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胎行路面電車

作者: kankisis

 右も左も分からない小学生だった頃。冷房の効かない体育館で終業式を終えたあと、私は一人ぼっちで帰宅途中だった。一人だけいたクラスの友達は、家族が車で迎えに来てファミリーレストランまで乗せて行ってしまった。勉強道具の詰まったランドセルを抱えるようにして、日々乗り降りしている駅まで私はよろよろと歩いた。


 炎天下、横断歩道の手前で信号機を見上げると、青が点滅していた。その足下、路面電車の駅を越えた先の歩道から、スーツを着たサラリーマン風の男性が急ぎ足で道路を渡ろうとしているのが見えた。駅には既に電車が到着していて、数人の乗客がゆっくりと乗車していく。私は渡るのを諦めて、次の路面電車を待つことにした。急いで帰りたいわけじゃない。ランドセルは重たいけれども、いつも通りのんびり帰宅すればいいと思ったのだ。


 一方、向こう側のスーツ姿の男性は駆け足で横断歩道を半分の所まで渡り、歩行者用の信号が赤になる寸前に駅のホームに上がった。一両編成の路面電車は彼を最後に乗せて、音を立てて発車した。彼の印象は、風貌含めて特別なものではなかった。でも、彼の事はずっと鮮明な記憶として頭の中に残っている。むしろ、今でも私は律義に信号無視をしないでいるけれど、あの時ばかりは信号が赤になる前に、重い荷物を抱えて駆け込んでしまえば良かったと悔やんでいるのだ。何台もの自動車が目の前を走り過ぎる。



 終業式の日は給食が出ない。昼ごはんを家で食べるまで空腹を我慢するつもりで、考え事をしていた。あの男性は、何をそんなに急いでいたのだろうと。自分みたいに次の電車を待てるほど暇ではないらしい。仕事だろうか。それが一番もっともらしい。普通はそうだ。では、寝坊をしたのだろうか。それとも、お昼休みが終わるぎりぎりまで食べ終わらなかったのだろうか。友達も何度か、給食を食べきれずにもそもそと一人で口を動かしていたことがあった。その友達は今頃、優しそうな両親とレストランでジュースでも飲んでいることだろう。……思考はまた、お腹が空く方向へと戻ってしまった。しかし、肩にかかるランドセルの重さはごまかされる気がしたのだった。



 信号が青になって、左右から車が来ていないのを確認し、慎重に駅まで渡った。誰もいないホームで待っていると、程なくして電車が来た。路面電車はスピードを出さないが、自分の性格に合って私はそれが好きだった。


 地元の子供が描いた絵。大きくひまわりが描かれた車体の中央の乗車口から乗り込む。乗客は誰もいない。珍しいと思った。でも、別にいつも混んでいるわけではなかったから、そこまでおかしいとは思わなかった。適当に席を選んで、腰を下ろした。扇風機の風を感じつつ、ランドセルも脇に置いて、路面電車が動き出す。暑さでぼうっとしながら、向こう側の窓を眺めていた。窓の外の景色は、目が眩む。ここまで陽射しが強かったのかと、当時の私は思ったはずだ。



「次は、――――」



 夏休みが始まるという感慨がようやく湧いてきたところで、まぶたを開けた。乗客は相変わらず一人もいない。もう一度窓の外に目を向けた。眩しさは感じなかった。それよりも、違和感は別の所にあった。見慣れた景色と違う。いつもの景色をいちいち意識して憶えている人はいなくても、それが違ったら分かるのが普通だと思う。不安を感じた私はランドセルを抱き寄せ、車両の前の方にある次の停車駅の表示を見ようとした。そこでようやく、何かが確実におかしいことに気がつきそうになって、それをごまかしたくて、立ち上がった。


「立ち上がらないでください」


 アナウンスだ。乗客は自分だけ。その私に注意した運転手に目をやっても、運転席に座る後ろ姿だけで、ぼやけた感じだった。前を向いているので顔は見えない。一度体重を乗せた足の力を抜いて、私はおとなしく柔らかい座席に腰を戻した。


