めの熱にも、低めの声にも覚えがあった。
「精霊、王」
捕まってしまったのだ。
迷っていないで、さっさと窓から飛び降りれば良かった……。
後悔した所で拘束は強くなるだけ。初めは手だけだったのに、今は両腕でホールドされてしまっている。
「落ち着け、ティターシャ」
精霊王からすれば、私はとんだ奇行娘だろう。けれど彼の登場によって私の心拍数は跳ね上がり、木に触れた手は小さく震えている。
このまま殺されてしまうのだろうか。
散々馬鹿にされて、我慢し続けた結果がこれなんて私の人生、散々すぎる。
ボロボロと涙がこぼれ、そしてずっと我慢していた言葉が口から漏れ出した。
「私はティターシャじゃない!」
言ったところで何にもなりはしない。むしろ自白をしたことで事態が悪化する可能性もある。
けれど一度吐き出した言葉はもう戻りはしない。堰を切ったように一気に流れ出す。
「私は妹の代わりに来ただけ。瞳だってついこの前まで真っ黒だったし、髪だってここに来るからって短く切って染めたの。精霊の姿なんて見えない魔力なしよ!」
まだ震えは止まらないし、恐怖感だって残っている。
それでも精霊王がいるであろう方向をキッと睨み付ける。
「殺すなら殺しなさい。私にはどうせあなたたちが使う魔法も武器も見えやしないんだから!」
不敬もいいところだ。腕が緩み、拘束が解かれるのを感じる。突き落とされるか、首を切られるか。魔法を使って木ごと焼かれるかもしれない。それでも私は目を閉じることはしなかった。
「なぜ、君に俺の姿は見えないんだ……」
正面から苦しげな声が聞こえる。
けれど答えは簡単だ。
私がティターシャではなく、魔眼持ちでもないから。
生まれた時から精霊王の妻になるどころか、姿を拝む権利さえ持たないのだ。
精霊王が今、どんな顔をしているのか私には予想もつかない。
きっとやっと手に入ったと思った女が魔力なしであったことに心底落胆しているのだろう。その声に少しだけ気持ちが落ち着いた。
「あなたの姿を見ることが出来る妹は今、少し旅に出ています。ただ行方が分からないもので、両親が探しに向かっています」
「ではなぜ君はここに来た」
「……私のことは煮るなり焼くなり好きにしてください」
「答えになっていない。俺が聞きたいのはなぜ君がここに来たのか」
「少し遅れるのに贈り物もなしでは失礼でしょう?」
冷静にならなければ、替え玉と素直に言えたのに。
少し落ち着いてしまった私にはその言葉を口にすることは出来なかった。
本当に、外れくじを引いたものだと思いながらも、私は再び家族を守る方向へと舵を取る。
「贈り物?」
「私には大した能力はありませんが、顔だけは妹と、ティターシャとうり二つなんです」
「俺が君を慰み者にするとでも?」
「私はあなたに贈られたお人形です。何をしても構いません。声を出すなと、部屋から出るなと指示を出して頂ければ私は置かれた場所に居続けましょう」
「俺は生きた人間でお人形遊びをするとでも思われているのか?」
「いらなければ捨ててくださって構いません。この木の上から放り投げるだけで、私は二度とあなたに不躾な言葉を吐くことはなくなります」
「っ」
視線を落として、地面を眺める。
綺麗に整備された芝生の他に、彩りを考えて植えたのだろう花が咲き誇っている。
こんな場所に死体なんて似合いそうもない。まぁ死体が似合う場所なんて墓地以外には思い当たらないのだが。
「庭が汚れることを心配されているのであれば、他でも構いませんが」
「なぜ君はそんなことを平然と言えるんだ!」
「私はあなたの機嫌を取るために運ばれただけにすぎませんので」
両親は何度も謝ってくれたし、私も納得してこの場にいる。
けれど私は所詮、ご機嫌取りのために売られた物にすぎない。
国のため、人類のために必要とあれば殺されろ。
それが私に託された使命なのだ。
ティターシャさえ逃げ出さねば大事になることはなかっただろうに。
尻拭いは同じ腹から同時に生まれてしまった私の役目。
しょうもない人間だなぁと我ながら呆れて、ハッと笑いがこぼれる。
すると目の前の彼は「なら」と小さく呟いた。どうやら私の処遇が決まったらしい。精霊王がいるであろう方向へ視線を戻せば、小さく息を吸う音がした。
「君がその気なら俺の好きにさせてもらう」
地を這うような声で宣言され、腹を括る。
小さく握った拳に爪を立て、心の中で大嫌いな妹にくそったれと最大限の毒を吐いた。
膝の裏に手を入れられ、身体は横抱きにされたかと思えばそのまま木の下へと落下する。
「っ」
抱かれているという感覚はある、だが私には姿が見えないのだ。ごろんと転がされて落ちるよりも怖い。
手は胸の前でがっしりと組んで、ひたすらこのまま最後にぼとりと落とさないでくれと強く願う。私の身長と同じくらいの高さを残して、ピタリと止まる。心臓はバクバクと脈打つ。なるほど。恐怖体験をさせた上で殺すという算段なのだろうと理解する。お人形遊びよりもおもちゃ遊びの方がお好みだったようだ。私にとってはどちらも大差ないのだが。
どうせ姿が見えないのならば、とまぶたを閉じる。
すると額の上に何か、生暖かいものが落ちた。かと思えばすぐにどこかへ消えていった。