 そわそわした気持ちはそれでも収まらなかった。背中側の様子が気になって身体を後ろにひねった。運転手に注意されたことが後ろめたかったのかもしれない。とにかく、私は自分のいる長椅子側の窓の外に目を向けた。見覚えは、あったはずだった。具体的な記憶としてではなく直感で、乗る方向を間違えたと悟った。路面電車は私の住む家から離れていく方向に進んでいた。


 その時のランドセルにぎゅっと強く食い込ませた指の関節の痛みは、はっきりと心に残っている。ただ間違えただけなのになぜかとても不安だ、と私は思った。いつの間にか雲が空を覆ってしまったようで、窓を通して見る電車の外は学校を出たときよりも薄暗い。外を見ている間にも、車と何台かすれ違った。歩道では日傘を差した人たちが歩いている。



 次で降りなければ。そう思って、降車ボタンを押した。待っている間はずいぶんと長い気がした。かいていた汗が乾いて風邪をひきそうだと思った。それくらいに肌寒さを感じていた。この電車は逆走している。


 ランドセルを抱えていつでも降りられるようにしていると、ブレーキをかけた車両はゆっくりと停止した。完全に止まるのを待って、席を立つ。前方の降車ドアが開いた。料金の表示板を視界に入れないようにして、前を向いたまま後ろ向きに電車を進めていた運転手の方も見ないようにして、恐る恐る進んだ。一瞬だけ目に入った表示板には見たことの無い文字が並んでいる。さっきからずっと、おかしい気はしていた。手遅れにならないうちに早く降りてしまいたいと頭では願っていても、あの運転席には近づきたくなくて、もどかしかった。


 寒気を抱えたまま、一歩ずつ足を出した。下を向いて進む。運転手はずっと声を出さない。降車ドアに近づくと、そこから生ぬるい空気が車内に流れ込んでいるのが分かった。思い切って段差から外に向かって飛び出した。そして駅のホームに足を着けた瞬間、無意識に息を止めていたことに気がついた。息を吸うタイミングを見失ったまま立っていると、背後で扉の閉まる音がして、電車が動き出した。



 ひび割れたホームの端で、枯れたひまわりが頭を垂らしている。忘れ物をしたと気づいたのは、私を置いて路面電車が動き始めた時だ。ランドセルを車内の、おそらく座席の上に置いたままだった。気づいて振り返ったときにはもう、去り行く車両を目で追うことしかできなかった。そのときのうかつな私は運転手の姿をガラス越しにはっきりと見たはずなのに、どのような見た目だったかよく覚えていない。まっすぐ伸びた線路の先は雨降りの雲が詰まったようで、どこまで線路が伸びているか私には分からなかった。とにかく、その先に行かなくて良かったと、わずかながら安心した。生理的嫌悪感とでもいうべき直感があの先に行くなと私に教えていた。


 車両は線路の先に呑まれていってしまった。外気は生ぬるいままで、気持ち悪い。ずっと人の気配はなかった。私は駅名を探した。どこかに書いてあるはずの駅名は、どこを見ても見つからなかった。それどころか、時刻表や広告の類も見当たらなかった。


 誰もいない駅。車道を渡った先のどちらの歩道を見ても人はいない。ひとりぼっちの小学生には、恐怖よりも寂しさが勝っただろう。夕方だった。いつまで待っても次の電車はやって来ない。ずっとしゃがんでいた。


 体感時間の長さのわりに日が沈まないのは何故だっただろうか。あのときの空は橙の色鉛筆で暗く塗りこめられたようだった。今にして思えば、太陽なんて最初からあの空には浮かんでなかったかもしれない。



 この駅から離れようと思い立ったのは、何かが変わる様子がないことに気づいてからだった。誰も通りがからず、空の明るさは不自然に同じままだった。空気も流れていかない。風がなく、動かない生温かさが服を通して身体にまとわりつくようで不快だった。ただ、ずっと前に路面電車の車両が飲み込まれていった濃い()()()()は、視線を向けるたびに輪郭のないその形を変えているようだった。それはひどく不気味だった。


 立ち上がって、駅を離れて歩道へ渡ろうと信号機を探した。しかし信号機は見当たらなかった。不安の中で、何も考えないのが精いっぱいだった。枯れたひまわりの葉が半袖で露出した肌に触れた瞬間、私は泣いて、走った。


 車道のアスファルトの上を駆けた。もはや自動車が向こうから走ってきて、私を突然はねてしまった方がまだましなのではないかという気がしていた。スニーカーのくぐもった足音は身体に吸収された分だけが聞こえていて、さながら重い油の中を走っているようだった。涙にぼやけた視界には何も映らない。廃墟とも言えない、誰もいない単なる街並み。



 どれだけ走っただろうか。ランドセルを置いてきたとはいえ、あの頃の私は現在の私と比べて体力が無かったから、あまり長くは進まなかったはずだ。幸いにして線路は道路から外れなかった。そうでなければ私は帰る事ができなかっただろう。線路をずっと辿れば学校近くの駅まで行き着くはずだと思いついたのは、走り疲れてゆっくり歩く速度まで歩調を緩めてからだ。しかしどれだけの距離を進めば辿り着くのだろうか? それは皆目見当がつかなかった。逆行する路面電車に乗っていたときの体感時間はそう長くはなかった。ただ、それに相当する同じ分だけ歩けば知っている場所に出るという保証はどこにもない。どこかおかしい状況でなら、なおさらそうだと分かっていた。それでも、不気味な時間の中で、このひたすら続く道路に埋め込まれた線路を辿らなければならなかった。



 休み休み歩いた。後ろはなるべく振り返らないようにしていた。後ろを見るだけで自分が帰るべき家から離れて行ってしまう気がしていた。何の根拠もなくそう考えていたが、今となってはそれが正しかったのか知る由もない。背後に何者かの気配を感じるようになっていたのは確かだ。その何者かのせいで、どうしても疲れてしまう。優しく話しかけてくるでもなく、私を追い詰めようと脅かしてくるわけでもない。私は怖がっていた。絶対に振り返るものかと、気づいた素振りを見せるものかと、小学生なりの決意をしていたはずなのに、どうしても我慢できなくなっていた。鼻水をすすってごまかした。それでもつのる不安はごまかしきれなくなり、疲れきった足腰と今すぐにでも駆け出したい恐怖心のアンバランスが転倒を誘発した。


 痛みが最後の後押しになった。噴き上がる感情は嗚咽となって漏れ出した。それ以上、立ち上がって進むことができなくなってしまった。なぜ自分がこんな目に合わなければならないのだろう、なぜ自分はこんなところで一人で泣いていなければならないのだろう、なぜ自分は真っ直ぐ帰って昼食を食べることができないのだろう! ランドセルも失くしてしまった、いざ帰宅しても母に叱られる。どうして――膝の擦り傷の痛みが泣き叫ぶ数秒間、私の思考は爆発していた。



 何かが肩に触れた。見知らぬ男の人の声が耳を撫でた。


「――――」


 その男の人が何を言っていたのかはもう忘れてしまった。二度と思い出すことはできない気がしているその言葉は、確かに私をもう一度だけ立ち上がらせた。私自身が驚いた。自分の意に反して、無意識に彼の姿を視界に捉えようとして振り返った。そこには何かがいたはずだ。私の枯れかけた喉は返答を不可能にしていた。


 それ以降、不思議とその存在は気にならずに歩き続けることができるようになった。空を見上げると、相変わらずまがい物の暗い夕方の景色が広がっていた。本物の空はもっときれいだったはずだと、そのときの私は確信を持って言えた。誰もいない街並み。どこまでも這うように続く線路。何もかもが嘘くさく感じられた。


 駅があった。少しだけ期待を膨らませた私だが、すぐにそこが目的の場所ではないと気づいて、取り返しのつかない失望を抱く前に期待感の風船を突いてしぼませた。未だ見慣れた風景ではなかった。近くに学校が見えるというわけでもなかった。その駅には同じようにひまわりが生えていた。枯れたひまわりだ。頭の重さに耐えきれず倒れてしまっている。私についてきていた何者かは駅のホームに上がって、私が駅を通り過ぎてもそこに留まって、二度と私についてくることはなかった。