なんなのかは怖くて確認出来ない。目をぎゅっとつぶれば頭上で男の声が響いた。
「そのまま俺が良いと言うまで目を開くなよ。誰の質問にも答えず、口を閉ざせ」
意味が分からないが、それが命令とあらば私に従う以外の選択肢はない。こくりと頷けば、彼は納得したように歩みを進めた。
「精霊王!」
「ゲートを開け。彼女を連れて精霊界へ戻る」
「ですが、彼女はティターシャ様では……」
「俺が認めた娘がティターシャだ」
「魔力適性がなければゲートに弾かれてしまいます!」
「適性ならある」
「彼女は空の瞳の持ち主だ」
「まさか夜と朝が分かれたとでも?」
「そのまさかだ。今の彼女は確かに朝空の瞳を持っている。そして、普段は夜空の瞳を持っていると思われる」
「そんなことがあり得るはずが!」
「夜空の方は未確認だが、今の状態はお前を見ただろう」
「それは……」
精霊王は指示を出しながらも足を進める。
ゆらゆらと揺られながら、会話に出てきた『夜空の瞳』と『朝空の瞳』は一体何のことだろうか、と思考を巡らせる。けれど一向に答えは出てこない。それよりも私にも魔力適性があるらしいことに驚きが隠せなかった。それでも顔色を変える訳にはいかず、精霊王の腕の中で大人しく眠ったふりをする。
「まさか人族が空の瞳の持ち主を隠していたとはな」
「逃げ出した娘はそれを知っていたのでしょうか?」
「さぁな。娘自身は知らずとも、ハイデレンス家や王家が知らないはずがない。人族の王に使者を送り、逃げ出した娘は見つけ次第確保しろ」
「かしこまりました」
私をティターシャの代わりにするつもりらしいが、それでも彼女の捜索を始める、と。
制裁でも加えるつもりなのだろうか。心配にはなってくるものの、私が考えたところで詳しいやりとりは国王陛下達が行うのだろう。私ごときが口を挟むことなど許されない。
自分の無力さを再確認しているうちに、ぎいっと大きな音を立てながら何かが開く。ドアだろうか? それもとても大きなもの。宮殿に入る前にはこんな音しなかったから、きっと門よりも大きいに違いない。どこのドアだろうかと考えているうちに、大きく身体が揺れた。かと思えば一瞬にして、私達をまとう空気が変わった。
おそらく精霊界に入ったのだろう。遠くでは音楽が奏でられ、その中に誰かの声も混ざり合う。
「寝所の準備は出来ているな?」
「ええ、もちろん。ですが随分とお早いお帰りで……。ティターシャ様のお身体は」
「予定より早く俺の魔力に適応したんだ。今晩にでも誓いの儀を行う」
「かしこまりました」
誓いの儀って婚姻の儀のこと?
ティターシャのように逃げ出さないように、さっさと式を挙げてしまおうということだろうか?
精霊王がいろんな人達に声をかけられている中、湧き上がった疑問はゆらゆらと揺られるだけだ。それからも沢山の声が私の頭上を飛び交い、一向に瞼を空ける許可が下りることはない。段々退屈になってきた。こみ上げるあくびを口内で殺し、そのまま意識を手放した。
「ティターシャ、起きろ」
「ううん?」
「まだ夜だが儀式を行う前に寝てもらっては困る」
「儀式?」
「そうだ、さほど時間はかからないから起きてくれ」
儀式って一体何のこと?
眠い目を擦ってみたものの、そこには誰もいない。
幻聴だろうか?
妹が逃げ出してからずっと気を張っていたから疲れてるんだな……。ここがどこかも分からないし。夢の中でも精霊王の声を聞かせることはないだろう。
「夢の中まで妹の代役を務めるつもりはないので。起きたらちゃんと働きます」
「寝るな!」
ゆさゆさと揺られながら、私の意識は睡眠の世界へと落ちていく。
ゆったりと身体を包み込むぬくもりが心地よくて、ふわぁと大きなあくびをすれば、精霊王の声が段々と遠ざかっていった。
「ティターシャが儀式の前に寝こけるなど前代未聞だ……」
「お疲れなのでしょう」
「寝ぼけた状態で名付けなど危険です。それに彼女の場合、ティターシャであるという自覚も精霊に対する知識も圧倒的に足りません。彼女と婚姻を結ぶというのならもっと順序を得て……」
「その間に元の娘が出てきたらどうする?」
「そう焦らずとも、ここにいる彼女の空が暗闇に閉ざされない限り、元の娘に私達の姿が見えることはありますまい」
「だが再び反転しない保証がない。ならば変わる前に名付けをすませ、俺の色を注がねばなるまい。彼女の意識がはっきりと浮上した段階で、ティターシャの魂をこちらの世界に定着させるための儀式を行う。こちら側に馴染めばいずれ、俺の姿も見えるようになるだろう。……やっと手に入れた花嫁を手放してなるものか。彼女は俺のティターシャだ」
ベッドサイドで執着が渦巻く中、私はすうすうと寝息を立てながら二週間ぶりの深い眠りに浸る。
夢の中に出てきたティターシャは、私のベージュのエプロンドレスを散々馬鹿にしたけれど、いつものような覇気はなく、彼女の瞳はどこか憐れみの色を孕んでいた。
本作はこれで完結しております。
企画参加作品のため、今のところ続きは考えておりません。
また連載に続けるための~とかではなく、こういう読み物です。
文中に色々と散らしてあるので、興味のある方は拾いながら読んでみて頂ければと思います。