 進み続けると、次第に、最初は聞こえていなかった音が(電車が去ってからずっとこの世界は音を出さなかった)聞こえるようになってきた。それは、路面電車が線路の上を進む轟音に似ていた。しかしそれは、特定の車両や車輪が接する線路が発しているというよりは、空間全体から鈍い音響が滲み出ているかのようだった。耐えられないほどではなかったものの、私にはどことなく不快だった。道を進めば進むほど、その音響は私を捉えて生温かい大気と一緒に心と体を絡めとろうとしているように思われた。


 その頃には線路の通っている道路と交差する道への出口が全て、路面電車が進んでいった先のあの謎めいた()()()()で塞がれていた。線路を離れてそこに入っていこうとする気は一切起こらなかった。何が起きるともしれない不可思議な障害物を潜り抜けるよりも、確実に私を連れてきた線路を辿った方が良いという考えに疑問を差し挟む余地はなかった。何より、本能的な強い忌避感が私を押し支えていた。あの先へ行ってはいけない。きっと良くないことがあるに違いない。そういった単純な話だった。



 時間の感覚はとっくに無くなっていた。見回しても時計は見当たらない。いくら歩いても夜にはならないのがかえって嫌だった。代り映えしない空は何を待っているのだろうか。


 次に見えた駅は、同じく私の望みを叶えてくれなかった。ひまわりは生えていなかったけど、ホームの脇の道路の低いところに、種が散らばっていた。


 私を取り囲む轟音に加えて、生臭さが鼻の奥に届く。大泣きしたあとのひどく詰まった鼻腔に届いたのだから、相当なものだったはずだ。それはなぜか、左右でうごめく雨雲に似た()()()()や、前後に伸びる道路からではなく、私自身から立ち昇ってくる。そうとしか思えなかった。いよいよおかしくなってしまった気がして、様々な感情が入り乱れた強烈な高揚感がその時の私を支配していた。膝から滲んだ血を垂らしたまま、ほとんどスキップに近い状態で、声にならない声を上げて線路の上を早歩きしていた。


 私を誘う()()は汚れた綿の壁のようになって、線路のすぐ両脇までに迫っていた。車道はそのせいで歩くことができない。二組のレールだけがそのときの私の指針であり、狭苦しい通路として機能していた。黒ずんだ両脇の壁にしては、視界は明るかった。緩やかにレールは曲がりくねり、私の喜びは進むにしたがって極大まで膨らんでいく。ほとんど未来予知のような形で、次に踏み出す一歩、そのまた次の一歩が先走るように意識に届く。もはや眩しいほどだ。海のイメージが沸き起こる。広大な砂浜が目の前に広がる。



 スローモーションの喜びの中で、警笛が鳴らされた。遅れて、向かってくる一両の路面電車が目に飛び込んできた。やはり後ろ向きに進んでいる。私が進むレールとは違う別のレールを走行しているので、私は避けなくてもよかった。もう私にはこんなおかしな路面電車なんて関係ないんだ。もう大丈夫なんだ。そういった考えで頭はいっぱいだった。


 車両とすれ違いざまに、側面の窓越しにちらりと見えたのは何だっただろうか。それはたまに、今でも目覚める前の夢に見る。長椅子に座る母の後ろ姿だった。それを目にした次の瞬間、私は陽の光を受けて、学校の最寄り駅のホームに立っていた。



 おかしかった。夏休みだというのに、周りは私と同じ小学生で満たされていた。電車を降りてからの信号待ちだ。その中に、クラスの友達がいた。話しかけようとして、その友達がびっくりした様子で私のことを見つめているのに気がついた。私の名前を呼んでいる。周りの人たちがそれを聞いて、何人かは私の方を向いた。何か、噂話をしている。返事をしたくても喉が枯れたままで、ろくに声を出せない。私は困惑した。


 始業式の日だという。友達には怖がられた。それから他の同級生たちには、おとなしかった私の性格がすごく明るくなったと言われるようになった。その後の、今の両親が言うには、私は夏休みの初日からずっと行方が知れなくなっていたのだそうだ。心配した母はその日から私を探し続け、何の手掛かりもないまま消耗していった。母は私を必死に探し続け、いつの日か誰の前にも姿を現さなくなっていた。私には気づかないまま、母は行ってしまった。すれ違ったあの瞬間に声をかけていれば、母は気づいてくれただろうか? どちらにしろあのときの私は声が出なかったのだから、無理だったか。


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